NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

■岐蘇林友 廿周年記念號(第百四十四號) [翻刻・ルビ・注記] 

            画像24
          門  田  生(注37)
真に生きんとする人にとっては生きると言ふ事、それは痛ましくも悲しく淋しいものである。人生とは悲痛より悲痛への行旅(こうりょ:旅人)ではあるまいか。
春の夜の甘美な情緒に陶然と醉へる時、ヒラヒラと散る花片の熱せる頬を撫して(ぶして:なでて)地に委する(:すておかれる)を見る時、其処(そこ)に花の悲痛なる運命と人生のはかさを感する。春宵朧月(おぼろづき)の柔かい光りを身に浴びて瑠璃(るり)の盃(さかずき)を手にし、美姫(びき)を侍(はべ)らせて弦歌さんざめく上に、暫(しば)しは真なる自己の声を聞かない。しかしやがて歓楽にも倦(あ)き、云ひ難い哀愁の襲ふ時、楽声の杜(と)絶へて寂寞(じゃくばく:ひっそりしてものさびしいさま)となった一刹那(せつな:瞬間)、恍惚(こうこつ:うっとりするようす)から醒(さ)めた時、重い憂愁に囚(とら)はれはしないか。
この憂愁(ゆうしゅう:うれい、悲しみ)は人生の真なる意義に到達せんとする努力、渇望より来たる声である。
人々の多くは悲痛を恐れる、そして逃避して居る。若し内から真なる声が囁(ささや)きかけた時、その憂愁を無理にも押隠して酒で誤間化(ごまか)さう
 
  (改頁)
 
とする。その結果はたゞ魂の荒(すさ)ぶばかりである。この自己の内的生命のきざしは、そんな安価な偽瞞(ぎまん)で忘れ得る程弱いものではない。もっともっと深い所に強い根拠がある。
永遠の過去から現在に至る迄に生を保持せんがために、蔽(おお)はれた霊明の嘆きであり、有限の生より永生の道を求めんとする切なる叫びであり、不自然な現在より自然に帰らんとする声である。いろいろの事で痛ましくも傷けられた心が血塗れになり乍(なが)らも、尚自然へ本性へと叫ぶ悲痛なる声であるけれども、この魂の囁きは何人もが聞き得ると言ふものではない。無自覚の幸福より自覚した不幸へと辿(たど)り行く人にのみ感じらるべきものである。彼の浅薄な人生観に立脚し、皮相な思想に支配せられて外部活動にのみ執着して居る人々には、華美麗艶(れいえん:美しくなまめかしい)しかも毒々しい眩惑(げんわく:まよわすこと)する様な色彩に彩られた世界を憧憬して、形名的生活に尊貴なる一生を人生の道化役者として放笑の間に終る。
斯うした人々には浅薄な喜悦と軽俘(けいふ:うわちょうし)な快楽があるのみで深い内省がない心の底の底より溢れ出づる感謝歓喜はない。
果して是等の人々が恵まれたる人々であらうか。人々はこの世に生を享(う)けた瞬間から悲痛な運命の萌(きざ)しを認める。
栄光の輝く所其処には灰色の零落がある。
生の後には恐ろしく冷たい、そして真黒な死が覘(のぞ)いて居る。華かな歓喜悦楽の背後には重々しい寂寥(せきりょう:ひっそりとしてものさびしいさま)が犇々(ひしひし:ひしめいて)と迫って居る。
人々はそれ等を知り過ぎる程知って居る。そしてそれ等のものに見舞はれる事を恐れる。しかし何処まで自分自身を欺瞞(ぎまん:あざむく、だまず)せんとするのか、而して有限の死に対して永久の不死を願ひ、限りある栄光歓楽に向って離れ難き執着を感じる。だが結局帰省する所は一である。人は歳月の谷間へと下る。下りきった所其処には永生?将又(はたまた)死が控へて居るといふ事を知り乍らも、尚絶ち難き愛着に煩はされて居る。物質的主義に生くる者で死を自覚したものが、尚生を希ふ是(これ)非痛の極である。更に又逃れんとして悶(もだ)えより一層暗黒な世界へ彷徨(さまよ)ひ行くとは。世間並の安価な快楽・自己欺瞞、其処に真なる慰安がありはしない。
だが淋しい哀音(あいいん:悲しげな音色)の啜(すす)り泣きを耳にして浮華(ふか:うわべばかり華美で実のないこと)な夢から愕然(がくぜん)と醒(さ)めた時、今まで知らなかった世界が展開して人生の厳粛なる一面に触れる。そして周囲を心静かに見廻した時、限りない寂しさと浄化された生に対する執着を感じる。この厳粛な寂寥を味得(みとく:内容をよくあじわって理解すること)しない人は、生れたるが故に生きるといふに止まって、其の歩み行く道にはしっかりとした自信がなく、其の生が無意味に終る。しかしこの人間らしい淋しさといふものは実に淋しいものである。だがそれをじっと抱きしめ堪え忍んで自己内部の声に耳傾けつゝ進む人が向上の路を辿り得る人である。悲痛は人生である。此の悲痛を甘受(かんじゅ:あたえられたままに受けとること)して静かに自分の生を見守って、悲痛の底に存在する人生の真意義を把握せんとする、其処に生と力との価値が有りはしないか。王者の尊貴
 
