高山市図書館/高山城下町・飛騨国絵図・高山市史街道編

高山市史 街道編 上

第二章 明治~大正時代の街道図、附図

平湯街道、高原道ルート図(別図有)国土地理院長承認 平26部複、第72号
2-5-1 平湯街道、高原道ルート図(別図有)国土地理院長承認 平26部複、第72号


(1)はじめに
 中世~江戸時代において高山から長野への街道は主なもので、南から ① 下呂・中津川ルート ② 開田ルート(長峰峠、藤澤峠)、③ 野麦峠越えルート、④ 安房(あぼう)峠越えルート、⑤ 中尾峠越えルートの五ルートが開かれていた。この図では ④ 安房峠越えルート、⑤ 中尾峠越えルートについて記述する。また、平湯(ひらゆ)から船津(ふなつ)までを結ぶ「高原(たかはら)道」と呼称される道(鎌倉街道とされている)についても記述する。
 
(2)高山~平湯
 高山から町方(まちかた)に至り、県道は坊方(ぼうかた)に東進しているが、町方で今井橋を渡って殿垣内(現在の北方・きたがた)、法力を通って瓜田(うりた)で県道に合流する道もある。殿垣内を通る道は日当りが良く、江戸時代はこちらの道が本道であったらしい。川岸の街道の中には夏道、冬道という使い分けがあるところもある。夏は日陰で涼しい道を選び、冬は日当りの良い道を選ぶことがあった。
 根方(ごんぼう)日面(ひおも)へと進み、駄吉(だよし)では岩井、瀧方面からの道とつながっている。旗鉾(はたほこ)では平金(ひらがね)鉱山への道と接続している。平金鉱山は、明治二十七年に金沢市の横山隆興が所有、明治三十年から大正五年頃にかけて銅鉱山として栄えた。横山氏の郷里である金沢市の名をとり「金沢町」「北海道」と名づけられた鉱山町が作られていた。
 久手を過ぎると平湯峠、平湯に至る。

2-5-2 平金鉱山

(3)乗鞍岳
 明治末における乗鞍岳への登山ルートがわかる。
 ①平湯大瀧から大丹生嶽~頂上室堂
 ②岩井谷から平金布引瀧~頂上室堂
 ③平金を過ぎたところから丸黒山~千町ヶ原(丹生川、朝日)~頂上室堂
 ④朝日の九蔵~千町ヶ原頂上室堂
 ⑤高根の橋場~頂上室堂
 ⑥野麦~頂上室堂
 ※長野県側からは大野川、白骨、中ノ湯の三箇所からのルート

2-5-3 乗鞍岳

(4)平湯~安房峠~島々~松本
 高山から長野県への道を見てみよう。
 江戸時代の江戸街道は野麦~川浦~寄合渡(よりあいど)~薮原のルートであるが、明治になると飛騨は筑摩県に統合されたことから寄合渡から角ヶ平(つのがだいら)、島々~松本への道がさらに整備されていった。江戸時代におけるこの道は山道ではあるが、「善光寺道」として利用されていた。
 
〈長野県側の史料「『歴史の道調査報告書Ⅵ~Ⅹ』長野県教育委員会 昭和五七年」より〉
 
 この報告書(一~六頁)では『信府統記』を引用して記述がある。「松本より飛騨ヘノ道程」には「本道が松本~薮原~寄合渡~野麦~上ケ洞~山口~高山、山道が松本~稲核~入山~角ヶ平~大野川~(安房峠)~平湯~高山とされている」とある。松本から高山へは薮原経由が本道、安房峠、平湯峠が山道として、江戸時代中頃に通行があったことがわかる。
 また、武田信玄は永禄二年(一五五九)、七年(一五六四)の再度にわたって松本を基地にして飛騨へ兵を進めた。船津を占領し、武田の配下となった江馬氏は、双六谷から鎌倉街道といわれる山道を通って越中へ進出し、新川郡を天正六年(一五七八)まで支配している。武田勢の進んだ道は前述の『信府統記』にある山道である。
 安房峠越えの道は近世初頭から中頃までは交通量が多かったが、その後利用者が減り、難所が多かったので寛政二年(一七九〇)に飛騨側の平湯口留番所を廃して通行を禁止した。
 本地図の県道は、平湯~安房峠~中ノ湯沢渡(さわんど)前川渡~奈川渡~島々~松本への道程となっている。
 
(5)平湯~栃尾~中尾~中尾峠~上高地
 平湯から「高原道」栃尾まで進み、東に折れて中尾集落、中尾峠上高地に至る。中尾峠は焼岳のすぐそばを通るので、焼岳の噴火により閉鎖されることもあった。(上巻第一章一〇九頁参照)上高地からは東方の明神池の方に進み、そこから南へ徳本(とくごう)峠を越えて、東方の島々谷南澤方面へ進む。徳本峠から南下して水殿川国有林を通る小径もあった。
 また、金森氏に攻略されて信州に逃れようとした松倉城主三木秀綱は、夫人と共に中尾峠を越えて上高地に着いた。そこで、夫人と別れ、夫人は徳本峠を越えて高々谷を下り、土民に殺されたと伝えられる。島々には夫人の霊を祀る「秀綱社」がある。夫人は波田の城主春日淡路を頼ろうとしたらしく、波田の森氏は三木氏の変名と伝えられている。
 秀綱は中ノ湯から沢渡大野川を通って木曽福島に向ったが、途中の角ヶ平で土民に殺されてしまったと伝わる。角ヶ平には秀綱の霊を祀った神社がある。秀綱は、萩原の禅昌寺(下呂市萩原町)の親戚に当る木曽福島の興禅寺を頼ろうとした。(『歴史の道調査報告書Ⅵ~Ⅹ、野麦道Ⅸ』二頁より)

2-5-4 上高地

(6)平湯~船津町
 平湯から高原川沿いに北進し、栃尾で西に折れ、今見(いまみ)、田頃家(だごろけ)、笹島に至る。笹島からは播隆上人が開いた笠ヶ岳への道が残る。さらに西へ進み、長倉に至る。長倉の対岸には古橋からトヤ峠を越えて五味原(丹生川町)に出る道がある。進んで見座からは、本郷に進んで駒鼻峠を通って呂瀬(ろっせ)、折敷地(おしきじ)に至る道と、本郷で分かれて金山方面、十三墓峠(大坂峠)方面に至る道がある。
 見座から高原道を西北に進むと、麻生野、船津町に至る。