NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

4.地域の記録

■真田氏関係資料 パスファインダー&目次検索 1.真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)について調べる 

『真田家御事蹟稿』『新編信濃史料叢書』15-18)信濃史料刊行会/編 信濃史料刊行会 1977年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 エコール ライブラリー82等
 ◇本書は「真田家8代目藩主で英名高い幸貫(ゆきつら)が初祖一徳斉幸隆以降代々祖先の事蹟が湮滅(いんめつ)して行くことと、世に流布する伝承に虚誕(きょたん)の少くないのを遺憾(いかん)に思い、真実を伝えるため家臣等に命じて改めて編輯させたものであります。」(「新編信濃史料叢書第15回配本にあたって」)
 この事業の中心になって編輯に当たったのは、真田家重臣河原綱紀で、天保9年幸貫から編纂(へんさん)を命ぜられ、7年の歳月を経て天保14年12月に至って、正編62巻に及ぶ大冊の編纂を完了した。
 内訳は、「先公御事蹟稿1巻につづいて、一徳斉殿(幸隆)御事蹟稿上中下3巻、信綱(信綱)寺殿御事蹟稿1巻、長国寺殿(昌幸御事蹟稿)全14巻、寒松院殿(昌幸夫人)御事蹟稿1巻、大鋒院殿(信之)御事蹟稿全25巻、大蓮院(信之夫人)御事蹟稿上下2巻、左衛門佐君(信繁・幸村)伝記稿4巻等である。
 各人の事蹟は、父母・内室・子息等の系譜についで一代の事蹟武略等を、諸記録によって考究考証し、関係文書も収録し、使用の印章花押をも収めています。
 「本書の原本は、真田家に所蔵されて来ましたが、正副2本あって、1本は真田幸治氏から旧松代町に寄付され、今は長野市所有の真田家宝物(真田宝物館)中にあって、1本は同氏から譲り受けて米山一政氏が所蔵しております。」(「新編信濃史料叢書第15回配本にあたって」)
 
『真田史料集』小林 計一郎/校注 東京:新人物往来社 1985年
 <所蔵館>県立長野図書館 千曲市立図書館 長野市立図書館 ライブラリー82等
 ◇本書は『真田家御事蹟稿』の翻刻・校注版である。
 
『真田家文書』上・中・下巻 米山 一政/編 長野市 1981・1982・1983年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 千曲市立図書館 ライブラリー82等
 ◇真田家文書は松代旧藩主真田家相伝の古文書中、特に歴史上参考となるべき史料を撰び、県宝に指定された381通は勿論、未公開の文書類も含め昭和56年に刊行されたもので、真田氏研究の基本史料である。
 上中下3巻から成るが、特に上巻には、武田晴信宛行状・武田勝頼条目・真田昌幸宛行状・羽柴秀吉書状・豊臣秀吉書状・豊臣秀吉朱印条目・豊臣秀次書状・豊臣氏奉行連書状・豊臣氏普請奉行連書状・豊臣秀吉朱印状・長束正家等連書状・徳川家康書状・徳川家康安堵状・徳川秀忠書状・宇喜多秀家書状・毛利輝元書状・石田三成書状・大谷吉隆書状・幕府老臣連書状・本多正信書状・真田信之書状等、歴史的に極めて貴重な文書が数多く残されている。
 特に、関ケ原合戦直前の慶長5年7月末から8月10日までに、西軍に属した緒将より真田昌幸に宛てられた書状や条目が10通残っている。
 
