NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

4.地域の記録

■信州飯田町家扣 [翻刻] 


       信州飯田町家扣      画像1
 
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        信州飯田城下町屋覚
一信濃国下伊那郡郊戸庄飯田郷六本杉長姫城下
 伊那之一城にして、一里東ハ天流川一里西ハ風越の嶺、
 南北ハ城を挟で荒川流れ、要害堅固の平山城
 走り、築立の初ハ山伏丸・本丸・二ノ丸を限り、水之手坂口
 を大手とす、中頃三ノ丸今不明御門を大手とす、其
 後御城再興有る、今之大手口ニ定り、古
 とす南虎口とす、中頃の大手口ハ不明御門と号
 
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 北虎口と成
一往昔当郷之大身の領主無之、飯田郷民悲之飯田
 郷より與右衛門、別府村より助右衛門といふ両人之百姓鎌
    幼名與作
 倉江下り地頭人を申請、源頼朝公奏達有る
 則御許容被遊、近藤六郎周家といふ大将を被命
 右両人案内申上導して信州ニ入、老臣竹村・吉川・
 久保田三人を召連れ、時ニ文治三年飯田郷松原宿ニ
 到着候、則居館を営ミ住之、郷民之悦び斜
 
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 ならず崇啓之、此近藤氏ハ本国淡路國坂西の人也
 平家追討之時伊勢三郎義盛の手ニ属し、判官
 義経公へ降参して後、程なく威勢盛んニ秀で
 建久六卯年居館を飯坂ニ引移して、一城を構へ住之
 旧地を末々
 近藤林とい以飯坂といふハ、今の愛宕山也、家名を改メ
 坂西と云、三代飯坂に住す、然而坂西長門守代今ノ六本
 杉ニ城を移し候、六本杉ハ真言派の行所
 な里しを、飯田ト替へ地ニして、城を築き長姫の
 
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 城と号す、飯坂と六本杉の間
      五六丁なり
 今奥曲輪ニ山伏丸といふ処ハ此所行のあと也
 と云、此外神明の社有しを城の外へ移す、今の
 知久町壱丁目南側の中程也、後々迄役所を神明
 屋敷と唱ふ、愛宕坂の川を今源長  と唱へたりといふ
       川といふ、是ハ古へ源長
 又西坂家の説と云、近藤六郎周家淡路国坂西
 の城主也、平家追討の時淡路国坂西城主也、平
 家追討之時源義経ニ従ひ武功有、然るニ義経
 
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 御兄頼朝公の御不審を受、御中不和と成義経
 忍んで東国ニ下里給ふ、周家も供奉して北国迄
 下る、然るニ義経御姿を替て忍び給ふ躰故、供人
 大勢ハ叶ハ須、越後国ニて暇を賜り信州ニ入
 当郡の郷士を従へ押領すと云う
一飯田町の家初ハ松尾町壱丁目ニ坂西公四代
 目の時兵庫頭様時代伊勢之もの此地へ参り
 初而町家を建商売を始め、此故ニ伊勢町と
 
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 唱者、次ニ番匠町を建天正十八年毛利河内守
 秀頼公飯田之城再住之時、本町壱丁目二丁目池
 田町を建、此時御城御普請有相続て十王堂町
 建、是ハ其頃十王堂町有しを今の箕瀬羽場ニ移し
 其跡ニ町屋を建、故ニ十王堂町与号し、後ニ本町三丁目
 とす、右ニ続而箕瀬町建、知久町ハ文禄三年八月知久の
 神嶺城主知久大和守頼氏公没落之後、飯田へ移り
 壱丁目二丁目を建知久町と号す、此時城外曲輪ニ
 
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 惣堀を構へら連、所々ニ木戸塀之番屋を建ら連、町家
 段々出来伝馬町も此時建、其時名残町と号し惣堀ヲ
 御構之時の御奉行奥の山浪人衆京極家へ在付、役
 儀を勤ら連、普請之義御尋之時御堀出来仕候と被
 申上候、是より御囲の内ニ有之田畑を出来分と申慣
 し候、此故伝馬町迄御曲輪惣御堀の内也、其後京極様
 後家来光増右衛門と申人飯田町割を被仰付、此人元来
 川中島浪人とて上方江出御当家へ被在付候京都の
 
