NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

■岐蘇林友 廿周年記念號(第百四十四號) [翻刻・ルビ・注記] 

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          吉 川 真 夫(注38)
   第 一 場(和蘭(オランダ)サラダム一造船所にて)
ペテロ皇帝(大工に変装し)オイ俺が此処(ここ)を立去る前にお前に俺の秘密を話そうよ。
スタンミッツ じゃあお前は何処かへ行かふと思って居るのか。
ペテロ うん俺はもう国を出て12ケ月だ。そして船の建造に就ては相当の智識を得た。それが又自分が此処へ来た目的さ、だからもう国へ帰るべき時だ。
 
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スタン 吾々の主人ヴァンブロックはお前が居なくなったら悲むだろう。此の工場では一番勤勉なお前だもの!そうして!俺はどんなにつまらん寂しい者になるだろーと云ふのは!ペテロよ!俺はお前が大好きなのだ。
ぺテロ おれもお前は好きさ。
スタン ペテロよ、おれは思ひ切ておれの秘密を話そうか知ら。
ぺテロ 何だと!大丈夫何も恥づる様な事は為(し)た事はないだろう。
スタン いや辱(はじ)る様な事ぢやない。然しおれは可成(かなり)に恐れて居るのだ。ぢや云はうか、おれはモスコーで生れた者だ。
ペテロ そうか、モスコーで生れたからとて何も罪はない。加之(しかのみならず)其事が何もお前の欠点と云ふ訳でなしさ。
スタン そうぢやない、まあ聞け事の起りは斯うだ。或る日一軍隊がおれの生れた家近くに駐軍した。其指揮官は直ちに我輩に目を付けた。そして拙者の風采(ふうさい:みなり)の堂々たるのに驚愕(きょうがく)したまではよいが、おれを其軍隊の一員にと要求した。
おれは拒絶しようとした、然し彼の曰(いわ)く、あのぺテロ皇帝は(お前と同名だな)特別におれに対して役目があるのだから、若し拒絶したが最後、犯罪者と見作(みな)すと云って直ちに其指揮官は鉄砲を我輩の肩に載せて伴れ去った。
ぺテロ えゝ、お前は軍籍にあったのだ!
スタン 軍籍!そりやまあ、そう云はざるを得ない。でおれはいつも独者(ひとりもの)で自分勝手で、又意に反した様な命令にはとても耐ゆる事が出来なかった。
ぺテロ(横を向いて) そーだ!そーだ!此奴(こやつ)は逃亡兵だ!
スタン とは云へ、おれは久(なが)らく堪へ忍んだ。遂に12月の寒い朝が来た、丁度夜中の3時だつた。心持ちの良い温い睡りの最中に叩き起され、吹き荒むあの物寂しい塁壁の一角に立って衛兵勤務をやらせられたのだ。あの雪中に、余り惨酷じゃないか。
ぺテロ お前は温い床の中に居たかったに違いない、充分察する。
スタン おれは温くして居る事が出来ないから、鉄砲を投げ出して置いて歩き始めた。それから走り出した、それから…………お前は本統(注39)に思ふかどうか? ………
走り続けて止まって見たら、前哨(ぜんしょう:見はりの兵)から5リーグ(注40)も離れて居た。
ペテロ そうか、ぢや逃亡兵だ。
スタン 逃亡兵? お前は此れを逃亡兵呼はりするのか? そうだ矢ッ張(やっぱり)考へて見れば逃亡兵と云っても不思議はない。
ぺテロ お前承知だらうね、若し見付つた時には銃殺される事は?
スタン 其んな考へも持て居る、実は其時そう思った。それから、自分の位置から5リーグ位離れたと云許(いうばかり)で殺されるのも割に合はないと思ってサラダム指して逃げた。そうして此処に居る様な訳だ。
ペテロ 是は困た事だ、実際!そして若し彼の市長が通知を受けた
 
