NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

「長野県下ノ小学教員二告ル文」

[ルビ・注記]

○告文 左の告文は能勢師範学校長の深
切心上より出でたる目下学事に緊要の編
なれば掲げて以て当該諸賢の参考に供す。
   長野県下ノ小学教員ニ告ル文
      師範学校長 能勢  栄
昔支那三代ノ世人生ヲ八歳ナレバ皆小学
ニ入リ灑掃(さいそう)(注1)応対進退ノ節、礼楽射御書数(注2)ノ
文ヲ学ヒ、十五歳ニ至レハ大学ニ入リ理(ことわり)ヲ
窮(きわ)メ、心ヲ正フシ己ヲ修メ人ヲ治ムルノ道
ヲ学ヒタリ。西洋ニ於テモ古(いにしえ)希臘(ギリシャ)ノ盛ナリ
シ時、児童ノ年齢五六歳ヨリ十四歳マテハ
神伝(注3)ノ説話 体操 読方 習字 ヲ教ヘ、十四
歳ヨリ詩 歌 音楽 数字 ヲ教へ二十歳ヨ
リ高尚ノ学科ヲ研究セシメ論弁学ヲ教ヘ
智力ヲ研(みが)クコトヲ勧メタリシ。叉手(さて)昔ヨリ今
ニ至ルマテ教育ナル者ハ只智識ヲ研クノ
ミニシテ已(や)ムモノニ非ス。徳育 智育 体育ノ
三者相待テ然ル後純乎(じゅんこ)(注4)タル完全ノ教育ト
云フコトニシテ、此三者ノ一ヲ紳(ママ)縮スルトキハ
相互ノ平均ヲ失ヒ、二者亦其用ヲナサズ、必
ズ〓覆(てんぷく)ノ大害ヲ来スニ至ルコトハ欧米諸州
ノ学士堅ク執ル所ノ説ニシテ、千載(せんざい)ノ後マ
テモ確乎(かっこ)トシテ抜クベカラザルモノナリ。
世人誰カ又之ニ向テ異議ヲ容(い)ルヽモノア
ラン。
我邦古代ノ教育ハ暫ク擱(お)キ、徳川氏ノ世則(すなわ)
チ維新前マテハ弓馬鎗剣等ノ体術アリテ
体育ノ一端ヲ補ヒ、聖賢(せいけん)ノ書以テ修身ノ
道ヲ教ヘ、歴史□類百家ノ書以智識ヲ研キ、
三育共ニ不完全ナガラモ漸(ようやく)ニ其権衡(けんこう)(注5)ヲ失
フナク教育ノ一辺ニ偏スルノ患(うれい)ナカリシ。
維新以来西洋ノ文学ヲ輸入セシヨリ智育
ノ一方漸ク進歩ノ徴(しるし)ヲ顕(あらわ)ストモ徳育体育
ノ二者ハ大ニ衰微セリ。弓馬鎗剣ヲ廃シテ
ヨリ少年子弟ノ気力衰ヘ身体ノ発育営生
ノ道ヲ顧ミズ、只(ただ)智是レ求ムルノ急ナルヨ
リ苦学度ヲ過キ精神ヲ耗費(もうひ)シ、体育ノ之ヲ
補フノナキユヘ全体痼瘁(こすい)(注6)遂ニ肺病(注7)ニ係(ママ)リ、
多年ノ勒(ママ)学モ一朝ノ露トナリ身死シ業亡(ほろ)
ブルニ至ル。粗暴軽剽(そぼうけいひょう)(注8)ニシテ身体壮強ノ生
徒ハ徳育ノ其情意ヲ抑制スルコトナキヨリ、
放肆浮薄(ほうしふはく)(注9)ニ流レ驕慢無頼(きょうまんぶらい)ノ徒トナルニ至
ル。近年マテ少年生徒ノ笈(きゅう)(注10)ヲ負テ故山(注11)ヲ辞
シ、東京其他都会ノ地ニ趨(おもむ)キ学校ニ入ルモ
ノ十ノ八九ハ肺病脚気(かっけ)等ノ疾病(しっぺい)ニ累(かか)ラザ
レバ、遊惰放蕩(ゆうだほうとう)(注12)ノ生意気書生ノ徒トナリ、中
道ニシテ其業ヲ廃シ其目的ヲ達スルアタ
ハザルヨリ、遂ニ世ノ父兄ハ教育ヲ以テ彼
ノ人ノ子ヲ賊(そこな)フ者ト為シ、学校ヲ嫌悪スル
ノ念ヲ生スルニ至リ、教育ノ不幸モ亦極マ
ルト云フベシ。             「以下次号」
           (『信濃毎日新聞』明治十五年十一月十二日)
 