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 町割ニ准して竪横ニ小路を割、慶長元年伊賀良
 松尾の城主小笠原掃部太夫信嶺公関東江御所
 替之後、松尾町をニ引伊勢町之上ニ建続て松尾町
 と号、田町も此時建継大横町并ニ上横町下横町と路を
 割知久町三丁目を建継、此所ニ鍛居初候故鍛治町と号ス
 御家中小路も此時代より段々出来、御城下伝馬町迄の毛の
 持高之田地六百石名余有之、此内町分を引其残り三百弐拾
 五俵余の田地上飯田村分高ニ而、町百姓ニなり此時の町
 
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 百姓者知久町三丁目の角大横町ニ四人松尾町三丁目南
 角ニ弐人、其外ハ名残町ニ多く有之、町役相勤候故
 村役ハ御免被成候事
一古来御城主之次第
  文治三子年より近藤六郎藤原周家公
  上飯田村の内ニ住居者古跡を近藤林といふ
 世ニ云伝坂西近藤六郎周家と申ハ此大持之御事
  同国坂西之御領主源義経ニ降参、頼朝公の命ニ仍て
 
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 飯田ニ来り知行高千貫を領し家名を後ニ坂西
 と改、建久六卯年同村の内飯坂ニ城を移し飯坂
  之洞道ハ今の愛宕山也
   坂西淡路守
   同 長門守
   同 淡路守 此御時代御城ヲ東南之六本杉ニ
         移し長姫城と号ス、今の御城なり
   同 兵庫頭
   同 若狭守 此御代高弐十貫と云伝ふ
 
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   同 伊予守
   同 但馬守
   同 帯刀
   同 因幡守
   一色弾正忠 因幡守殿御子之何故歟
         名字を一色と改分る
   一色内蔵介 此時山村北方御手ニ入
         知行高二千貫御領知
   坂西淡路守 家名も姓も御改
   同 式部
 
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   同 八郎九郎周常公 弘治二年甲斐源氏
             武田晴信ニ属ス
   同 左衛門佐周次公 永禄五年戦死無御子
             弟織部亮殿御相続
   同 織部亮
  武田晴信公之御疑を受領知没収城を明て
  小田原へ立退北條家ニたよる
一永禄より元亀年中
 秋山伯耆守源直義公甲州より御城代
 
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一天正之初再び御城主
   坂西織部亮
   小田原北條家之御執持を以武田晴信公より
   坂西公へ本領無相違賜て御帰城
一天正十年織田平信忠公甲州為御追討、下條口
 より御打入之時、下條伊豆守殿御父子ハ浪合を固め
 給ひ下條ハ御家老下条九兵衛殿守たる、信忠公へ心を
 よせ下條口より川尻肥後守殿人数を引入相并而木曽
 
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 峠より団ノ平八郎宗忠森勝蔵長一晴苗寺口より
 打破て押入島田松尾之小笠原掃部太夫信嶺公
 是を聞て力を落し信忠公へ使者を立て降参し
 為手合之所々煙を立ツ、飯田城ニハ従甲州為加勢
 保科弾正忠殿御入、猶此城信州第一の頼ミ也
 とて、小幡因幡守殿同舎弟五郎兵衛殿波多源左衛門
 殿御越有て、一城を守里給ふ、然れ共頼切たる下条松尾
 之両城主織田方へ降り案内者と成て攻寄る故の
 
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 城中周章不斜敵の寄付さる以前、先城下の民
 家を地焼せるとて二月十四日悉く地焼せらる、同
 夜半時分所々の矢倉の番兵走り下りて敵大勢
 之人数過半甲州へ逃行、依之御城主坂西公力ニ
 及ばず城をすて荒道へ退くといへとも木曽峠飯田
 峠蘭の方敵大勢手分して責入候故、惣て進み得ず
 東へ帰らん事も叶ハず、坂西公途方を失ひ市瀬
 山中ニ於御自害也、此所を今勝平と云、市瀬御
 
