NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

4.地域の記録

■秀吉と真田 関ヶ原の役と第二次上田合戦 


 七月十七日の檄文に続き、上田城の昌幸の下へは西軍の主要武将よりの書状が続々と届けられた。石田三成のほか、長束・増田・前田という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家、そして大谷吉継のものもある(写真)。特に三成からは連日のように長文の手紙が送られてきている。
 このおりの三成からの最初の書状は七月晦日付のものだった(写真)。それによると、昌幸は西軍に応ずる旨を、七月二十一日付けの書状で、近江佐和山の石田三成のもとに申し送っていた。その書状が二十七日に佐和山に到着し、それに対する返事がこれである。長束正家らからの最初の書状が七月十七日付けであるから、それが二十一日までに下野犬伏の昌幸の陣中に届き、その返事が、二十七日には三成のもとに届いているわけである。随分速い使者の往復であったことが知られる。
 この書状で三成は、挙兵の計画を事前に昌幸に打ち明けなかったことを弁明するとともに、昌幸らの妻は(信繁の義父でもある)大谷吉継が預っているから安心されたい、などと伝えている。また沼田越えで会津へ向かう使者の案内も依頼している。会津との連携を取る上でも真田氏の存在は西軍にとって重要だった。真田氏沼田領と上杉氏会津領とは峠(尾瀬)越えで接してもいたのである。
 ところで、関ヶ原合戦は軍勢の数こそ勝っていたものの、よく知られているように戦意不足の西軍の敗北に終わる。ここに見える諸将の結末は次のようだった。石田三成・大谷吉継は敗死。毛利輝元は大減封のうえ転封。宇喜多秀家は薩摩へ逃げのびたが、後に八丈島へ流罪。檄文に名を連ねていた三人、長束正家・増田(ました)長盛・前田玄以については、長束は自殺したが、増田は家康に内通していたものの許されず高野山へ追放、前田は戦闘に加わらず戦後、家康に謁して本領を安堵されている。
 
真田昌幸宛長束正家等連署状
真田昌幸宛長束正家等連署状


<史料解説>

「真田昌幸宛長束正家等連署状」   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)七月二十九日
 十七日付けの挙兵の第一報に続く長束正家らよりの書状。先に出した家康弾劾状が着いたかを聞き、家康の上杉景勝征討のための出陣を非難するとともに、大坂城西の丸にいた家康の留守居を追い出し、替って毛利輝元がそこへ入ったこと、また、やはり家康の留守居鳥居元忠が守っていた伏見城を攻め立てており落城は間違いないこと、九州・西国・北国は皆味方についている、(京・大坂にいる)日本中の諸将の妻子は人質とすべく手を打っていること等、上方ほかの情勢を告げ、是非ともの秀頼への忠節を求めている。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  態(わざわざ)申し入るべき処、好便の条、啓せしめ候。去年已(い)来内府(家康)御置目に背かれ、上巻の誓紙を違へられ、恣(ほしいまま)の働きの条々一書先度これを進め候。相達し候哉。殊更今度景勝(上杉)相果たさるべき儀、謂(いわ)れざる旨様々理(ことわ)り申し候へ共、同心無く下向候。此くの如く一人宛相果たされ候ては、秀頼様(豊臣)取り立てらるべき儀にあらず候に付いて、各(おのおの)申し談じ、西の丸の留守居追出し、伏見にこれ有る留守居討ち果たすべき為、堀際まで取り詰め、築山を申し付け、大筒・石火矢にて責め詰め候。急度落居(らっきょ)たるべく候。大坂の事、西の丸へ輝元(毛利)移られ、長大(長束正家)・徳善(前田玄以)・増右(増田長盛)丸々へ移り、何も日本国の諸侍妻子番等堅く申し付け、其の上に人質を取り置き候。美濃・伊勢手先の城々へは加勢を入れ、自身の事は申すに及ばず、家老まで人質を相卜(ぼく)しめ申し候。九州・西国・北国一篇に申し談じ候。但し羽肥州(前田利長)は老母人質に出し候間、先ず引き切り候事迷惑の由、内儀の理(ことわ)りに候。関東へ罷り立ち候衆、妻子人質も堅く召し置き候間、異儀有るべからざる歟(か)。貴殿の御事、
  太閤様別して御懇ろ御忘却無く候はば、此の節、秀頼様へ御忠節肝要に候。其の上景勝申し談じ候はば、関東即時に破滅たるべく候。伊達(政宗)・最上(義光)事も大坂に自分の妻子は申すに及ばず、家老まで悉(ことごと)く妻子これ有るに付いて、相卜しめ申し候。惣別下向の刻より何時も
  秀頼様へ御忠節申し上ぐべき由申し置かるる旨候て、爰許(ここもと)の有り姿申し下し申し候。御手前の儀見合はされ候て、是非共御忠節此の時に候。猶石治少(石田治部少輔三成)より申し入れらるべく候。恐々謹言。
   七月二十九日      長大(長束大蔵大輔)正家(花押)
               増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
               徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)
     真田安房守殿 御宿所