『真武内伝』乾ノ巻 坤ノ巻 竹内 軌定/著 山岸重郷(手写) 1815年
 <所蔵館>県立長野図書館等
『真武内伝附録 全』竹内 軌定/著 不明 1815年
 <所蔵館>県立長野図書館等
『信濃史料叢書(復刻)』中・下 信濃史料編纂会/編 東京:歴史図書社 1969年
 <所蔵館>エコール等
「沼田記」「山口休庵噺」
『続々群書類従』第4 国書刊行会/編 東京:続群書類従完成会 1978年
 <所蔵館>長野市立図書館 エコール等
「羽尾記」
『群書類従』第21輯 塙 保己一/編纂 東京:続群書類従完成会 1980年
 <所蔵館>長野市立図書館 エコール等
『滋野通記』真田町教育委員会/編 真田町教育委員会 1975年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 エコール等
「難波戦記」
『通俗日本全史』〔11〕早稲田大学編輯部/編輯 戸塚村(東京)早稲田大学出版部
 <所蔵館>エコール等
『三河物語』上・中・下巻 大久保 彦左衛門/〔著〕 東京:徳間書店 1992
 <所蔵館>エコール 長野市立図書館 小布施町図書館等
『新三河物語』上・中・下巻 宮城谷 昌光/著 東京:新潮社 2008年08月
 <所蔵館>エコール 長野市立図書館 小布施町図書館等
 
『真田昌幸』柴辻 俊六/著 吉川弘文館 1996年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 エコール 千曲市立図書館等
 ◇秀吉及び豊臣奉行から「表裏比興(ひきょう)の者」と評され、戦国期を生き残るために必死の戦略を展開した真田昌幸に焦点を当て、一次史料に依拠した労作である。
 戦国期の小領主層は全国規模で無数に存在しており、その消長が戦国騒乱の要因であった。結果として、これら小領主層は統一政権のもとで家臣団かするか、帰農して郷村の中に埋没していくかの道があったが、例外的に大名化したものもあったがその代表例が真田氏である。
 父幸隆(幸綱)は助走者としての役割を果たし、昌幸が大名化の基盤を確立し、嫡男信之がその事業を継承し、江戸幕藩体制の中につなぐ役割を果たしたといえる。(はしがきより)
 本書は昌幸の動向に関して、できる限り一次資料を集め、その事蹟を再構築することに主眼が置かれている。とりわけ、『真田家文書』『群馬県史』等刊行の成果が活かされている。引用史料に関しては、原典名や所蔵者名が記されているが、それらの大部分は『信濃史料』『群馬県史』(資料編)『新編信濃史料叢書』に収録されている。
 ◇目次を以下に示す。
 第一 一族の流れ 1真田氏の発祥 2海野一族の広がり 3父母と祖父母
 第二 父幸隆の小領主化 1真田領の形成 2武田氏への被官化 3上野吾妻領の攻略 4上田領への進出
 第三 家督継承と領主化 1武田家への出仕 2家督相続 3兄弟と姉妹 4妻妾と子女 5沼田領への侵攻 6吾妻・沼田領の支配
 第四 大名領の形成 1武田氏滅亡と織田氏への対応 2北条・徳川氏への臣従 3上杉景勝との同盟 4第一次上田合戦
 第五 大名領の確立 1その発給文書 2上田城の築城 3家臣団の編成 4検地と貫高制 5在地支配
 第六 豊臣大名化 1豊臣秀吉への出仕 2秀吉の沼田領裁定 3小田原の役と名護屋の陣 4関ケ原の戦いと第二次上田合戦 
 第七 九度山への配流 1嫡子信之の上田領併合 2九度山真田庵での生活 3その死去と画像 4昌幸の人物像
 