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 番所近辺也
一天正十年午二月より八月迄毛利河内守藤原秀頼公
 下伊那五万石此大将織田信長公へ仕へ、毛利新介殿と
 申御人なり、今川義元公之御首を討て武功有
 段々御立身なり、然るニ今年六月織田信長公并
 御嫡子信忠公御父子共ニ、京都ニおいて逆臣明智之
 ために御落命、其後天下ハ豊臣関白秀吉之
 御手ニ入、毛利様ハ御家中共々六月大島城へ御移り
 
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 上方江御登被成候
一天正十午八月より御城代菅沼大膳亮源定利公知行
 五千石、当年三州源君 家康公へ御預り、則御巡見遊
 バされ、為御城代菅沼定利公を被置、天正十七年
 定利公御病気重く次ニ御死去、此頃御子に大膳定次公
 駿河ニ被成御座候而、御病気を御聞、夜を日ニ継で飯田へ
 御越被成、然共定次公十二歳ニ而、未成人ならざる
 故御城代職不被仰付、関東吉井へ御所替也
 
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 天正十八年より再び御城主毛利河内守侍従藤
 原秀頼公今年関白秀頼公小田原北条を
 御征伐、毛利秀頼公小田原発向御軍功ニ依而秀
 吉公仰ニ、信州伊奈郡者其方本国之間被下置
 との上意ニて、羽柴称号豊臣の姓を被下、小田原より
 直ニ御入郡御知行高伊那一郡百十四ケ村八万石一円
 ニ被下候
 
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 当御代本町壱丁目弐丁目を御建被成、番匠町の上ニ
 田を埋而町家を建池田町号し、御城御普請
 有て外曲輪ヲひ路め、御家中屋敷も段々相建
 本町弐丁目之上ニ十王堂有、是を箕瀬羽場へ
 移し此迹にも町屋を仰付ら連、十王堂町と号
 夫ニ続而箕瀬通りニも百姓思ひ/\ニ町家を建
 上方御往来道筋故、段々相建伊那街道も
 西之山手へ造り替被仰付、文禄二年迄街道成
 
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 就也、文禄元年朝鮮国御征伐ニ仍而毛利秀頼公
 御発向渡海、御軍功有御帰陣乃時於途中ニ
 御病死
 文禄二巳年より京極修理大夫源高知公御知行高
 拾弐万石伊那郡高八万石并木曽妻籠添生
 渡り限り美濃境大白落合中津川辺迄四万
 石合而拾二万石御領知也、上伊那高遠へハ為御城代
 老臣岩崎左門殿を被居置、此御代亦御城
 
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 御普請有、御家中も所々ニ相建、然る処慶長五
 年丹後へ御国替也
一慶長六丑年より小笠原兵部大輔源秀政公
 御知行高五万石、此秀政公下総石古河より御移り
 下伊那郡五万石を御知行被成、当御代江戸御
 城之御天守御普請ニ付而信州之諸大名へ材木
 御用被仰付、小笠原兵部太夫様石川玄蕃様
 保科弾正忠様真田伊豆守様下伊奈郡遠山
 
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 より長さ拾七間余之良木を伐出し江戸江運送し
 被献之
 慶長十九年寅冬大坂御陣之秀政公并ニい水
 殿忠脩公忠政公御父子三人大坂御発向、翌年
 夏御陣ニも御留守中ハ御城代
      光ル三郎右衛門殿御在城
一元和元卯年より御当城高遠御城御城主保科紀伊守
 源正光公御預り御地方濃州久々利千村平右衛門源
 重長公御預り御代官所ニ成、御城より十町西之方
 
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 箕瀬羽場之御蔵屋敷を建ら連、御手代衆を被
 差置候
 元和三巳年より脇坂淡路守藤原安元公予州
 大洲より御移り御知行高五万五千石御領知被成
 此内上伊那一万石
   下伊那四万石 五万(千)石ハ上総国長良郡一ノ宮ニて
 御領知被成候
一寛永十四丁丑年飯田御領惣検地被仰付御改
 帳面飯田御城廻り四十六ケ村、但し北ハ赤須東ハ供野
 