○長野県小学教員ニ告ル文ノ続
普通教育ニ於テハ殊ニ徳育体育ノ二者最
モ緊要ナルニモ係ラス、明治五年学制頒布
以来諸府県ノ小学校教則中修身科及ヒ養
生 体操 唱歌ノ如キ学科ハ其隻影(せきえい)(注13)タモ見
ヘザル所多カリシ。適(たまた)マ修身科ノ一科アル
モ其教授ノ方法宜シキヲ得ザルヲ以テ、却
テ文意字義ヲ講シ智育ノ一端ヲ補フニ足
ルコトアルモ、其情意ヲ感動シ善性ヲ興発(こうはつ)
シ徳育ノ目的ヲ達スルモノナカリシ。東京
師範学校ニ於テスラ其附属小学ニ於テ教
課時間外ニ或ハ修身談ヲ演述セシコトア
リタルハ、風雨ノ時生徒ヲ遊歩セシムルコ
ト能(あた)ハサレバ、其喧騒(けんそう)ヲ防ク為ニ已(や)ムコトヲ
得ズ、一場ノ説話ヲ行ヒタルニ過キズ、唱歌
ノ如キ教則ノ末ニ掲載セルノミニシテ、其
何タルヲ知ルモノナカリシ。東京師範学校ス
ラ尚然リ。其他数十ノ附(ママ)県立師範学校ヨリ
山村僻邑(へきゆう)(注14)ノ小学ニ至ルマデ咸(み)ナ其弊ヲ承(う)
ケ始終狂闌(きょうらん)ヲ逐(お)フノ外ナク、所謂(いわゆ)ル滔々タ
ルモノ天下皆是ナリト云フノ点ニ達シタ
リシ。
蓋(けだ)シ体育ノ要ハ児童身体ノ成長ヲ助ケ、其
一局部ニ偏長偏短ナルコトナク全身平均ノ
力ヲ得セシムルト、少壮生徒ノ衰頽(すいたい)セサル
ニ先(さきだ)チ、予(あらかじ)メ之ヲ保護シ其健康ヲ維持スル
モノナレハ、方今(ほうこん)(注15)東京体操伝習所ニ於テ教
授スル米国リーランド氏ノ体操術ニ如(し)ク
モノナカルヘシ。徳育ノ要ハ人ノ身ヲ修メ
行(おこない)ヲ正(ただし)フセシムルモノナレハ、先哲ノ嘉言(かげん)(注16)
善行ヨリ道徳ノ理(ことわり)ヲ教フルハ勿論ナレトモ、
人ノ心情ハ聖賢ノ言ヲ誦(ず)シ真理ノ意ヲ悟
リ、直チニ過(あやまち)ヲ改メ善ニ移ルモノニアラス。
人ノ過ヲ改メ行ヲ正フスルハ直実其心中
ニ感動シテ措(お)クアタハサルヨリ之ヲ服膺(ふくよう)(注17)
実行スルニ至ルナリ。此心情ヲ感動スルノ
目的ヲ達セントスルニハ、唱歌音楽ヲ舎(お)
キ他ニ求ムベキモノナシ、蓋シ一国ノ平和
ハ一家ノ平和ノ集合シタルモノナリ。一家
ノ平和ヲ求メントスルニハ、父妻兄弟一家
族相唱和シ相親睦シ、頑父惰子ノ家ヲ外ニ
シ搬楽帰ヲ忘レ家ヲ顧ミルモノナキニ由
ルナリ。人皆情アリ。誰カ悲哀ノ音ヲ聴テ其
心傷(いた)マサラン。誰レカ正雅ノ声ヲ聴キ其心
治ラサラン。誰レカ夫婦相罵(ののし)リ兄弟相争ヒ
終日喧騒ナル家ニ住スルヨリヤ、寧ロ家内
整然雅正ノ音曲ヲ唱ヘ優美ノ楽ヲ奏シ怡
然(いぜん)(注18)トシテ歓娯(かんご)(注19)ヲ尽スノ家ニ居ルヲ好マサ
ランヤ。
彼ノ道楽子息ノ飲酒登楼芸妓娼婦ニ耽湎(たんめん)(注20)
スルモ、流行ノ政談病ニ累リ人ヲ讒謗教唆(ざんぼうきょうさ)(注21)
スルモ、畢竟(ひっきょう)其家ニ於テ快楽ヲ求ムルノ術
ナク、無聊(ぶりょう)不平ノ為ニ我家ヲ厭(いと)フヨリ生ズ
ルモノナレバ、今学校ニ於テ唱歌ノ科ヲ設
ケ幼児ノ智慮好悪未タ定マラサル時ニ、其
心情ノ外物ニ誘ハレテ発動スルヲ防キ至
善至良ノ歌曲ヲ教ヘ、以テ心裏ヲ薫陶シ徳
性ヲ涵養シ温良方正ノ風儀ヲ惹起スレバ、
他日真正ノ良民トナリ各自ノ義務ヲ尽シ、
社会ノ平和ヲ維持スルコトヲ得ルニ至ルヘ
シ。           [以下次号]
(『信濃毎日新聞』明治十五年十一月十四日)
 
