NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

5.繁盛記、社史、産業の記録

■扶桑之蠶6巻 [解説] 

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 「蚕都上田」という造語がある。この言葉が使われはじめたのは、いつのころからかは不明である。しかし、この雑誌が発行されたころには上田が蚕都状態に入っていたのだろう。明治25年(1892)、地域の願いが実り「小県蚕業学校」が設立した。日本で初めての蚕業を学ぶための中等教育機関が上田町に誕生したのである。小県蚕業学校の名は設立当初に全国の養蚕農家が知ったのであろう。養蚕技術を学ぶため、設立時から県外の生徒が入学している。このような背景から、雑誌『扶桑の蠶』が生まれたのである。
 本誌は、明治27年1月15日発行にされた第六号であることと、最終ページの欄外に「明治二十六年八月十二日内務省許可」と印刷されていることから、明治26年8月に創刊された月刊誌であることがわかる。
 編集発行は上田の高島諒多、発行所(蚕文社)も、印刷所(長谷川活版)も上田町である。上田とその周辺地域の養蚕関係者を主な読者として発行したのであろうが、読者は全国に散らばっていたようである。山梨や福岡の人からの投稿が、読者のひろがりを知らせてくれる。
 蚕種製造は江戸期から盛んであったが、特に明治中期からは岩手県から鹿児島県に至るまで販売網を伸ばし「本場」と言われるほどになっていた。座繰製糸が主流であった地元上田小県地域では、明治22年の「依田社」創業、同33年の「常田館」の創業など器械製糸業が勃興している。したがって、養蚕農家と蚕種製造業者はその製造量をさらに増大させていた。
 このような状況を背景に「蚕都上田」という言葉が定着していったのではないだろうか。『扶桑の蠶』以降、蚕糸業関連の雑誌がいくつも生まれていく。『蚕都新報』はその一つである。
 高島諒多は雑誌を発行する前に『信濃蠶業沿革史料』を著している。この著作が基盤にあり発行に至ったようである。ここには質問コーナーがあり「小石丸と又昔の由来を問ふ」に対し、「右答・又昔は安永・・・小石丸は天保年間信州小県郡伊勢山村の小田中源五郎、今の源五郎氏の曽祖父、といへる人此又昔の中より丸形の巣を撰み出し試に・・・」と記した後に「詳しくは信濃蠶業沿革史料に附て見られよ」と結んでいることからも『信濃蠶業沿革史料』と『扶桑の蠶』の関係がわかる。
 冒頭に掲載された文は、埴科郡杭瀬下村太田庄三郎の「春蠶掃卸法」、次は「飼育法の種類を論す」・・・「蚕卵紙貯蔵法大意」と続くように、養蚕技術を実践例から紹介することが本誌の中心である。
 「春蠶掃卸法」の最後に「前号工藤柳助氏の掃卸法と大同小異なりと雖も」とある。ここに書かれている工藤柳助は江戸後期からの蚕種製造販売業者である。彼は明治初期に丸子で組織された同族蚕種組合「工藤組」の一員としても事業を展開、地域の蚕種仲間のトップとして活躍した。
 やはり工藤組の一員であった工藤善助は明治中期には上田小県地域の蚕種業界の役員から長野県蚕種同業組合聯合会のトップとなる。同時に政治家としても力を発揮、丸子村長、県会議員、衆議院議員を努める。さらに、大正初年には製糸組合「依田社」の第2代社長に就任、製糸業界を背に再び衆議院議員となり日本蚕糸業界の代表としてアメリカに渡る。本誌の最終記事「寄贈品」の項に「一 金三円 小県郡丸子村 工藤善助君」が載っているように雑誌の発刊等にも助力している。彼は『長野県蚕種同業組合聯合会会報』を毎月発行し、日本や世界の情報を伝えている。
 
 本誌は養蚕技術のほかに、蚕業界の現状や「史伝」も載せている。
 「産業会」の項では「例会は蚕業学校冬期休業に付き第三土曜日に開会の筈にして前回質問の答弁及演説筆記は左の如し」とし名誉会員倉澤運平の「玉繭に就て」を載せている。ここからは、産業会の例会が開校まもない小県蚕業学校で開かれていたことがわかる。学校は地域の養蚕技術発信の中心となっていたのだろう。
 「玉繭に就て」の倉澤運平は、別所村の蚕種業製造販売者である。倉澤家は別所に上田小県地域初の本格的蚕種貯蔵用風穴を築いた家として有名である。大きな風穴を築いたのは明治4年といわれているが、小規模な風穴は江戸後期からあったという説もある。蚕種業を受け継いだ運平は、長野県全域の風穴蚕種の普及に努め、業界のトップとなる。大正初年には風穴保存から冷蔵庫での蚕種保存にのり出し、業界を牽引し続けた。
 「史伝」では「藤本善右衛門縄葛(ふじもとぜんえもんつなね)」の業績を紹介している。藤本家は江戸初期から蚕種製造販売、昭和まで地域の中心的な蚕種製造販売業者として活躍する。
 藤本縄葛は弘化2年新種「掛合」―別名信州かなす―を育成し、上田小県地域を全国にゆるぎない蚕種製造地とした。明治5年(1872)3月、大蔵省は蚕種大総代制度を設けた。このとき縄葛は長野県の大総代に選ばれ、蚕種業に関する制度の基礎確立などにかかわり、県下への指導をする。
 縄葛は、明治23年に76歳で死去するまで地域文化の向上に貢献する。明治10年の隠居前後からは『続錦雑誌』89冊を著す。内容は古文書、金石文、考古資料、地誌、桑葉図と拓影、蚕種相場変遷、米相場、聖陵、正倉院御物、草木図、鳥類図、などと多岐にわたっている。
このうち、桑葉の拓影は800枚あまりを収集、貴重な資料となっている。また、武田氏や真田氏の古文書影写本は原本が不明であるため、『続錦雑誌』から『信濃史料』に採られたものが、いくつもある。
 
 当時の雑誌には、広告が巻末に載っていることが多い。
 まず、高島諒多の「蚕文社」が「社告」を、次に工藤善助らの蚕種組合「工藤組」の広告と続く。本文中にある「産業会」が載せた広告からは、小県蚕業学校内に産業会の事務局が置かれていたと確認できる。同じ広告内には蚕業学校長三吉米熊の出身地である山口県長府の文字が見える。3ページ後には三吉米熊が個人で「謹賀新年」のあいさつ広告を載せている。
 明治27年(1894)の上田新参町には、眼科医院や弁護士事務所、その現在地を知りたくなる。
 載せられた広告の中で多いのはやはり蚕種である。小県郡長瀬村の自龍館、更級郡から原縫殿三郎、塩尻村の藤本善右衛門、豊里村の久保田儀左衛門と蚕種屋(たねや)は続く。販売する蚕種として小石丸・又昔・青熟などの名が連記されている。明治中期に多く製造販売された蚕種が、雑誌の広告からわかる。