 
真田昌幸宛宇喜多秀家書状
真田昌幸宛宇喜多秀家書状


<史料解説>

「真田昌幸宛宇喜多秀家書状」   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)七月二十九日
 右の長束等連署状と同時に出された同趣旨の書簡。宇喜多秀家は豊臣氏五大老の一人。備前岡山城主であり西軍に加わった。関ヶ原敗戦後は薩摩へ落ちのび、その後、八丈島へ流罪となる。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  態(わざわざ)啓達候。去年以来内府(家康)御置目に背かれ誓紙違(たが)へられ恣(ほしいまま)の働き是非無く候間、今度各(おのおの)相談じ鉾楯に及び候。上方の事一篇に申し合せ、妻子人質悉く相卜しめ候。景勝申し談ずる上は関東の儀平均に属すべき事、案の内に候。貴台連々大閤様御懇意忘却無きに於ては、此の節秀頼様へ御忠節肝要に存じ候。猶石治少より申し入れらるべく候。恐々謹言。
   七月二十九日 備前中納言 秀家(花押)
     真田安房守殿 御宿所


 
真田昌幸宛石田三成書状
真田昌幸宛石田三成書状


<史料解説>

「真田昌幸宛石田三成書状」   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)七月三十日
 東西両軍の対決を前にして、三成より昌幸(安房守・房州)のもとには何通もの長文の書状が届けられている。これは最初のもの。昌幸が大坂方(西軍)に応じる旨を申し送った書状に対する返書である。末尾の条項より、昌幸は信幸が徳川方に付いたことは伝えていなかったことが分かる。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  去る二十一日に両度の御使札、同二十七日江佐(近江佐和山)に到来、拝見せしめ候。
  一右の両札の内御使者持参の書に相添ふ覚書并びに御使者口上得心の事。
  一先づ以って今度の意趣兼て御知らせも申さざる儀、御腹立ち余儀無く候。然れども内府(家康)大坂に在る中、諸侍の心いかにも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。中ん就く貴殿御事迚(とて)公儀御疎略無き御身上に候間、世間此の如き上は、争(いか)でとゞこほりこれ在るべき哉。いづれも隠密の節も申し入れ候ても、世上成り立たざるに付いては、御一人御得心候ても専(詮)無き儀と存じ思慮す。但し今は後悔に候。御存分余儀無く候。然れ共、其の段ももはや入らざる事に候。千言万句申し候ても大閤様御懇意忘れ思し食されず、只今の御奉公希(ねが)ふ所に候事。
  一上方の趣、大方御使者見聞候。先づ以って各御内儀かた大形少(大谷刑部少輔吉継)馳走申され候条、御心安かるべく候。増右・長大・徳善も同前に候。我等儀御使者見られ候如く、漸く昨日伏見迄罷り上る躰(てい)に候。重ねて大坂御宿所へも人をこれを進め候て御馳走申すべく候事。
  一今度上方より東へ出陣の衆、上方の様子承られ悉く帰陣候。然れば尾・濃(尾張・美濃)に於て、人留めせしめ、帰陣の衆一人/\の所存永々の儀、秀頼様へ疎略無く究め仕り、帰国候様に相卜しめ候事。
  一大略別条無く各無二の覚悟に相見え候間、御仕置に手間入る儀これ無き事。
  一長岡越中(細川忠興)儀、大閤様御逝去已後、彼の仁第一徒党の大将を致し、国乱雑意せしむる本人に候間、即ち丹後国へ人数差し遣はし、彼の居城乗っ取り、親父幽斎(細川藤孝)在城へ押し寄せ、二ノ丸迄討ち破り候の処、命計り赦免の儀、禁中へ付いて御侘言申し候間、一命の儀差し宥(ゆる)され、彼の国平均に相済み御仕置半ばに候事。
  一当暮来春の間、関東御仕置の為、差し遣はさるべく候。仍って九州・四国・中国・南海・山陰道の人数、既に八月中を限り、先づ江州(近江)に陣取り、并びに来兵粮米先々へ差し送らるべきの御仕置の事。
  一羽肥前(前田利長)儀も公儀に対し、毛頭疎意無き覚悟に候。然りと雖も老母江戸へ遣はし候間、内府へ疎略無き分の躰に先づいたし候間、連々公儀如在(じょさい)に存ぜず候条、各御得心候て給ひ候へとの申され分に候事。
一ケ条を以って仰せを蒙り候所、是又御使者に返答候。又此方(こなた)より条目を以って申す儀、此の御使者口上に御得心肝要に候事。
一此方より三人使者遣はし候。右の内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返し下さるべく候。残る弐人は会津への書状共遣はし候条、其の方より慥(たしか)なるもの御そへ候て、ぬまた越えに会津へ遣はされ候て給はるべく候。御在所迄返事持ち来り帰り候はば、又其の方より案内者一人御そへ候て上着待ち申し候事。
一豆州(伊豆守信幸)・左衛門尉(幸村)殿、別紙を以って申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て仰せ達せらるべく候。委曲御使者申し伸べらるべく候。恐惶謹言。
   七月晦日 三成(花押)
     真房州 御報