○長野県下ノ小学教員ニ告ル文[前号続]
    師範学校長 能勢 栄
顧ミテ智育ノ一方ヲ考フルニ是迄ノ教授
法ハ決シテ其良法ヲ得タルモノニアラザ
ルナリ、小学校ハ普通ノ教育ヲ施ス所ナレ
バ、日用ニ供スベキ簡易ノ教育ヲ授ケ直チ
ニ実行セシムルノ主意ナレバ、書籍ニツキ
高尚ノ理論ヲ講シ深遠ナル意想ヲ研究ス
ル所ニアラス。森羅万象(しんらばんしょう)目ニ視(み)ヘ手ニ触ル
ヽモノヲ以テ書物トナシ器械トナシテ教
ユルモノナリ。殊ニ小学ノ教ハ天ヨリ賦与(ふよ)
セラレタル児童ノ良心ヲ涵養シ情意ヲ矯
正シ智識ヲ開発セシムルモノユヘ、其教授
法ハ開発ヲ専ラニシ決シテ注入ノ教授方
ヲ用イルベカラズ、開発ノ教授方トハ児童
ノ脳裏ニ存セル智識ヲ誘出シ、自ラ思慮ヲ
尽シ視察力ト想像力ヲ起シ自教自発自然
ト貫徹セシムル所アラシムルナリ。注入法
トハ瓶中ニ水ヲ注下スル如ク生徒ノ未タ
疑ヲ発セサルニ先(さきだ)チ、主意ヲ弁解シ奥儀ヲ
講説シ、生徒ノ脳裏大小ヲ知ラズ其受クル
ト受ケザルトヲ顧ミズ、毎日々々無闇ニ生
徒ノ自カラ為スコト迄モ助ケテ教ユルノ
法ナリ。
開発主義ノ教授法ハ実体教授ニシテ、其方
タルヤ有形ノ例諭ニ依テ虚意ヲ伝フルナ
リ。読書修身算術作文等無形ノ学科ニ至ル
マデ皆実体的ニ教ユルナリ。児童ノ智識ヲ
得ルハ外物ノ関係ニ因リ感覚シテ得ルモ
ノユヘ、其脳裏ニ入ルノ通路ハ耳目鼻口皮
膚ノ五官ナリ。無形ノ事物ヲ無形ノ儘ニ授
クルハ益ナクシテ却テ児童ノ精神ヲ害(そこな)フ
モノナリ。又文字モ実体的ナラズ。空想ニ因
テ覚ヘタル文字ハ徒(いたずら)ニ其言詞ヲ誦読(しょうどく)スル
ノミニシテ、他日其言詞ヲ以テ思慮ノ導子
トナシ、真理ヲ考究スルノ用ニ供スルノ効
験少ナキモノナリ。
実体教授トハ敢テ必シモ摸形ヲ示、三角
方形若クハ立方等ヲ教フルノ謂(いい)ニアラズ。
又庶物(しょぶつ)(注22)ヲ取テ口授(くじゅ)(注23)シ児童ヲシテ只ニ其名
称性質常習効用等ノ鸚鵡(おうむ)識ヲ得セシムル
ニモ非ズシテ、前ニ述タル如ク造化(ぞうか)(注24)ヲ書籍
トナシ器械トナシ、万有自然ノ理(ことわり)ニ基キ既
知ヨリ未知ニ進ミ、有形ニ因テ無形ヲ悟リ
実体ニ就キ虚体ヲ悟リ、生徒ヲシテ先ズ物
事ノ意思ヲ脳中ニ領解(りょうかい)(注25)知覚セシメ、然ル
後其言詞ヲ耳ニテ聴覚セシメ、夫(それ)ヨリ其
言詞ヲ文字ニ代ヘテ其形状ヲ目ニテ視
覚セシメ、其文字ノ形ヲ見レハ其実物ヲ真
ニ視タル如キノ観念ヲ脳裏ニ生ゼシメ、以
テ児童ノ看察力(かんさつりょく)(注26)ヲ暢発(ちょうはつ)(注27)シ明亮精細ノ智識
ヲ実体的ニ得セシムルニアルナリ。児童ノ
思慮ヲ労セズシテ架空ノ言詞ヲ発シ無意
ノ文字ヲ書スルノ習慣ヲ絶チ、文字ナルモ
ノハ心脳ニ印識シタル意思ノ外形ニ顕ハ
レテ、言語トナリタル者ノ印符ナルコトヲ示
スニアルナリ。         [以下次号]
(『信濃毎日新聞』明治十五年十一月十五日)
 