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 時には…………まあともあれ、お前の秘密は大丈夫、おれが引受ける。
スタン おれはお前を疑はない、と云ふのは、お前も同じ様な困窮者ぢやないかと思ふ。
ペテロ おれが?馬鹿な。
スタン 兎に角(とにかく)お前には全く不思議な事がある。然(しかし)ながら、まあおれの秘密は守るね?
ペテロ オー!大丈夫。
スタン 若し露(ロシア)皇帝の配下の耳へでも入るものなら大変困るからね
ぺテロ 露皇帝ぺテロはそれに就ては、今彼が知って居るより以上は知らないだろうよ。おれの引受るからには。だから慎れるな。噂に依れば皇帝自身が自分の位置から離れるのが好きだと云ふ事だ。
スタン ハヽー、皇帝が?
 ぢゃ何もおれに逃亡したからとして叱言を云ふ資格はない……え?
ペテロ とは云へお前は警戒しなくちゃいかん。噂では彼の如何なる事でも発見する手段があるそーだ。余り高を括(くく)り過るな。
スタン どっこい皇帝は露西亞(ロシア)にあり、我輩は和蘭(オランダ)にあり。お前さ
へ告げ口しなけれや危険は絶対になし。
ペテロ オイオイおれを叛逆人(はんぎゃくにん)にするのか?
スタン そうぢゃないペテロ、然し若しおれが逃亡兵として此処で引上げられる様な事があれば…………おれが自分の秘密を話したのはお前一人だからね。
ペテロ 皇帝位なんだい!
スタン そう云ふ彼は立派な人間だ、ペテロ大帝だ。若しお前が彼の事を悪く云ふならおれは承知しない。
ペテロ オーそうか!そんな訳ならもう何も云ふまい。
   第 二 場
スタンミッツ さあお母さん、私はモスコーにはもううろうろしては居られません。私は御別れして和蘭へ帰って又仕事を為(し)なくちゃなりません。命がけで私は帰らなければならんのです。
スタンミッツの母 あゝ!若しお前が逃亡などしなかったら今頃は伍長だものを!
スタン まあお母さん、私は私の意志に反して兵士にされました。そして私は軍人生活を見れば見る程其生活が嫌になったのです。貧(まずし)い日雇大工ではありますが、私は今少くとも自由で独立であります。若しなあたが私と和蘭へ御出でになるなら、私の給金は御委(おまか)せしますし、家庭の管理も御願ひしたいものです。
母 私はお前の手足纏(てあしまとい)になる許りだ。お前ももう間もなく結婚もするだらうしね、のみならず古い住家を捨てゝ去ると云ふ事は
 
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 生て居る中(うち)は私もしたくないからね。
スタン 誰か戸を叩いて居ます、お待ちなさいお母さん。私!隠れますから。
 (ペテロ大帝変装にて入り来る)
ペテロ 何だいオイ!仲間!隠れるんぢやないよ!襖の蔭から出ておいでよ!おれが通る時、窓からお前を見たよ?
スタン まさか? ペテロだ、おれの昔馴染だ。握手…愛人 お前モスコーに居るとは如何(どう)した訳だい……… 此んな内地で造船でもあるまい。
ペテロ いやそれじゃない。セン卜ピータースブルグ(注41)でさ、皇帝が造られつゝある新都会でさ。
スタン 皇帝は今モスコーだそうだね。
ペテロ そう、帝は今朝此の街を通られた。
ス夕ン そうおれも聞た、然しおれは拝顔しなかった。時にオイペテロ、如何(どう)しておれがわかったい。
ペテロ うん、偶然お前のお母さんの表札を見たので思い付いたんだ、宮殿へ帰てから。
スタン 宮殿……
ペテロ そうさおれはいつも泊る所を宮殿と云ふのだ。それがおれの癖なんだから。
スタン お前は妙な面白い奴だったからな。
ペテロ 今云つた通りスタンミッツ夫人は、おれの昔仲間の者の母か伯母に違いないと思て、此んな風をして来たのさ。
スタン ハヽ確かに変装だ、紳士の変装だよ。ペテロ何処で其んなに良い着物を見付けて来たい……
ペテロ 差控へよ、是れ!
スタン オイそんな風な冗談はもう云ふな、確かに半分おれを嚇(おど)かして居るね、恐ろしい調子で差控へよ!なんて。
 然し乍らそれで訳が解った、感謝する。お前の昔友達の事を尋る事が出来ると思って訪ねようと立止り、そして窓から覗いたんだね。
ペテロ 嗚呼!スタンミッツ、一緒になってヴワンブロックの造船所で沢山の材木を切ったものだな。
ス夕ン 随分やったなー、どうしておれとサラダムヘ帰らないのだ……
ペテロ おれはセントピータースブルグの方が良い賃銭になる。
スタン 若しおれが自分の位置から遠く歩いたと云ふ廉(かど:理由)で調べられると云ふ心配さへなかったら、お前と一緒にスブルグヘ行くのだがな。
ペテロ 冒険を犯して此処へ戻て来るとは、どうした訳かい……
スタン まあ良く聞て呉れ。此の老母はひどくおれに会ひたがった、そしてのみならず此処に恋人が居るのだ。ペテロ笑ちゃいけな
 