 
真田昌幸・幸村宛大谷吉継書状
真田昌幸・幸村宛大谷吉継書状


<史料解説>

「真田昌幸・幸村宛大谷吉継書状」   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)七月三十日
 幸村の妻の父、越前敦賀城主大谷吉継よりの書状。石田ほかよりのものとほぼ同内容だが、昌幸・幸村に近い縁者として二人の妻は自分が預っていることを確認させ安堵させるとともに、他の西軍諸将の書状の内容の確かさを裏付ける意味でも出されたのだろう。本文冒頭の「大坂御留守」とは昌幸の大坂屋敷に残っていた家臣。この後、彼ら宛てに上田から昌幸が出した書状もある。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  「真安房守殿   白以
   左衛門佐殿人々御中   」(封紙)
    猶以って此方の儀、大坂いかにも丈夫に人質を取りかたまり申し候。伏見の城へは、島津(義弘)・輝元(毛利)・備前中納言殿(宇喜多秀家)・小西(行長)、御鉄炮・弓衆今日取り寄せ候。程無くのりくづし申すべく候。此の已後は留主御気遣ひ有る間敷く候。伊豆殿(信幸)女中改め候間、去年くだり候時、左衛門佐(幸村)方へくやみ候様子までを証跡に申し別儀無く候。豆州(信幸)へも苦しからず候はば、御心得候て給るべく候。左衛(福島正則)方へは東海道うつの宮へ出合ひ候様にさわ山より両吏(使)くだし申し候。天下泰平此の上無く候へ共、御両所(昌幸・幸村)の御事、心がかり是非に及ばず候。以上。
  大坂御留守より飛脚差し下さるる由に候間、申し入れ候。
  一内府(家康)去々年以来御仕置、大閤様御定に相背かれ、秀頼様御成り立ち成り難き由候て、年寄衆・輝元・備前中納言殿・島津、此の外関西の諸侍一統上を以って御仕置改め申し候事
  一去る十七日に西の丸内府留守居理りにて出し、輝元移られ候事。
  一出陣の諸侍妻子御年寄衆より相卜され候。御両所の御内儀、我等頂り分に仕り候事。
  一内府置目御ちがへ、十三ケ条書き顕し候。諸人存知に付き、中々不審無き躰(てい)に候事。
  一何方に御在陣候共、右趣御分別候て、秀頼様御見捨て有る間敷き事肝要に候。併し御居住の所により、かぶりのふられざる仕合これ在るべく候。此の返事に御内状を給るべく候。御年寄衆へもみせ申し候様に調へ下さるべく候。委曲御年寄衆よりの触状条目進めらるべく候。万々御左右(そう)待ち申し候。恐惶謹言。
   七月三十日     白以(黒印)