○長野県下ノ小学教員ニ告ル文(前号続)
             師範学校長 能勢 栄
先頃文部省ニ於テ各府県ヘ照会シ師範学
科取調委員ナル者ヲ招集シ、東京師範学校
ニ於テ一教場ヲ開キ、今年九月ヨリ来年七
月マテ前半年ヲ以テ教育学学校管理法心
理学体操唱歌等ノ諸科ヲ教授シ、後半年ヲ
以テ実地ニ就キ授業ノ方法ヲ伝習セシメ、
以テ師範学校ノ改良ヲ希円(ママ)シ併テ小学内
部ノ改良ヲ計画セントセリ。方今普通教育
ノ改良ヲ計画スルニハ先ツ師範学校ヲ改
良セサルベカラザルナリ。余浅学不才ノ身
ヲ以テ猥(みだり)リニ本県師範学校長ノ任ヲ辱(かたじけな)フ
シ、加之(しかのみならず)学務ニ従事スル日僅ニ数十日、未タ
如何ノ良法ヲ以テ本県教育ノ改良ヲ計画
スベキヤ知ルコトアタハザルトモ、前条論述セ
ル所ノ体操唱歌教育術ノ三者ヲ講究スル
ハ今日急務中ノ最モ急務ナルコトト確信シ、
頃者(けいしゃ)(注28)教則改正ニ際シ県令ニ具申シ文部省
ノ伺ヲ歴(へ)テ、新ニ教育学心理学唱歌等ノ科
ヲ加入シ体操授業法ノ順序ヲ定メ、本年七
月卒業セシ体操伝習所生徒ヲ聘シテ教師
トナシ、現今我本支師範学校ニ於テ教育学
心理学等ヲ講授シ体操唱歌ヲ伝習シ、実地
授業法ハ師範学校ニ附属小学ノ設ナキヲ
以テ、長野学校ヲ借リ本月ヨリ本校生徒ヲ
派遣シ新授業法伝習ヲ始メリ。
県下小学ニ従事スルノ諸君若シ真ニ教育
ノ道ニ熱心シ其学校ノ改良ヲ希図スルナ
レハ、郡長或ハ学務委員に談ジ多少ノ時日
ヲ得テ本県師範学校へ来リ、唱歌体操ノ伝
習ヲ受ケ教育学心理学ノ講義ヲ聴キ、実地
授業法ヲ熟覧スルアレハ、其裨益(ひえき)(注29)蓋シ浅少
ナラザルヘシ、又実物教授ヲ資(たす)クル為ニ動
物標本昆虫採集用具植物?葉(さくよう)(注30)見本木材標
本植物?葉用具植物採集用具金石標本庶
物指教(しきょう)(注31)標本等数多購求セリ、一覧ヲ請フ
モノアレハ長野本校松本支校ヘ来ルベ
シ。余ハ喜テ之ヲ諸君ニ示スベシ。
  十一月十日
 

(1)すすぎはらうこと。
(2)儒学の経典、武術、書、算数など。
(3)神から伝えられること。
(4)まじりけのないさま。
(5)つりあい。
(6)ながわずらいでつかれはてること。
(7)肺結核のこと。
(8)乱暴で軽々しく落ち着きのないこと。
(9)わがままでしまりがなく、あさはかで軽々しいこと。
(10)旅の際、物をいれ背負って持ち運ぶ、竹で編んだ箱。
(11)故郷の山。故郷。
(12)遊びなまけ酒色にふけって品行が収まらないこと。
(13)物の、ほんの一つ影。
(14)都会から遠く離れた村。
(15)ただ今。
(16)いましめとなるよいことば。
(17)心にとどめてわすれないこと。
(18)よろこぶさま。
(19)よろこびたのしむこと。
(20)ふけること。
(21)あしざまに人をそしりそそのかすこと。
(22)いろいろのもの。
(23)口伝えに教えを授けること。
(24)宇宙。自然。
(25)会得すること。さとること。
(26)注意してみる力。
(27)伸ばし発展させること。
(28)ちかごろ。
(29)役に立つこと。
(30)圧して乾かした草木の枝葉などの標本。おしば。
(31)実地・実物について教えること。