NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 

[解説]

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「上田郷友会月報」記念号
-既往80年 宮下釚太郎-の解説

長野県図書館協会 宮下明彦

 宮下釚太郎、号は無濁、上田郷友会育ての親といわれた。
 元治元年(1864)5月生れ、昭和20年(1945)12月没。生家は上田市袋町・妙光寺前にあった。
 町内の増田塾では、後に「花月文庫」を残す飯島花月(保作)と同門であった。松平(しょうへい)学校では同級生に第2代上田市長になった勝俣英吉郎がいた。また、上京し東京専門学校(早稲田大学)では小河滋次郎と同寮であったし、勝俣、小河、山極勝三郎等上田郷友会草創のメンバーとは竹馬の友であり生涯無二の親友であった。
 永らく文部省に勤務するかたわら、編集発行人として明治18年以来発行し続けた「上田郷友会月報」は上田近代史研究の根本的資料となっている。
 また、旧藩主松平家の家令の任にあり松平家の財産処分に当たるとともに、蚕糸専門学校の上田誘致、上田郷友会郷里部大会の開催、上田図書館へ図書の寄贈、小菅訓導市葬等に関わり上田に大きな影響を与えた。
 大正14年に小河博士が、昭和5年春には山極博士と勝俣市長が相次いで亡くなったが、その都度、月報に載った宮下翁の弔辞は痛惜の念に溢れている。
 宮下翁は昭和20年まで長寿を保ち、上田郷友会幹事、編集発行人として上田郷友会を支え発展に尽くし、上田郷友会育ての親といわれた。
 
 この「上田郷友会月報」記念号は宮下翁の80歳の祝いとして昭和18年に発行されたもので、その中に翁自身が「既往80年」として寄稿したものである。
 「既往80年」は、明治初年から明治20年代にかけて、塾や学校について、大学進学を目指し信越線開通以前の上京の様子、上京した上田郷友会の青年たち、また、文部省在職中の当時の政界、世相等について、体験談風にまとめられ、回想録として当時を知る貴重な記録となっている。
 その中から、この時代の様子を知るいくつかの話を抜粋してみる。
1.塾や藩校・幼生寮から明治5年に学制発布後、松平学校になっていく様子は次のようであった。 
「明治二年十二月末に藩制の改革があって、学制も改められ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなったので、增田は退いたが、毎朝の読書は、従前通り先生の教授を受けた、幼生寮に移ったのは、明治三年と思ふ、……学科は読書習字詩吟等であった、明治四年廃藩となったので、幼生寮も自然消滅となって、明治五年に学制が頒布(はんぷ)せられて.公立学校が翌年に設立された、今日の国民学校の濫觴(らんしょう はじまり)である、即ち松平学校(注5)之(こ)れなり。」
 
2.松平学校卒業後、直ぐに授業生として長野市朝陽町小学校の教壇に立ったこと、また、その頃、明治十一年の天皇北陸・東海御巡幸に遭遇している。
 「私は下等小学の六級を受持たされて、生徒は男女四十四五名はかりであった、…石堂は仮校で、後町裏の田圃の中に、新築の校舎が落成したので、移転はしたが、造作不充分のあばらやであった。」
 
3.維新後没落した武士の商法の話が次のように語られている。
「維新前は相当の侍であったが、今は見窄(みすぼら)しい、姿をしてパンを籠(かご)に入れて持て来て、買てクレンかと、昔気質(かたぎ)の言葉で、籠(かご)を突き出す老人があった。それは追手前で、藤井、佐々木の両氏(旧藩士)が、牛乳店をして居(い)た、其(そ)の売れ残りの乳で、粉を堅(かた)めて拵(こしら)へたもので、一ケ参銭で、中々甘かったので、度々御得意になったことがあった。」
 
4.明治14年の上田の正月風景
「本年も茲(ここ)に暮れて、私は十八歳の青年となった。茲(ここ)に明治十四年を迎へたので、四五年振りで、年始廻りをして見た、二三軒あがれ/\と言われて、あがった家もあった、夜は歌留多(かるた)取りにも出掛けた、所謂(いわゆる)下手な、横ずきではあるが、興味があって、面白いので、殆(ほと)んど毎晩のように出掛けて、一二時頃に戻るのであった。
 
