NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

5.繁盛記、社史、産業の記録

■蚕がひの学 [現代訳] 

大意
・よりよい繭ができることを願って蚕を育てたい。そのために養蚕に心を尽くす。
・二十年前まで、蚕は暖かさを嫌うので、涼しいところで飼うのが良いとされていた。
・近年は初夏の天候が不順で寒いことがあり、寒さ対策が不備で損失を出す家がある。
・以前は四十日余りかけて仕上げたが、近ごろは三十五日ほどで繭にする人が利益を上げている。
・国々を廻ってよい養蚕法を学び、この書を著したが、この書より良い考えがあったら補筆してほしい。
 
蚕(こ)たね貯(たくわえ)かたの事
・蚕種の保存法として、夏から秋にかけては薄紙の袋に入れ、紐をつけて掛けておく。
・保管には檜・榧(かや)・杉箱はよくない。桐か松箱がよい。蚕種紙は丸くして二重に折り、こよりで締め、立て置く。
 
寒水にひたしやうの事
・寒中の四日間は水に浸ける。四日目の午前十時ごろ水から引き上げ、三日間北側の夜風の当たるところにつり、乾かす。家の寒いところに八十八夜前まで保管する。
・乾いていない蚕種を箱に入れると蚕の卵は孵(かえ)らない。寒中の管理の仕方により、卵の孵り方が違う。
 
種(たね)青(あお)ませやうの事
・掃き立て(蚕種紙に生みつけた蚕の卵が孵化し毛蚕を掃きおろし、新しい蚕座に移す作業)の時期は八十八夜前後であるが、日数を短くして飼う場合は、人より四、五日遅いほうがよい。
 
掃立(はきたて)やうのこと
・昔は桑の花を使ったが、近ごろは桑の葉を使うようになってきた。
 
陽気とりやうの事
・寒いときには紙帳で囲うが、紙帳はの天井には紙を貼らない。幕を張っても寒いときは、幕の外へ火鉢を置く。
・雨が降って湿気が強いときには、弱めに火を絶やさぬよう焚く。
・霧がまいて破風から吹きいるときは、松葉を焚く。
・屋根は茅葺が最も良い。蚊帳の葺き替えは秋。春では屋根が落ち着かず、風を通してしまう。
・冬や春に焚き火の煤が付けば、蝶も発生しないし、風も通さない。
 
掃立より日数積并(ひかずつもりならびに)手入の事
・箱から蚕種を出し掃き立て、蚕の住む面積を日々広げていく。
・給桑と桑止めの日や給桑の量を正確する。
・三十二日目、三十三日目の夕方には十分な給装をする。この桑が不足すると糸目が少なくなる。
・三十四、五日目に繭をつくらせる。
 
やとひ方の事
・奥州では藁を三角に折って折りまぶしに繭をつくらせる。
・信州では藁を一束にまとめたものを使う。
 
網にて尻をかゆる事
・糸網のつくりかたは、木綿のより糸を縫い糸ぐらいにして両方へ定木を付け、たて糸を張り、横糸は五、六寸とびに網針で結び通し網とする。網の形は国々の器にしたがって作る。定木は五分角ぐらいが良い。糸へ薄渋を引く。蚕の成長にしたがって網の目を粗くしていく。繭をつくる前(大きく育った)の 蚕には縄網を使う。
・蚕を飼うには籾ぬかを使う。粟ぬかは湿気ってよくない。
 
雨天のときまゆ虫ころし仕やうの事
・雨天が続けば、うじや蛭が出てきて損をする。そうならぬよう焙(ほい)炉(ろ)で蒸し殺すこと。
・鍋へ湯を入れ蒸籠を置き、湯気で蒸すので焦げる心配がない。
・焙炉の上の蒸籠でで蒸すと糸への影響はなく、湯気で虫が死ぬ。
 
桑とり方の事
・小さい蚕を飼うときは、素性のよい柔らかい葉を使う。雨がかかった桑は使わない。もし長雨で乾かないときは、焼酎一升に水一斗を加えて割り、桑に打ってから用いる。酒には湿気を取り除く効果がある。霧の露は雨の露より悪い。
・桑一駄に繭一斗と多収穫を目指すのであれば、多くの桑を用いること。
「此書(このしょ)の大要(たいえう)は。掃立(はきたて)より日数(ひかず)つもり手入(ていれ)の事(こと)とある。・・・
 
天保十二丑年
信州上田在塩尻村
藤本善右衛門誌之」
 
最後の文章は、原書の通りに記した。漢字にはすべてルビが振られています。このように全編にわたって、ごく簡単な漢字以外にはルビがしっかり振られていのです。漢字の読めない人にもわかるように、との心づかいからであると思われます。
藤本善右衛門保右の家は代々善右衛門を襲名しています。保右の父昌信も蚕種の製造販売をしていましたが、文化五年(一八〇九)村の有志とともに、上州前橋在の糸師高山要七夫婦を塩尻に招き、新しい糸挽きの技術を導入しました。以後、上田小県地域の生糸製造量は急激に増えたのです。保右の子縄(つな)葛(ね)は、新蚕種「掛合」(信州かなす)を選び出し、この地域を全国一蚕種業地帯にしたといわれます。また彼は大蔵省が制度化した蚕種製造取締制の長野県大総代に選ばれ、引退後は博物誌の魁ともいえる『(「)続錦(しょくきん)雑誌(ざっし)』を著しました。
寛政五年(一八二二)、このような藤本家に生まれた保右は、文政十年(一八二七)に新蚕種「黄金生(おうごんせい)」を育成。この蚕種は幕末から明治初期に流行したといいます。さらに、天保年間には秋田藩や米沢藩に招かれ、養蚕と蚕種の指導をしたとも伝えられています。
藤本善右衛門保右は、安政三年(一八五六)ごろ子の縄(つな)葛(ね)に家督を譲り、元治二年(一八六五)に七十三歳で没しました。