NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

4.地域の記録

■秀吉と真田 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 


 従来は、真田昌幸が豊臣秀吉へ接近しようとしたのは、徳川軍との激戦後の対陣中のこととみられていた。しかし、昌幸は実際には上杉氏に従属する以前から、秀吉への接近を図っていたのだった。上杉景勝が真田昌幸に宛てた誓詞の中に「春松太夫」という名が見えるのだが、これは上方から信濃へも訪れていたむ幸若舞の役者であった。このような者を通じて秀吉への従属交渉をしていたし、それを上杉方へ伝えてもいたのであった。これが成果をあげたのかどうかはよく分からないが、その事実を承知したうえで上杉氏は真田の従属を受け入れたものだった。
 また、近年まで見落とされていた矢沢頼綱宛石田三成書状によれば、真田・徳川が対陣していた最中の九月二日かその少し前に、上杉氏の使者により、昌幸の書状が秀吉方へ伝えられ、また、昌幸の件について、つまりは家康と争っている件の詳細が、関白秀吉に言上されていたのであった。その上で、昌幸の思うとおりに取計ってやるとの秀吉の意向が、使者に申し渡されていたのである。
 上田城攻めに動員された徳川勢の大半が、信濃小県・佐久から撤退したのは、十月初め頃のことだったとみられる。この理由については、徳川方の史書類によると次のようであった。閏八月二日の敗戦後も城を落とせる目算が立たないまま対陣が長引き疲れ果てていた。また、真田方の思わぬ攻撃に悩まされてもいた。そこへさらに関白秀吉の命により上杉が大軍を率いて、真田を救援するとの話が立ったため引き上げた、としているものが多い。秀吉の真田救援の意向を、真田・上杉方は敵徳川方へも宣伝し、その効果もあって徳川方は兵を引いたと考えられるのである。それも退却の際の背後からの攻撃を恐れて、兵五千を本国から送ってもらって、ようやく帰陣することができたとしている。その折には真田方の気をそらすために丸子の町(現上田市)へ放火してもいた。
 豊臣秀吉が初めて真田昌幸宛てに出した天正十三年十月十七日付けの書状は、秀吉が委細承知した、いずれにしても困らないようにしてやるので安心するように、と真田への支援を約束したものだった。以前はこれで初めて昌幸が秀吉と接触できたとされていた。しかし、事実はこれ以前に徳川軍は撤退していたのであった。それにしても、この書状によると秀吉は、松本城主小笠原貞慶と「いよいよ申し談じ、越(落)度なき様に」と指示している(7)。これにより、小笠原貞慶は昌幸と同時か、それより早く、家康方から秀吉方へ寝返っていることは明らかである。しかも「いよいよ申し談じ」ということは、これ以前から昌幸は貞慶と申し合わせていたということだろう。昌幸は天正十一年七月からは沼田領問題をめぐって德川と断絶していたとみられ、事態の打開を図る必要に迫られていた。その中で秀吉への従属を図ったのだろうが、ついてはそれまで徳川方であった松本の小笠原を引き込んだものと思われる。真田昌幸はこのような話をひっくるめた上で上杉氏へ従属したとみられるのである。
 
真田昌幸宛羽柴秀吉書状
真田昌幸宛羽柴秀吉書状


 
<史料解説>

「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田氏歴史館蔵
  天正十三年(一五八五)十月十七日
 秀吉から昌幸宛の最初の書状。秀吉はこの年七月、関白に任ぜられていた。昌幸は第一次上田合戦の対陣中に秀吉に書状を送り、その庇護を求めた。それに対する返事である。秀吉は、委細承知した、いずれにしても困らないようにしてやるので安心するように、と述べている。いよいよ相談するようにとある小笠原右近大夫とは松本城主小笠原貞慶。これにより家康に従っていたはずの小笠原も昌幸と同心してであろう、既に家康から離反し秀吉にくらがえしていた事実が知られ興味深い。「安房守」は昌幸。
  [ 目録 ]

      <訓読>

  未だ申し遣はさず候の処(ところ)、道茂所への書状披見候。委細の段聞こし召し届けられ候。其の方進退の儀、何れの道にも迷惑せざる様に申し付くべく候間(あいだ)、心易かるべく候。小笠原右近大夫と弥(いよいよ)申し談じ、越度(おちど)無き様に其の覚悟尤もに候。猶(なお)道茂申すべく候也。
   拾月千七日(花押)(羽柴秀吉)
     真田安房守とのへ