NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

4.地域の記録

■秀吉と真田 真田幸村と大坂の役 


真田信之宛同昌幸書状
真田信之宛同昌幸書状


<史料解説>

「真田信之宛同昌幸書状」    真田宝物館蔵
  年次不詳 三月二十五日
 関ヶ原合戦後、真田昌幸・幸村父子は高野山へ流罪となった。これはその配流先高野山麓九度山よりの書状。昌幸から信之(信幸)宛てだが、筆跡・内容から幸村(信繁)の代筆とみてよいもの。追って書き(追伸)のなかで「次に左衛門佐(さえもんのすけ)(幸村)慮外ながら御言伝(ことづて)申し入れ候」として、永年の蟄居生活で自分などは「大草臥(くたび)れ者」になり果てている、と記している。年は昌幸の死んだ慶長十六年(一六一一)か、その前年とみられる。
  [ 目録 ]

      <訓読>

   追って珍しからず候へども、はり(玻璃)の盆一つ、同じくとうざん二つこれを進じ候。書状の験(しるし)までに候。次に左衛門佐慮外ながら御言伝申し入れ候。先書に申し上げ候如く爰許(ここもと)永々の御山居、万御不自由、御推量成さるべく候。我等手前などの儀は、猶以って大草臥れ者に罷り成り申し候。御察しに過ぐべからず候。以上。
  其の許(もと)様子久々承らず候間、半左衛門相下し候。御息災に候哉。承り度く候。此方(こなた)別儀無く候。御心安かるべく候。但し此の一両年は年積り候故、気根草臥れ候。万事此方の儀御察し有るべく候。委細半左衛門申し達すべく候間、具(つぶさ)にする能(あた)はず候。恐々謹言。
   三月二十五日 安房 昌幸(花押)
     豆州参


 
 
真田信之宛同昌幸書状
真田信之宛同昌幸書状


<史料解説>

「真田信之宛同昌幸書状」   真田宝物館蔵
  年次不詳 四月二十七日
 昌幸最晩年の慶長十六年(一六一一)のものとみてよい九度山よりの書状。信之の病気回復を喜ぶ一方で、昌幸自身が病気で困惑している情況を述べている。配流生活十余年、一度は会いたいものだが、それもかなわない望みだと記しながら、養生して平癒し一度は顔を合わせたいと思っているので安心してくれ、と結んでいる。昌幸最後の書状になるが、これも筆跡は明らかに幸村のものである。病臥中の昌幸の意を汲んで幸村が書いたのだろうが、やはり他の幸村書状と似通った表現が多い。
  [ 目録 ]

      <訓読>

   尚々其の後御気相(きあい)(合)如何候哉。承り候て飛脚を以って申し入れ候。我等煩の儀分別致さざる病に候間、迷惑御察し有るべく候。何様伝言を以って申し入るべく候。以上。
  態飛脚を以って申し入れ候。春中は御煩散々の様に承り候間、案じ入り候へ共筆に尽し難く存じ候処、御煩平癒の由、御報に預り候ひつる間、満足これに過ぎず候。弥(いよいよ)御気相能く候由、目出此の事に候。申すに及ばず候へども、御油断無く御養生専一に候。然れば我等儀、去年病気の如く、当年も煩候間、迷惑御推量有るべく候。十余年存じ候儀も、一度面上を遂げ候かと存じ候処、只今の分は成り難き望に候。但し養生の儀油断無く致し候間、目出度く平癒致し、一度面談を遂ぐべく存じ候間、御心安かるべく候。恐々謹言。   卯月二十七日     安房 昌幸(花押)
     豆州参