5.明治16年1月、進学のために上京する様子が詳しく書かれている。熊谷では高崎線の建設工事を目撃した。また、東京に着いて、初めて新橋―品川間の汽車に乗った。
「愈々(いよいよ)二日、出立の朝となった。私は頗(すこぶ)る緊張して、両親始め来訪の人々に慇懃(いんぎん)に挨拶して、馬車には、大宮神社の前から、乗ることにして置きましたから、を見送りは、宅の前だけで、結構ですと断ったが、横町を真直に、常田の角まで、送られた人が多かった。此(こ)の処からは、四五名の友人が大宮前まで送ってくれた。馬車の乗客が、少なかったので、早川繁夫、山浦橘馬の両君は、大屋まで送ってくれた、」
「二時頃軽井澤についた、宿屋が泊れ/\と、呼び込むのであったが、私は馬を傭(やと)って、碓氷を越した。碓氷は非常の、難所のように、吹聴されて居たが、来て見れば左程(さほど)でもなく、馬上ゆたかに坂下に安着、小竹屋に投宿した、」
「四日の朝早く立った、熊谷の土手は寒かった、鉄道工事は、此(こ)の辺までは大概には落成したとかで、資材の運搬の盛んなることが、始めて見る目には珍しかった。」
「八時半頃東京についた、今の萬世橋駅(注2)前で、少し樹木があって、名前は忘れたが、何の原とか呼んで居た、」
「六日は一日見物に費やし、先づ(まず)海を見たり、汽車にも乗て見んものと、朝早く大略の道順を聞いて、眼鏡橋(現今の萬世橋駅の処)(注4)に出て、鉄道馬車に乗って、日本橋通り京橋銀座を経て、馬車終点の新橋に下車して、新橋駅に至り、品川まで汽車に乗る、乗り心地頗(すこぶ)るよろしく、又一方に漫々(まんまん 広々として果てしないさま)たる海を見る、快言ふべからず、」
 
6.目的の東京専門学校(早稲田大学)に着くが、学校や寮の様子、そして小河君他同郷の友と再会する。
「七日には、早稲田を訪(おとの)ふべく、出掛け砲兵工廠(こうしょう)前の寒風に晒(さら)されて、神楽坂を昇り、驀地(まっしぐら)に急いだが、…漸(ようや)く学校に近づきし頃、突然裏道に出た、寄宿舎が見ゆるので、小道を行けば曲折がある田面を渉(わた)れは真直(まっすぐ)である、如(し)かず田面よりせんにはと田に下りるや、右足がずぶ
ずぶと没するので、驚いて足をあげたが、足袋(たび)と下駄(げた)は、泥だらけになってゐたが、洗ふ所もないので、其(そ)の儘(まま)寄宿舎に鈴木平吉氏を尋ねた。
…鈴木君と共に、小河滋次郎君(注1)を訪ふた。実に二三年振りの面会であった。
 
7.その後、同郷の友人たちの協力を得て東京帝国大学法学部を目指して受験勉強をした話
「小河君が、私の善後策として、案を立てゝくれた、それは帝大(注1)の別科法学部に入学すること、英学を発して独逸(どいつ)学を学ぶことであった。…
 独逸学は、始め小河君に初歩と文法の大略を習って、あとは昨年の試験に用ゐられた、アンドレイの歴史中の、必要と認むる部分を、加藤駒二(牛込)今井武夫(小石川)勝俣英吉郎(本郷)森田最中(神田)大井和久、石原三子三郎、長瀬麟太郎(以上麹町)の諸氏に就(つい)て習い、夜は小河君の復習である。
私は毎日然(し)かも徒歩で、以上の諸君の家を巡回して、教授を受けたのである。」
 
 また、文部省在職中の政界や市井の話題が色々と記載されている。その中で、明治憲法発布の日に初代文部大臣森有礼暗殺事件に遭遇した。
 この他、宮下釚太郎は文部省就職以前、駅逓局(郵便局)にいた頃病気入院したが、在京の山極勝三郎 小河滋治郎 勝俣英吉郎はじめ後に上田郷友会を結成する面々が足繁く見舞う様子は同郷人との友情、郷里への愛着が感じられ印象的である。