NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

6.行政、政治等の記録

■信濃国諳射図記 [解説] 

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『諳射(あんしゃ)信濃國圖記』
 『諳射(あんしゃ)信濃國圖記』は九丁(十八ページ)からなる木版の冊子です。明治七年(一八七四)一月に発刊されましたが、発行人や版元などは不明です。冊子のはじめには「諳射信濃國圖記 上田 上野(うえの)尚(たか)志(もと) 識(しるす)」とあり、前書き部分はなく、いきなり本文に入ります。また、最終ページには「諳射信濃國圖記 終」と書かれているだけで、解説に類する文はありません。
 これは、子どもたちの「教科書」である、という意識からでしょうか。今なら、小学校社会科学習で、長野県の地理を学ぶために作られた冊子の一つ、ということになるでしょう。「文字だけで著された地図帳」と言い換えてることができます。
 この冊子は、教科書として各学校に配布されたと思われ、上田小県地域の学校でも発見されています。
 内容を見ましょう。
 「緯度 北緯三十六度前後ニ當レリ」からはじまり、信濃国を囲む「鄰國」が書かれ「十國ニ鄰レリ」と結ばれています。県歌「信濃の国」の歌詞を思い起こさせます。
 次に郡名が挙げられています。明治初期、佐久・水内・高井・伊那はまだ上・下の二つに分けられていないこと、信濃国が長野県と筑摩県に分かれていたことがわかります。
 続いて各郡の大きな町が連記されていますが、ここからは藩政時代の名残を感じます。
 「路程」の項では、まず「東山道」と「北国街道」に大きく分けられ、それぞれの宿名(しゅくめい)を記しています。さらに、そこから分かれる支道が挙げられ、「是等ノ諸路縦横メ四通五達セリ」と結んでいます。
 次に「御岳」からはじまる信濃の山々が連記されています。続く「川流」の項では、はじめに千隈・犀川・木曽・天龍が「四大流」と記され、それぞれの流路と「大流」に流れ込む多くの支流が書き上げられています。
 終わりに湖、温泉、名勝、古戦場の名が列挙されていますが、現在の信州観光地として名が知れている地と共通しています。
 なお、ここに掲示した冊子の表紙は『信濃國諳射圖記 全』となっていますが、のちに表紙を張り替えたものです。中の版は、ほかの学校等に残っている『諳射信濃國圖記』とまったく同じです。
 
 この冊子を著した上野尚志は明治前期に多くの本を発刊しました。『信濃國村名尽』『國勢變革提要 全』『読法略解三字経』『信濃國小縣郡年表』などです。
 上田藩士の子として、文化八年(一八一一)に生まれた尚志は、上田藩校「明倫堂」で学び、ペリー来航に際しては、藩主で幕府老中であった松平忠優に「急務五条」を提出しています。
 明治六年、公立学校第一学区上田校(のちの松平学校)が設置されると首座となり、教科書等を作成、各学校の模範となる授業をしました。
 尚志が没する明治十七年(一八八四)まで執筆を続けた『信濃國小縣郡年表』は、今でも歴史を研究する人々に利用されています。