中津川市/古文献アーカイブ

中津川市史 中巻Ⅱ

第五編 近世(二) -関ヶ原戦から明治維新まで-

第五章 林業

第一節 林政と林業経営

二 林野制度

領主が直接管理・経営する山林は、いずれの領内にもあったが、その名称は必ずしも一定していない。多くの場合、御林或いは御山と呼ばれていることが多い。
(1) 岩村領 岩村領の直接管理・経営する山林は、御林と呼ばれ、御城山をはじめ領内に八か所あった。
 阿木村には阿木山に一か所あったことがわかり、その御林も元文五年(一七四〇)には阿木村、他の村むらの村役人や杣(そま)が、役所へ差し出した証文によって留山になったことがわかる。その内容は「阿木村御山之儀 檜椹(さわら)拂底ニ付今度御留山被仰付候場所壱ケ所……」と留山が定められ、留山においては今後諸材木、枌榑(そぎくれ)等一切出さない。若し違反する者があれば、どのような処罰でも受けるという一札を、阿木村、広岡新田、福岡新田の枌杣・角杣全員が連署押印のあと、さらに阿木村・青野村・両伝寺村・川上村・福岡新田・広岡新田の庄屋・組頭・百姓代全員が、留山には角杣・枌杣は入り込まないよう、また百姓が薪や笹苅に行っても檜・椹は勿論、御用木は伐り取らない、苗木も大切にし、火の元には気をつけ、若し違反する者があれば本人は当然、私達までどんな処分でも受けるということを付け加えて岩村領役人に誓約書を出している。

Ⅴ-2 瀬戸村御立山絵図(植松家所蔵)

(2) 苗木領 苗木領では領有林として指定した山林に御立山・御林といわれる山林があった。天保一一年(一八四〇)の苗木の村絵図には高峯山の東、瀬戸村の北方の山が御立山として指定されていたことがわかる。日比野村・瀬戸村についてはこれ以外はっきりしない。こうした村は伐採を禁止されており、管理については村の負担によって行われていた。
 ほかに鷹の巣を造る山林を特別に保護し、立木・下草まで採取を禁じた。これらの山を巣鷹山(御巣山)といった。こうした山はいずれの領内にもあったが、山は深い方が適しているので、苗木領では裏木曽に続く福岡の樫原山が指定されていた。
(3) 尾張領 尾張徳川家の管理経営する山林は、すべて御山と呼ばれて次の二つに区分される。
 ① 留山 良材の生立する山林で、平時伐採を停止させている山で、湯舟沢山は全山が留山となっていた。湯舟沢山が規制を受けた最初は寛永二一年(一六四四)で、土居・榑・役木の採取が禁止され、次いで寛文五年(一六六五)には留山の制がしかれ、一切の伐採が禁止されることになった。
 湯舟沢村はどこが留山になっていたかをみると、延享二年(一七四五)上松(あげまつ)材木奉行よりの絵図面があるのでこれによると、川表・向山・霧ヶ原・川並・味噌野・小森附近の草山になっている以外は全部留山に指定されていることがわかる。

Ⅴ-3 湯舟沢留山境絵図

 ② 御巣山 「御触状写帳」(市史中巻別編)延享二年(一七四五)の覚書によると、湯舟沢村の巣山は、都合四か所鷹の巣山が設けられていたことがわかる。
 また落合には寛政元年(一七八九)の「中山道筋道之記」によると〝一里塚あり往還登り右之方半道入ったところ〟巣山があったとしている[巣鷹山参照]。
 ③ 留山・巣山以外の山を明山といった。村民は停止木(ちょうじぼく)(檜(ひのき)・椹(さわら)・槇(まき)・明檜(あすなろ)・鼠子(ねずこ))遠慮木(公用に供し得る良材)以外は、家屋用材・土木用材・薪等として伐採を許された山であるが、湯舟沢村は惣山留山で明山はなかった。