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 南ハ下瀬也、此高三万六千三百石余此内飯田郷の高ハ
 千七百七拾参石弐斗三升、猶此内四百弐拾三石弐斗三升
 御城廻り御家中町家分、残而高千三百五拾石今の上飯
 田村也、此物成六百三拾壱石九斗八升弐合平均免四ツ四分
 五厘余、猶此内ニ而物成拾五石七斗三升九合御城廻り
 出来分
一下條領二十八ケ村此方三千七百石余、月原より南ハ三州境
                  新野村迄
一上伊奈箕輪領ニ十三ケ村此高壱万石
 
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   伊那郡分惣高合五万石也 此外ハ五千石ハ上総国長柄郡
               一之宮ニて御領知
一御城下町拾三町古来京極高知公御代迄毎年御用
 之桧(榑)木伐出し御地頭御用御遣ひ被成候、此桧(榑)狩人足
 町役ニ被仰付松川江人足出し候、此割付松尾町二丁目
 池田町本町二丁目此三町ハ本役と定、小間五間口より人足弐拾
 四人、但し一ケ月二人積り、外拾町ハ半役と定め五間口一軒
 より拾弐人宛ノ出之相勤候、惣而町屋古法之間数右之
 通ゆゑ、五間口を以壱軒とす、隣家との庇合片方より弐寸
 
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 五分宛の余斗一仕切五間口ニ是にて、五寸宛の余斗也候
一町役桧(榑)狩人足之儀古来町方ニ当座抱之下部ハ無之
 過半譜代之下部ニて人足ニ出し、下部無之者ハ自身ニ
 罷出候、然処桧木御用小奉行衆と自身罷出候町人
 足と口論を仕出し、町人足兄弟ニて小奉行殿を打擲
 致し候、此段御詮議ニ成、彼人足兄弟を御伝馬ニのせ幡
 多たて町中引渡し獄門ニ御かけ被成候、是より町中恐連迷
 惑がり人足代米ニ直し上納仕度候と一統奉願上候也
 
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一右之通京極様御代迄桧狩人足差出候処、則慶長六丑
 年御所替ニて小笠原兵部大輔様御越ニ相成、御知行も
 五万石に成、御城下町衰微致し家持茂所々へ稼ぎに出
 女童斗り留守居、年中も家主留守多、町役人足
 御勤め難く問屋も潰連、本町二丁目南側下横町の角より
 二軒目与惣兵衛壱人ニ而惣町之問屋相勤候躰ニ成行
 候故、右与惣兵衛町中へ相談致し、人足代毎暮
 米ニて上納仕度旨願上候処ニ、御聞届被遊本役壱軒
 
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 より一ケ月ニ弐人宛年中弐拾四人、半役壱軒より一ケ月ニ
 人足壱人宛年中ニ拾弐人宛出し、人足壱人前賃共
 米四升宛五間口本役壱軒より廿四人分米九斗六升
 宛、半役五間口一軒よ里人足拾弐人分賃米〆
 四斗八升宛、極月ニ入毎年上納仕候様被仰付
 此代米後ニ地子米と申慣し候事、当御代右桧(榑)狩
 人足代米拾三町地子米と直り、現米弐百六拾石此俵
 数六百五十俵宛差上申候事
 
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一御城下町市運上之事、古来飯田へ付来り候塩茶
 肴等馬方之心次第ニ何連之町へな里とも卸
 売払申候、然るニ知久町へ参り候馬一円無之候
 知久町通り衰微致し候様ニ成大に迷惑がり、三問屋
 相談之上市付之馬割付之義、御役人中江御願申上
 則御免被遊左之通り被仰付候事
 
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       定
  松尾町通りハ      浪合より参候馬
  池田町通りハ      平谷辺より参候馬
  本町三丁通りハ     駒場筋并近村より参候馬
  知久町三丁通りハ    横畑・根羽より参り候馬
  大横町ハ        武節・津具并こぼれ馬
 右之通り相極荷付馬参候宿ニて売払申候事、如斯市馬
 被仰付、市馬付候処、大横馬宿宜敷候故歟こぼれ
 