『真田一族と家臣団-その系譜をさぐる‐』田中 誠三郎/著 信濃路 1979年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 エコール 須坂市立図書館 千曲市立図書館 ライブラリー82等
 ◇目次には、中興の祖真田弾正忠幸隆、長篠の役で討死した真田源太左衛門信綱、遂に戦国大名となった真田安房守昌幸、松代の初代藩主真田信之と続き、十代までの藩主の事蹟が述べられている。一門の中には、真田正昌輝系、真田信尹系、真田信繁(幸村)の事蹟等がある。
 (1)真田弾正忠幸隆(妻妾・子女は【5】参照)
 ア 真田弾正忠幸隆は真田右馬允頼昌と海野信濃入道棟綱の女との間の二男で、永正10年(1513)に松尾城に生まれた。海野平の合戦に敗れ、棟綱と幸隆は吾妻郡羽根尾幸全の許へ逃げた。幸全は幸隆の妻の父だったとされる。「羽尾記」)
 後、幸隆は箕輪城の長野業政に身を寄せていた。棟綱の嫡男幸義は討死、祢津元直と矢沢綱頼は許され所領を安堵されている。
 イ 幸隆は天文20年(1551)剃髪して一徳斎と称したが、天正2年(1574)63歳で病死。「真武内伝」に「手疵35か所」とあり、鬼弾正といわれた豪傑であった。
 ウ 鎌倉時代中期に海野幸房が上野吾妻郡三原庄に移り、さらに鎌原、西窪、羽尾三家に分かれ、さらに下屋、湯本、横谷、浦野に分かれた。
 オ 「滋野世記」には海野異系として海野棟綱-幸義-幸景-幸次とし、幸次は真田昌幸に滅ぼされたとある。
 カ 真田源太左衛門信綱は天文6年(1537)松尾城で生まれた。父は真田幸隆、母は河原隆正の妹とされる。天正2年(1574)5月家督を継ぐ。
 キ 信綱・昌輝は「武田二十四将」に掲げられている。信綱・昌輝兄弟は三州長篠合戦で討死したが、兄弟の墓は設楽が原宮脇の中腹、村の墓地内に一基に二人の名が刻まれて建っている。
 (2)真田昌幸(妻妾・子女は【5】参照)
 ア 真田幸隆三男。母については、「真田氏系図」には河原丹波守隆正の妹とある。昌幸は幼名を源五郎といい、少年時代に武田氏の一族武藤の名跡を継ぎ、武藤喜兵衛と名乗った。天正3年(1575)の長篠合戦で兄信綱、昌輝が討死したので、真田家の家督を継いだ。時に29歳であった。安房守と号したのは天正8,9年頃らしい。
 イ 昌幸の生涯は実に波乱に富み、自家経営のために、信長からは「信州の駑馬」秀吉には「表裏比興の者」と言わしめ、家康は「稀代の横着者」とされ、『三河風土記』では「生得危険な姦人」と記述されるほど機略、智謀を働かせた。そして遂に地方の小豪族から戦国大名に伸し上がった。その一生はさながら戦国史そのままといえる。
 ウ 配流された紀州高野山麓九度山で没したのは、慶長16年(1611)6月4日、享年65であった。
 (3)真田信之(妻妾・子女は【5】参照)
 ア 信之は天正18年26歳のとき昌幸に代わって沼田城主となり11年間、慶長5年36歳で昌幸の後を継いで上田城主23年間、元和8年58歳で松代城主となって58年間その座にあった。65年以上の城主・藩主の座にあった。
 イ 信之が従五位下伊豆守に叙せられたのは文禄3年(1594)11月で、信幸から信之の改名したのは慶長5年(1600)であった。
 ウ 信之の生涯で最も大きな問題は、慶長5年の天下分け目の戦といわれた関ケ原合戦いおける去就と、晩年、明暦3年(1657)の嗣子信政死去に際しての後継者決定に執った信房(幸道)擁立の態度であった。
 ことに、犬伏の分かれでは肉親の思愛を断ち切って家運を賭しての決意であった。信之の軍略家としての判断により徳川に組したものと考えられる。
 この状況を伝える記録に「河原氏伝記」「滋野世記」等がある。
 エ 辞世の和歌
 「何事も移ればかわる世の中を夢なりけりと思ひ知らすや」
 「西へちろり東へちろりあかつきの明星の如き吾が身なりけり」
 
『武田史料集』服部 治則/校注 東京:新人物往来社 1969年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 
『真田通記』真田町教育委員会/編 真田町教育委員会 1982年
 <所蔵館>県立長野図書館 長野市立図書館 エコール 千曲市立図書館等
『滋野世紀』桃井友直編 真田町教育委員会 昭和50年
『校注加沢記』萩原進編 国書刊行会 昭和55年