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いよ!そしておれを待って居たのだ。
だが哀(あわれ)な事には彼女を伴れて一緒に帰ると云ふ事は貧乏でとても出来ない。然し来年は若し幸運が続いたら帰って来て結婚する心算(つもり)だ。
ペテロ 何、若しおれが密告すれば?
 おれは一寸(ちょっと)したお金が貰えるな、逃亡兵を摘発したと云ふ廉で。
スタン 其問題に就ては冗談御断り、老母がびっくりする。ぺテロオイ、おれはお前に会て非常に嬉しい…………ヤア!…………門口に兵隊! 如何(どう)したのだ… 士官?
 ぺテロ失敬、お前と別れなけりやならぬ
ペテロ 止れ… おれは本統の事を云ふ、彼等は皆おれの友達だ。
スタン オー!若しそんなら止まろー。
 然しながら彼の一人の奴は、おれの昔の指揮官にそっくりじゃないか!
   第 三 場
士官 陛下セントピータースブルグからの急信にて、陛下即刻の御披見(ひけん:開いてみる)をとの事です。
母 陛下!
スタン 陛下!陛下て何の心算(つもり)だろう………
士官 此れ馬鹿共、此の御方は皇帝なる事を知らんのか!
スタン 何…エー…此が…馬鹿な…
 此は私の友人のぺテロです。
士官 膝まづけ、ぺテロ大帝露国皇帝だぞ。阿呆者(あほうもの)…
母 オー…陛下陛下…此の忰(せがれ)を殺し給ふ。忰(せがれ)は何も知りませんでした知りませんでした。只一人の忰です、鞭(むち)打つともどうか命は御助け下され…
スタン お母さん冗談云ひなさるな、此は只ペテロの悪戯(いたずら)です。ハヽハヽヽ
 なかなか味をやるね。そしてお前の読んで居るのが急信かい…
士官 馬鹿者… 何故陛下に差出口(さしでぐち)する……
スタン またもおれを馬鹿呼ばりする、無遠慮だとは思はぬのか。ぺテロ、お前の友人を外へほうり出しても拘はないだろうね。
士官 ハー…よく見たら思ひ出したぞ。オイ皆で此奴を捕へよ…彼奴は逃亡兵だ。
スタン おれも終だ… ぺテロは恰(あたか)も何事も起らないかの如くにすまし込んで居る。
母 私は途方に暮れました、どうか士官様哀な忰を御許し下さい。
士官 彼は軍法会議に廻され、銃殺されなくちゃならん。
母 オー…神様よ… どうか私の忰の助る様に。
ぺテロ オイ士官、其囚人には特別に役目がある、彼を放してやれ。
士官 陛下の御意志は絶対的です。
スタン(横を向いて)また陛下…一体全体如何(どう)したんだろう……そ
 
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う云へば思出す事がある。丁度和蘭(オランダ)を発つ時に評判だったが、露国皇帝は或る造船所で働いたとか云ふ事だ。ヒョットするとペテロが皇帝かも知れん………
ぺテロ スタンミッツよ、お前は我が秘密を握た。
スタン すればお前は……………………
ぺテ口 帝王だ… 起きなさいお婆さん。貴女の息子男爵スタンミッツは無事です。
母 男爵スタンミッツ……
ぺテロ 朕(ちん:われ)は彼にスブルグの造船所の監督を依頼する。まあ聴け両人とも明日はスブルグヘ出発する様用意せよ。スタンミッツ男爵はあの恋人をたった今夜、男爵夫人としました。同伴する様(よう)。朕は自身出席を要する用務がある、左(さ)なくば停まって結婚式に列席する心算なれども、さあ此処に財布がある、明朝秘書官は辞令を持ち来るべし。   さらば…
スタン オー… ペテロ、ぺテロ、陛下よ…陛下… 私は非常な混乱の中にあります。
母 膝まづきなさい、スタンミッツ男爵、ス夕ンミッツよ、お坐りなされ。
スタン 何………吾が昔の友人ぺテロに!
 彼といつも相撲を取った、お恕し下さい陛下…………友人ぺテロ…
 ペテロ陛下、私は信ずる事が出来ません、総てが夢の様な気がします。
ぺテロ ハハ… 左様(さよう)ならスタンミッツ… 吾々は又明朝会ふ、
 妻君に宜しく。(退場)
スタン 士官君、君の言った軍法会議も執行されそうもないね。
士官 男爵、私は閣下の従僕であります。
 男爵よ、若し機あらば私に就て陛下に然るべくおとりなしを御願します。
 閣下 さらば      終り   1921、9、30