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 と名を付皆大横町へ参り、竪町淋敷成候故、知久町庄屋
 與右衛門此義を申出し相談相極、寛永年中御願申上候
 処ニ、町御奉行下津屋金左衛門様御聞届被遊、塩茶
 肴荷向後一町ニ而二日宛市を立、順々馬付候様ニと被
 仰付、知久町壱丁目より始め、松尾町壱丁目を終りとし、又
 知久町へ戻り候様ニ、其中ニ惣町の上り市を二日大横町へ被
 下候、上下之横町上中下沓草鞋てん屋物斗売
 買仕候様被仰付候、此時迄家毎ニ見せ店ハ無之候而
 
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 市ニて諸色売買仕候故、塩壱駄ニ付恵比寿塩壱升
 宛市ニ而取溜たるを、小間之割被申候、其外古来より馬
 宿塩をはかり候内、百折分ニ筵払を致候事
一市之恵比寿塩并ニ筵拂古来より被仕来候所、市ニ而
 度々如此仕候も六ケ敷候間、請合候ものゑびす塩を被
 ため勝手次第ニ売払、暮ニ成一ケ年分之塩代
 米六俵者町へ出し申し候、此儀宜敷候ハヽ惣町請合ニ
 成町毎にて請候事
 
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一市運上右之通り請来候処ニ斗り塩を止め、引俵致し
 売買致し可然と馬方馬宿惣町共ニ申談じ候、馬
 宿田町塩屋小右衛門大横町又兵衛本町塩屋嘉兵衛
 三宿相談相極、馬方壱人ニて馬三疋宛追来候処、御余
 塩三升筵払三升三太ニ六升を代ニ直し、七拾弐文ニ払
 但壱疋ニ付弐拾四文積り相定め、市町江仕来り候、是より
 運上と申し習ハし候、夫故御地頭様へ不被召上町中江
 被下候御事
 
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 三問屋より御願申上候而町中運上、古来より取来候処ニ、
 問屋共之義何も助成無之候間、向後町人付颪候木綿
 古手くり綿小間物惣而かがり荷綿買此分三問屋ニ而
 売買仕候様ニと願上候処、御家老脇坂新左衛門様御取
 成ニ而願之通り相叶すでニ御書付迄被下候故、黒
 瀬より付来候茶多て迄問屋へ付込候而平町人至極困
 窮ニ及び一日/\と打過候内ニ、町御奉行代渡邊九兵衛
 様へ被仰付候、此時池田町新井嘉兵衛かかり荷
 
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 御訴訟申上候処ニ、三ケ年之間願候而、平町人願之義尤ニ
 御聞届被遊、右問屋へ被下候御書付御取上平町人願之通
 被仰付候
一正保元申年十月十五日本町角屋より出火ニ而知久町迄
 やけ申候、此時角屋之分横丁へ長屋を作り貨店所
 いたし候故、不家持の小商人大方横町へ店を借り罷出候
 いつと無諸色売買致し候而、殊外横丁繁昌ニ
 成竪町ハ衰微ニ相見へ候、然共角屋ハ大方町年
 
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 寄衆問屋肝煎衆之家ニ候間、訴訟之企も志か/\、
 致し得ず候て打過候ハヽ、知久町通り松尾町ハわけて淋敷
 店之借人も無之迷惑仕候故、知久町肝煎与右衛
 門松尾町肝煎彦右衛門両人右之段御訴訟申上候
 処ニ、却而御呵りを受、上下之横町を一向ニ肴店ニ被仰付
 八百屋物共横町にて商売可仕候、竪町ニ而商売
 致し候へハ曲事たるべきの旨被仰付、弥々惣町
 迷惑仕御願申上候ヘハ、御免無之候、然共松尾町ハ至而
 
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 衰微之躰御聞被及候とて、三ケ年町役御免被遊候
一正保二酉年九月十八日名残町を傳馬町と唱へ可申間
 被仰付候、是ハ江戸江出口伝馬宿ニ被仰付、諸役地
 子米御免ニ被成候ハ御伝馬相勤候故也
一正保五子年三月御城下惣曲輪之外ニ町屋を被
 仰付、則三町割付御書付町御奉行渡邊九兵衛様
 高野瀬久兵衛様、其外御役人御家老様御判物
 被下候、壱軒間口五間口ニ被仰付候、飯田より江戸之出口たる
 