  (改頁)      画像25
 
富者の富をもってすらこの悲痛より免れ得ないのみならず、人々の随喜渇仰(かつぎょう:心からあこがれしたうこと)する其等(それら)権威や富は、内的生命の声を遮りて、より以上に光りを妨げ、煩悶(はんもん:精神的にもだえ苦しむこと)せしめる。全世界を征服する大英雄を以てしても自已の内的生命の反抗を征し得ない。
他国を征服して勝利の歓びに得々として凱歌を奏す時、その裏に哭(こく:大声をあげて泣く)する幾万の犠牲者を思ふ時、限り無き悔恨の情は次第に英雄の心をして悲哀に導く。これたゞに犠牲者に謝する単なる悔ではない。もっともっと深い意義がある。王侯富者の権威と富は栄光歓喜の象徴である。人々の多くは果敢(はか)ない是等を得んとして足掻き苦しむ。
されど悦楽には限りがある、変化がある、無始無終であるべき筈は絶対にない。あらゆる歓楽を意のまゝに貪(むさぼ)り尽した時、寂寥の影が声もなく王者を包む。この時重々しい悲痛は彼は静かに押し寄せて、老ひ行く春の暗夜、落花と共に鐘の音に送られて、見も知らぬ世界に彷徨(さまよ)ふ様な甘い寂しさと、晩秋の夕暮木枯しに飛ぶ落葉と共に、自然に帰る様な透徹した淋しさに囚はれる。茲に於て初めて人間らしい感じに何とも言ひ難い清い涙が止度なく流れる。涙の下から新らしい自己が生れる。そして周囲を見廻す度にあまりに不自由な事を感じるが、それを自分の力で何(ど)うとも為し得ない事を思ふと悲痛なる淋しい心は敬虔(けいけん)な祈りに変る。
人生は悲痛より悲痛への旅である。
ロマンローランは言ふ「人生は憂愁なりと」
 
     淋しい事のいろいろ
 
人間といふものは一人と一人との場合には、その二人に共通した点のみ霊交して恰(あたか)もこの世には二人以外にはお互に理解した者がない様に感じる。しかしこの二人を各々別な人々の中へ入れる時、其処でも共鳴した人を見出す。そして初めの二人は心的状態に於て全然路傍の人である場合が少くない。
矢張(やはり)人間は一人生れて一人淋しく生き一人静か自然へ帰るのみだ。
    □―□―□―□
血肉をもって連がったお互ひが、結び合ふ事の出来ぬのは絶え難い淋しさである。
自己の真なる声は右へといふ。併し周囲の肉親は左へといふ。左へ行くのは真に生きんとする其の者にとっては死である。自分に死を迫るものは正しく敵である。しかしお互に憎み得ないで本能的愛に結ばれ、重い幕を隔てゝお互ひの嘆き喘(あえ)ぐ声を聞く。しかもそれは何(ど)うとも為し得ない時、第三者にも涙ぐまれる程痛ましく淋しい事である。
  □―□―□
時々人に呼びかけたく思ふ事がある。
「あなたの心は満ちて居ますか。何を欲していますか」と。だがそ
 
  (改頁)
 
の時一つの心が呼ぶ、何といふ僣越(せんえつ:出すぎること)な心だ。お前の愛は極めて弱い皮相的のものだ、人を傷けこそすれ決していゝ結果を齎(もたら)さない。人の運命を正しくほんとうに考へた事がある、よしお前の全部を信んじて無条件でお前の魂の中に飛び込んでくる人があっても、お前は静かに押返して背を向けて黙し祈るより外はない。
お前が人に働きかけ様とする願望はこの世の美しいのを知らせ様とするよりも、お前自身が慰めて貰ひ度いといふエゴイズムの欲望を愛といふ美しい名で巧に誤間化して居るのだ、「少しは人間らしく恥を知れ」と。
自分はこの声を聞くとひとりでに頭が下る、涙が滲(にじ)む。多くの人々は傷き損ねられた心を持って、たった一つのものを血眼になって探して居る。それは自己の魂を安心して預けられる人生の安楽所である所の魂と魂との結び合ふ事によってのみ感じ得る、ふるへる様な微妙な歓びである。
自分が手を出さんにはあまりに我が愛が不純であり貧弱だ。人々が苦しい運命を負って蒼い顔をしてとぼとぼ行くのを黙って見詰めて、共に苦しみながら何うとも出来ないのも又淋しい事である。