NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

6.行政、政治等の記録

■伊那県布令書 [解説] 

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 信濃国小県郡高梨村(上田市鹿教湯温泉の旧家)になぜ「伊那県」の布令書が残っていたのでしょうか。この疑問は長野県の成立過程を知ることによって解けます。
 長野県は伊那県の成立からはじまります。慶応四年(1868)八月二日、新政府は府藩県三治の制をしき、信濃に伊那県を置き、藩は今までどおりとしました。
 伊那県の県庁は、伊那郡飯島の旧陣屋に置き、北小路俊昌を知事に任命しました。伊那県の管轄地域は、はじめ飯島役所管轄下の伊那三十六カ村にかぎられていました。しかし、九月には御影役所(小諸)管轄下の村々も伊那県の支配となりました。
 この御影役所から新しい文書が幕府領であった小県郡高梨村にも廻され、その中の一つに『伊那県布令書』が含まれていたのです。
 明治二年三月になると、伊那県は東北信地域に中野・塩尻・御影・中之条局を置き、旧体制をすべて廃止し、新しい体制をつくりました。このときから小県郡にあった旧幕府領の村は中之条局(坂城町)の管轄下に入ります。
 三年八月、伊那県分県伺いが提出されました。伊那県は南北に長く、行政上不都合が多い。地形・民情を考慮すると和田峠を境とし、東北信地域を分離して二県にすることがよいというのです。
 この伺いが認められ、九月には中野県が成立し、県庁には旧中野代官所陣屋があてられました。なお、このとき中之条局を廃止し、埴科郡十四カ村、更級郡五カ村は中野県の直接支配とし、小県郡三十二カ村、佐久郡二十五カ村は御影出張所の管轄下に置きました。
 このあと、中野騒動が起き中野県庁が焼失、明治四年六月長野へ県庁が移され、旧長野県が誕生しました。
 四年十一月に長野県は、廃藩置県のときに県となっていた松代県・上田県などを含めた「長野県」、伊那県は、松本県・飯田県などを含めた「筑摩県」となりました。
 このような複雑な経過を経て、明治九年八月に長野県と筑摩県(飛騨地域をを切り離し)が一つになり、現在の長野県が成立したのです。
 長野県成立過程の最初に生まれた『伊那県布令書』は、明治元年(1868)十月に旧幕府領の「村々名主組頭百姓代」や村の人々へ向けて発せられました。ここには「王政御一新」のおりから旧弊はすべて取り除くことを目的とし、村の生活や治安などについての定めが記されています。
 明治二年六月、高梨村を含む小県郡幕府領の村々では、『伊那県布令書』をうけ、連名で『組合取極書』をつくりました。そのはじめの部分には、伊那県の御布令書が渡されたので、組合の村々が申し合わせて定めたと書かれています。
 その後、高梨村内のみの定めも文書にしていますので、明治維新期には、伊那県→小県郡内の村々→個々の村の順で「御一新ニ付、旧弊御一洗」の取り決めが成されていったことがわかります。