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 ニ仍而伝馬町元之名残
       町  也、同前伝馬宿ニ被仰付町名
 桜町と御付被成る候、御伝馬相勤候故町役御地子米ハ
 御免被遊候、御伝馬御用一ケ月之内十日ハ伝馬町
 二町ニ而相勤、十一日より廿九日晦日迄桜町三町役ニ相勤来候
 往来之旅人泊りハ上方へ通候者ハ御城下の町ニ而
 宿いたし、江戸之方江返り候ものハ伝馬町桜町ニて
 宿致候様ニ相定候、定宿有之旅人ハ勝手次第
 之事也
 
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一桜町ハ新町故商売物被仰付御書付被下候
    正保五子年改元ニ而慶安と成、同三年御書付被下置
    可致売買條々
   一袋茶類之事
   一鍋釜類之事
   一奥馬之儀者相対次第可致宿事
   右領内金出入両種於当町堅可商売、依為
   新在家所にきわひ候様ニと申付候者也
 
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     慶安三庚寅二月日   渡邊九兵衛
                脇坂内膳
            桜町中
 
 知久町壱丁目平沢勘兵衛中程南側ニ家持南側
 愛宕坂之通り横丁を明け候へハ、人馬通路よく賑ひ
 可申と手前之家を二間崩し候而坂頭裏町へ
 小路を明け度由御願申上候処、勝手次第と被仰付候事
 
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一承応三巳年十二月三日脇坂安元公御逝去被遊候事、
一同四年御家督脇坂中務少輔藤原安吉公
   是ハ安元公御養子ニ而堀筑前守様御二男也
一明暦三酉年上飯田村庄屋原田源四郎斬罪被仰付、
 是ハ元和元年飯田御領御代官所ニ成、千村平右衛門
 重長公江御預り被成、箕瀬羽場十王堂手前へ御蔵
 屋敷相建、御役人衆被居候、追付安元公飯田御城主ニ
 御成五万五区相渡り、其残四千石余有之、是ハ伊那ニ
 
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 御座候、然る処平右衛門様御預り候故、右御蔵屋敷も其
 侭被差置候、然処当御代官千村平右衛門基寛公へ
 御相対ニ而上荒町へ御蔵(屋)敷引申候、御蔵屋敷ニ
 被居候衆の茶葉畠有之候を、庄屋源四郎押
 掠地面を不相渡候而、此段御詮議ニ成、右之段斬罪
 被仰付候、則右之茶園畑之代りを御堀外西教
 寺善勝寺裏にて相渡し候事
一御城下町上下横丁商売段々繁昌致し、竪町
 
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 衰微ニおよび、先年御願申上候得者御取上ケ無之打
 過候処ニ町御奉行代り、近藤源介様江被仰付、依
 之町中相談致し、達而御訴訟申上候処、達上願之通
 御聞届被遊、以前之御役人まで御詮議被遊、上下之
 横丁竪町並之商売堅停止被仰付、源介様より
 御証文被下置候、横丁ニ而商売停止御書付十三品
 相定り候事
 
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 一 穀物  一 塩  一 魚鳥類  一 婦登物
 一 青物  一 鉄類 一 繰綿   一 麻荢
 一 麻布  一 小間物一 紙    一 他国来候笠
 一 藁類 〆
一御城下町より上薪山江入方之事、古来より左之通相極候
 松川入山江何連之町よりも入方者、谷川を限り入候事
 野底山川より北之平ハ他村ニ付、上黒田村・同下・飯沼村・南
 條村なり、惣地元ハ別府村也
 
  (改頁)
 
 此入方知久町壱丁目・本町壱丁目・二丁目・番匠町・田町
    松尾町通り三丁
    大横町与本町与田町之間を限り北之方入方也
    上飯田村之内東野
    伝馬町通・桜町通不残大雄寺領共野底入方也
 野底山川より南の平地元別府村入方右同断并木
 もや柴斗りの入方也、山道造り候も追分より入候分こゐだ
 沢迄町分ニて造候法也
 
