NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

■岐蘇林友 廿周年記念號(第百四十四號) [翻刻・ルビ・注記] 

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          宇 佐 美 生(注10)
我校の光輝ある20周年記念号の発刊に当り満腔の祝意を披瀝し、茲(ここ)に我校の前途を祝福し併而(あわせて)同窓生諸君の健康を祈り尚一言葉辞を連ねて希望を開陳(かいちん:考えをみなの前で述べること)したいと思ふ。
顧みれば明治34年福島の地にて乙種山林学校が出来たと云ふ声は洵(まこと)に空谷の鞏音(くうこくのきょうおん:人けのない谷にひびく足音)で、当時木曽に在住した私等は当時町民歓喜の声を聞かずにいられなかった。次而(ついで)、之が甲種に変更せられて第1回卒業生の諸君が遠くは九州より島根より続々蝟集(いしゅう:多く集まること)して松田校長の采配(さいはい)下に授業が開始せられた当時、如何に喜びの目と満足の心を輝かした事であらう。
山林は木曽の真情(まごころ)木曽は山林の代名詞として天下に鳴った当時、我校の出現は当然と云へば当然であったが、然し其(それ)の茲処(ここ)に至らしめる西筑摩郡会議員並に郡長其の他の当局者の努力苦心は想像に余りありと云はなければならない。
当時全国にも其例は暁星の如く大学及実科の外は其制度の徴すべきものなき時であるから、従って開校当時の設備の如きは洵(まこと)に今より回顧して滑稽(こっけい)に類するものも少くはなかった。私等第2回の入学当時は稍々(しょうしょう)整備に近かんとしていたが、到底今日の状態に比して雲泥の相違ある事は云ふ迄もない。一例を挙ぐるにもトランシット(注11)は唯一台であって当時年少の余輩(はい:わたし)なぞは傍へも寄り付けなかった。服装の如きも随意気儘(ずいいきまま)で混成軍の様なものであり、生徒の年齢も40年に近きものあり、余輩の様に15にも満たぬものあり、軍人あり、先
 
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生あり、中学の失敗者あり、炭焼ありと云ふ状態であった。勿論参考書教科書の如きも殆んどなしと云ってよく、唯々(ただただ)数師の口述によるノートを金科玉条(きんかぎょくじょう:この上なく大切にして従うきまり)とし、然も到底それが卒業迄に終了せず林価算法(注12)だの測量だのは完了せずに終ってしまった。
先生方も当時は素人か多く其の意気は旺(さか)んで研究はせられたであらうが、今から考へると不完全なる点の多々ありしは余儀(よぎ:他にとるべき方法)なき次第であった。
然して余輩等の社会に踏出した明治38年当時は日露戦の最中であり、人員は払底し且学校出といふものゝ極めて少数なりし関係上、周囲のものは大なる注意の目を張り、又期待せらるゝ処(ところ)も少くなかった。然るに余輩等は全く何物をも知らずして社会に出たので周囲のものは失望し嘲笑(ちょうしょう:あざけりわらう)し圧迫する。此方は悲観する、自棄(じき:やけ、すてばち)になる、馬鹿らしくなると云ふ一場の悲喜劇を演じたのである。
唯、吾人(ごじん:われわれ)は学校の体面と、而して後より出づる人の為に、如何にしても相当の名誉を回復せずんばあるべからず、と云ふ一脈(いちみゃく:ひとすじ)の決心を持つて居たのである。之が為には終夜研哭(けんこく:目をこすり声をあげて泣くこと)を加へ日曜に態々実況の調査をなし、或は役所に居残って書類の調査をした事であった。如斯(かくのごとく)にして、吾人は兎に角(とにかく)人並の域に漕附(こぎつけ)て頻々(ひんぴん:しきりに)として輩出する専門諸学校卒業生の間に介在するを得るに至ったのである。
由来十有七年、我校は県立となり新築を加へられ設備は完成し、校長其の人は幾度替れども木曽の一角に覇(は)を唱へし天下に瀰漫(びまん:広がりはびこること)する人士を送出し、本邦林業界に其の存在を知らしむに至った事は洵に慶賀に堪へない処である。乍然(しかしながら)過去は唯過去に葬(ほうむ)らしめず、20周年記念と云ふ事も単に過去の懐出を語る事ではあるまい。過去20年問に築き上る土台の上に之から漸次(ぜんじ:次第に)優良な新家屋=新世界を建造せんとする努力であると信ずる。
世界戦局以来、欧米列強の垂示(すいじ:たれ示した)した林業上の問題は、吾人に何を示すか、今更(あらた)めて茲に賢明なる諸君に申し上ぐる迄もありませんが、経済界の沈衰は今其の極に達し八方梗塞(こうそく:ふさがって通じないこと)の状況ではあるが、然(しか)し聴事標準に帰復するのは左迄(さまで)遠い事ではないであらうと信ずる。其時以後に於ける林業家の責務需要活動は、今より又吾人の深甚の用意を為すの要ありと信ずるのである。
過去何百名卒業者の社会に於ける状態を見るに、其殆んど9割は俸給生活者であると信ずる。専門学校の相続で増加し卒業生は以前余輩等の我校を出てた当時の何十倍にか達する今日、更に今後20年後に於ける状態を考ふる時、今日卒業生話君の苦心艱難(かんなん:苦しみなやむこと)に想像に難からざる所である。
私の言は或は奇喬(ききょう:人とちがった言行をすること)に失するかも知れない。又潜越であるかも知れないが、我校の将来は他の諸先例によって高等専門学校に昇格するか、将又(はたまた)現在比肩する同程の学校と其選を異にして木材工芸より将又森林工芸より全く専門実践的特色ある人士の養成所たらしむるかの二途を選ばなければならないと信ずる。
 
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私は20年記念に当つて現在に対する設備、或は過去の謳歌(おうか:ほめたたえること)・懐古(かいこ:なつかしく思いおこすこと)も必要なりとは信ずるか、此の機会に於て県当局に校長先生の将来に対する御考慮を煩(わずらわ)し、且又同窓生諸君の御意見を拝聴致し度(たい)と思ふのである。