NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

5.繁盛記、社史、産業の記録

■桜田門外之変速報 [解説] 

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 万延元(1860)年3月3日に起きた「桜田門外の変」は高校日本史の教科書で扱われており、知る人は多いでしょう。また、このできごとは、小説家吉村昭さんが綿密な取材をし『桜田門外ノ変』を著しています。
 安政から万延に改元したのは、3月18日ですから、当時の古文書には安政7年3月3日と記されています。
 江戸から桜田門外の変を伝える手紙が、なぜ上田の吉池家にあるのでしょう。結論を先に言えば、そのころ上田地域は生糸の一大集散地であったから、ということです。
 上田市生田―旧小県郡丸子町飯沼―の吉池家は幕末から明治にかけて上田小県地域や信州各地の生糸を集め、横浜へ出荷していました。上田地域にはこのように生糸を扱う大商人が何人もいたのです。そのためこの地は上州の生糸商が「上田は信州の横浜であった」という言葉を残すほどの生糸集散地になっていたのです。
 吉池家に残されていた桜田門外の変をつたえる手紙は、江戸・横浜から生糸の取引状況を伝える書簡群の中にありました。さらに、この手紙にも生糸取引の関連情報が同封されていたのです。ということは、桜田門外の変により、生糸相場や洋銀(ドル)相場が大きく変動することが予想される、地元での生糸集荷は江戸・横浜からの情報を慎重に見て、ということを言外に伝えたかったと推測することができます。
 このころの横浜では、生糸商人が相場の大きな変動によって大損害を受け破産した、あるいは自死したという話もあります。より質の良い生糸、と同時に相場を見る眼が大切だったのです。
 
 この手紙を書いた吉池由之助は、宛名にある吉池文之助の息子です。父親の文之助は地元の上田(旧丸子飯沼)にいて、横浜生糸輸出の総元締めとして指揮を執る、息子の由之助は江戸・横浜にいて生糸情報を上田に知らせる、という関係です。甥にあたる吉池定之助は地元にいて、信州一円の生糸を集めます。定之助は明治になると、長野県の「生糸改会社」を牽引する立場に立ち、横浜の貿易商たちと渡りあいます。
 書かれている内容を見ますと、のちに公表された史料の内容と比べ、その的確さに感心します。1週間足らずで調べ、書き送っているのですから。襲撃の状況や浪士の氏名、駆け込んだ屋敷など、要を得た報告になっています。
 ここでは手紙に記された水戸家の浪士名について、現在確認されている人名(【  】内)―吉川弘文館『国史大辞典』―と比べてみます。
  大関和七郎 【大関和七郎】    森五郎九郎 【森 五六郎】
  黒澤忠兵衛 【黒澤忠三郎】    瀬野竹之助 【佐野竹之介】
  山口辰之助 【山口辰之介】    廣岡子之次郎【廣岡子之次郎】
  関 新兵衛 【関 鉄之助】    杉山與一郎 【杉山弥一郎】
  増子清三郎 【増子 金八】    森 繁之助 【森山繁之助】
  斎藤 監物 【斎藤 監物】    鯉渕 要人 【鯉渕 要人】
  稲田 重蔵 【稲田 重蔵】    海後先之助 【海後嵯磯之介】
  岡部三重郎 【岡部三十郎】    蓮田一五郎 【蓮田市五郎】
  廣木和之助 【廣木松之介】
 水戸家の浪士は以上17人ですから吉池由之助の記した人数はあっていますが、この襲撃には薩摩の【有村次左衛門】も加わり、井伊直弼の首級を挙げています。したがって総勢は18人となります。
 
 桜田門外の変について、幕府では2カ月近く公表しませんでした。しかし、現場を見た人々が数多くいるのです。したがって、その情報はただちに全国へ発信されたでしょう。上田地域の一般庶民に、桜田門外の変の知らせが届いたのは、いつだったのでしょうか。
 吉池由之助の情報はほぼ正確であり、一人一人の人名にまでおよんでいます。このような詳しい情報を、早い時期に得ることができた上田地域の庶民は多くはなかったことでしょう。
 なお書簡の末尾6行は、桜田門外之変と関係がない内容であるため翻刻、現代訳の対象としませんでした。