NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

7.教育、人物・伝記

寺子屋入門記録「壱番入門記録」

[解説]

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松川町資料館 伊坪達郎

 この『壱番入門記録』は、江戸時代の文化年間(1804~1818)から明治7年(1874)にかけ、信州伊奈郡飯田町知久町3丁目に開かれていた寺子屋宮下塾の『門人帳』の1冊目です。この『門人帳』は子どもたちが入門した時に、入門年月日・保護者の屋号や名前・子どもの氏名・続柄・年齢などを記録した帳面です。全部で5冊あり、ほぼ10年で1冊になっています。
 壱番入門記録  文政8年(1825)10月 ~ 天保6年(1835)4月
 二番入門記録  天保6年(1835) 5月 ~ 弘化3年(1846)4月
 三番入門記録  弘化3年(1846) 7月 ~ 安政1年(1854)2月
 四番入門記録  安政2年(1855) 2月 ~ 慶応1年(1865)7月
 五番入門記録  慶応1年(1865)12月 ~ 明治7年(1874)4月
 5冊で1225人の入門者が記録されており、『壱番入門記録』では、300人ほどの入門者が記録されています。この5冊の入門記録を見ると、入門者の名前だけでなく、子どもたちに関わる多くの情報が記録されていてわかります。
 第一は子どもたちの住所から、宮下塾で学んだ子どもたちの広がり(分布)がわかります。塾のある飯田町は勿論のこと、飯田藩領内の村々や飯田藩領外の村々からも来ています。まず飯田町の中でも塾所在地の知久町3丁目が最も多く、隣接する知久町1・2丁目や本町1・2・3丁目、大横町や殿町などに集中しています。また隣の上飯田村に含まれる箕瀬町・愛宕坂などからもかなりの子どもたちが来ています。つまり宮下塾の近くの町などから多く入門していることがわかります。飯田藩領内では、下郷と言われた飯田松川より南の村々のうち、山村(飯田市鼎)・島田村(飯田市松尾)からの入門が多くなっています。上郷の下黒田村(飯田市上郷)からも入門しています。飯田藩領以外では通うことが難しい村々からの入門がありますが、親戚を頼っての入門ではないかと考えられます。飯田町には5つの寺子屋があったと言われていますが、宮下塾はその中でも最も筆子の多い塾でした。また南信州の寺子屋の中でも最も入門者の多い寺子屋に入るとされています。
 第二は女子入門者の数がかなりあったことが挙げられます。入門者1225人のうち430人で、35%になります。入門者の男女比を見ると、幕末に向かうにしたがって女子入門者の割合が増加しており、慶応期から明治期になると40%にもなっています。
 第三は入門年齢がだんだん低年齢化していることです。はじめは9歳の入門が最も多いのですが、次第に8歳・7歳での入門が増加してきます。最終的には入門年齢は7歳~10歳が多いわけですが、中でも9歳の入門がかなり多いことがわかります。
 第四は親たちについてです。商人は勿論ですが様々な職人たちの子どもが入門しています。桶屋・木地屋・椀屋・紙裁ち・大工・塗師・元結師・元結こきなど飯田町の特徴的な職人たちの子どもたちです。
 第五は一般の公文書では百姓・町人の苗字は書かれていないのが普通ですが、5冊の入門記録では、子どもたちは苗字と名前が書かれています。親のほうは屋号など書かれていて、苗字が入っているのはわずかです。このことから百姓・町人は私的には苗字を持っていたことがわかります。明治以後の飯田町の歴史を追求するうえで、この帳面に記録されている苗字は大変参考になります。
 宮下塾に入門した子どもたちはどんなことを学んでいたのでしょうか。宮下家に保存されている文書の中には、寺子屋で使われた手本などが残されています。また師匠宮下敬三の息子である宮下浜次郎の学習記録が残っています。浜次郎はかなりたくさんのことを学んでいます。学んだ順は、いろは→漢数字→単位→手紙文例→カタカナ→単語(四季・十干十二支)→商用文例→町名村名寺名国名と続きます。宮下塾では素読や算術のみを学ぶ子どももありました。ある程度基礎ができている子供たちで、年齢も他の子どもたちより大きい子どもたちでした。また師匠の学習した漢籍や書物や筆写した帳面も宮下家文書には残っていますが、かなりの学習を積んでいることがわかります。
 宮下塾のあった知久町から近いところに愛宕神社があります。そこに明治35年(1902)に建てられた「漢皐亭(かんこうてい)宮下先生之碑」という、顕彰の碑があります。文化年間に宮下塾を開いた宮下敬助は島田村の出身で、幼いころから学問を好み、書道や算術にも優れていたようです。敬助が寺子屋を始めたのは20代のころで、敬助はそれから40年間近く寺子屋を続け、嘉永5年(1852)閏2月2日に亡くなりました。跡を継いだのは息子の敬三で、やはり幼いころから勉学に励んでいました。19歳で継いだ敬三は、明治7年にやめるまで22年にわたって寺子屋を続けました。それから3年後明治10年(1877)8月17日病没しました。44歳でした。この碑を立てるために教え子や町の有力者が力を合わせ、発起人が趣意書を作るとともに、全国各地に散らばっている筆子たちから献金を集めました。飯田町の中は勿論のこと、東京をはじめ各地から多くの志が寄せられました。宮下塾から育った子どもたちは、飯田町の中や全国へ出て活躍しました。