真田昌幸宛毛利輝元書状
真田昌幸宛毛利輝元書状


<史料解説>

「真田昌幸宛毛利輝元書状」   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)七月二十九日
 これも宇喜多秀家書状とほとんど同文のもの。毛利輝元も五大老の一人。安芸広島城主で西軍の総大将に担ぎ出された。関ケ原へは兵を出さず、大坂城西の丸にいて動かなかったが、戦後、中国地方八カ国百十二万石から長門周防二国三十七万石弱に削減転封された。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  態(わざわざ)啓達候。去年已来内府(家康)御置目に背かれ誓紙違へられ恣の働き是非無く候間、今度各相談じ鉾楯に及び候。上方の事一篇に申し合せ、妻子人質悉く相卜しめ候。景勝申し談ずる上は関東の儀平均に属すべき事、案の内に候。貴殿連々大閤様御懇意忘却無きに於ては、此の節秀頼様へ御忠節肝要に存じ候。猶年寄衆より申し入れらるべく候。恐々謹言。
   七月二十九日  芸中納言 輝元(花押)
     真田安房守殿 御宿所


 
 
真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状
真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状


<史料解説>

真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状   真田宝物館蔵
  慶長五年(一六〇〇)八月五日
 真田父子三名宛て。「房州」は安房守昌幸、「豆州」は伊豆守信幸、「左衛門介」は幸村(信繁)。まず、上杉景勝への飛脚の世話を依頼するとともに小室(小諸)・ふかせ(深志、松本)・川中島・諏訪の仕置は任すので、早々の可能な限りの手立てを頼むとしている。このほかには、伏見城を攻略した等の報告や今後の軍略等について述べている。
  [ 目録 ]

      <訓読>

    以上
  態申し入れ候。
  一此の飛脚早々ぬまた越えに会津へ御通し候て給はるべく候。自然ぬまた会津の間に他領候て、六(むつ)かしき儀これ在り候共、人数立て候て成り共、そくたくに成り共、御馳走候て御通しあるべく候事。
 一先書にも申され候如く、貴殿事早々小室・ふかせ・川中島・すわの儀、貴殿へ仰せ付けられ候間、急度(きっと)御仕置有るべく候。成るべき程御行(てだて)此の時に候事。
  一とかく物主共城々へ罷り帰さざる御才覚肝要に候事。
  一会津へも早々関東表へ御行(てだて)仰せ談ぜられ、行に及ばるべきの由申し遣はし候。貴殿よりも御入魂(じっこん)候て仰せ遣はさるべく候事。
  一越後よりも無二に秀頼様へ御奉公申すべき旨申し越し候間、妻子も上方にこれ在る事に候条、偽りもこれ在るまじく候。羽肥前(前田利長)儀、母江戸へ遣す故に候か、未だむざとしたる返事せず候。剰(あまつさ)へ無二に上方へ御奉公と申し、羽柴五郎左(丹羽長重)へ手前へ人数を出し候間、越後より越中へ人数出さるべき旨申し越し候。定めて相違有る間敷く候事。
  一関東へ下る上方勢、漸く尾・三(尾張・三河)内へ上り、御理り申す半(なかば)に候。それ/゛\に承り候儀究め候て相済み候事。
  一先書にも申し候伏見の儀、内府留主居として鳥居彦右衛門尉(元忠)・松平主殿(家忠)・内藤弥次右衛門(家長)父子千八百余にてこもり候。七月二十一日より取巻き、当月朔日午刻、無理に四方より乗込み、一人も残さず討ち果たし候。大将鳥井首は御鉄炮頭すゞき孫三郎討ち捕り候。然して城内悉く火をかけ、やきうちにいたし候。鳥井彦右衛門尉は石垣をつたいにげ候よし。誠にかやうなる儀、即座に乗り崩し候段、人間のわざにてこれ無しと各申し合い候事。
  一先書にも申し候丹後の儀、一国平均に申し付け候。幽斎(細川)儀は一命をたすけ、高野(こうや)の住居の分に相済ませ申し候。長岡越中(細川忠興)妻子は人質に召し置くべきの由申し候処、留主居の者聞き違ひ、生害仕まつると存じ、さしころし、大坂の家に火をかけ相果て候事。
  一備への人数書、御披見の為これを進め候。此方の儀御心安がるべく候。此の節其の方の儀、公儀御奉公有り、国数御拝領有るべき儀、天のあたふる儀に候間、御由断これ在る間敷く候事。
  一拙者儀、先づ尾州表へ岐阜中納言殿(織田秀信)申し談じ、人数出し候。福島左太(正則)只今御理り申し半ばに候。相済むに於ては、三州表へ打ち出すべく候。もし済まざるに於ては、清須へ勢州ヘ一所に成り候て行(てだて)に及ぶべく候。猶異事申し承るべく候。恐々謹言。
   八月五日  三成(花押)
     真田房州
     同 豆州
     同左衛門介殿 人々御中