NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

■岐蘇林友 第十九號 [翻刻・ルビ・注記] 

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          記 乃 志 多(注47)
4月23日林道を辿(たど)りて権現の滝に遊ぶ。東風(とうふう:春風)浩蕩(こうとう:空や大地など広々としているさま)、日は麗(うららか)に地上一塵の起るなし。
両側の大樹、路(みち)を狭んで枝を打ち重ねたる日影小暗き坂道、仰て天を見れば、若葉の梢涼し気にソヨソヨと風に動く隙よりチラチラとさし覗く天の色、町の屋根如何(いか)に勾やか(におやか:つややかで美しいさま)に清かりしか。
路辺岩石畳々(じょうじょう:たたみが重なるさま)たる所、僅に一隙を得て咲き出でたる菫(スミレ)の一株。可憐なる花びら紫色濃艶に………静に鼻を近づくれば芳香殊に愛すべし。遥に左方を見渡せば停車場の建物・機関庫の赤煉瓦・白色の煙突、木立の間に隠見す。迂回する事数回、大平山演習林の尽くる所一橋を渡れば権現滝は忽然として眼前にあり。一老樹の下に腰を据ゑて眺むれば、玉簾(たますだれ)の下垂するが如(ごと)くに、滔々(とうとう)遂に一大巌上に投じ飛沫濛々として一片の煙霧をなす。瀑は此処(このところ)より無数の水条となり岩面を伝ひ水泡沸々として起り消えては現はれ、現はれては消ゆる様甚だ面白し。森々(しんしん:大木が並んで茂っているさま)たる千樹彩霞(さいか:美しい色のかすみ)に包まれ瀑前の春色更に緑なり。水は潺々(せんせん)として奇巌の間を流れて、先に渡りたる橋下を過ぐ。余等茲(ここ)に於て瀑下に走りコートを捨てゝ清風に浴し、一掬(いっきく:両手でひとすくいすること)の水に喉をうるほせば、心気頓に(とみに:急に)爽然涼気秋の如し。名も知らぬ小鳥2羽3羽さも楽し気にチゝと囀(さえず)りつゝ滝の面を彼方此方と飛び交ふ様、又一入(ひとしお)の趣きあ
 
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り。
飽かぬ眺めに心残しつゝ帰途につく。去年のまゝなる落葉、靴を埋むる所カサカサと音して歩みの数を知らしめつ。
と見る、1個のリンゴ食ひさしのまゝ捨てられたるを『オゝ、余等の先に昨日か今日か滝を訪れし人ありしと見ゆ』。人の行き来少なき山路なれば、かゝる物にても、其人々の面影忍ばれて懐し。
紅葉ヶ岡の手前にて、薪拾ふなる賤(しず:注48)の乙女友達なるか、将(は)た同胞(どうほう:兄弟姉妹)なるか。さも楽し気に語らひつゝ登り来るに遇ふ。可受らしき犬さへ連立てり。少女等が戯れに石をなげ下せば、犬は石を追ひて飛び下り、躍り狂ひ獲物を捕ふる状にさも似たり。かくの如き児戯(じぎ:子どもの遊び)にも長閑(のどか)なる春は知られつ。2本3本咲き盛りたる山桜朝日にあらねど、日の光りに花の匂ひ香(かぐわ)しく(注:49)我等の行を迎送せり。
余福島に寓する事2ヶ年余、権現滝の名を聞きし事、あまた度(たび)然(しか)れども之れを実際に観たる、今日を以て始めとなす。此行連れに親愛なるM君あり。加ふるに天候殊に清朗、日頃の望を全うしたるは誠に以て幸とする処、飛泉(ひせん:高いところから落下する水)奔瀬の有様、今尚目前に髣髴(ほうふつ)たり。