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一寛文九酉年上飯田村江惣検地御入御改被成候、此御時代
 御城下町作り分古来之通御わけ諸役御免被遊候
 上飯田村江御検地帳被下置候
    上飯田村之内三百四俵目  町作分此外前々より外村ニも
                        町作有之
    山村之内百俵余      町作分有之
    名古熊村之内百四拾俵目有之
    別府村之内桜町市右衛門分之高四拾俵有之
 
  (改頁)
 
 右之分ハ村役御免被遊候、名古熊村ハ御年貢米も村へ持
 運ひ不申、大手御門之内八軒御蔵之南之角を則長熊
 蔵と申長熊村町作分之内、米を庄屋参り居候而、御役人
 中御改請直ニ相納申候、是ハ長熊村百四拾俵之外ハ御家中
 御地頭付ニ而も町作分ハ御蔵ニ入候而、如此納来候故諸役者御免
 ニ而、桜町市右衛門分も村へ米運ひ納候事無之、市右衛
 門宅へ御役人中御出御納被成、則御差図次第相払申候事
一松川上之御橋ハ大横町・松尾町通り・番匠町通り此七町之役ニ而
 
  (改頁)      画像26
 
 かけ来候、橋木ハ上より被下置候
一野底川橋片側人足、桜町・伝馬町役ニてかけ来候
一町方ぼてふり商人〓《フゴ》札運上壱枚ニ付鳥目弐〆文
 宛毎年上納仕候、村方之もの一切不相成事
一御領分中諸職人国役として一ケ月ニ一日年内ニ十二日宛御用
 相勤候、尤御扶持方ハ被下候
一御城下ニ罷在候木馬鞍指之事
          を申、 是ハ古来より下職ゆへか
 御仕置もの有之時、獄門柱を被仰付候事、外之職人ハ不仕候
 
  (改頁)
 
 釘鍛冶之役ニ而打申候、木馬之ものハ、夫故すはうべに
 にかわ作工を致し候者外之者ハ不相成事
一右今度御所替ニ而脇坂中務少輔様播州龍野へ御越
 御当地へ関東烏山より堀美作守様御入被遊、御城下町例
 法新御役人様方御尋被遊候ニ付而、有増覚候分申上候
 趣并古老申伝或ハ手帳ニ書記候分を爰ニ写置
 候もの也、寛文十二子年下野国烏山より御移り堀美
 作守菅原之親正公御知行高野州ニ而二万八千石御領
 
  (改頁)      画像27
 
 知之由、此内五千石ハ御舎弟様御両所へ御分知被成、飯田領
 之内二万石并新田分ニ千石余相渡被申候、御舎弟
 孫太郎様三千石之御分知ハ一ノ宮脇坂様五千石之内を
 被下候由、是ハ上総国也、同年八月十四日殿様御入部
 町中御悦義として鳥目百貫文被下置候、且又町方
 地子米毎年六百余宛上納仕候、是又当御代三分一
 御免被下、拾三町ニ而四百拾七俵七升弐合四勺当子暮より
 上納仕候処被仰付差上申候事
 
  (改頁)
 
一ぼてふり商人〓《フゴ》札運上先御領主様ハ御代札壱枚
 ニ付銭弐〆文宛御取被成候所、当御代初〓《フゴ》札壱枚ニ三百文
 宛ニ御宥免被遊、御札ハ春相渡り暮ニ至り三百文宛
 札ニ添上納仕候事
一御城下町割古来より仕来候建続之小路割
 本町通壱町目・弐丁目・三丁目初十王堂町といふ御城追
 手まへより西へ大横町之角迄三(ママ)百四拾間有、是を三町ニ割
 八拾間を壱丁とス、知久町通り壱町目・弐丁目・三丁目間数
 
  (改頁)      画像28
 
 右同断但三丁目ハ古来鍛治町といふ、三丁目南側中之
 小路長源寺と云寺有、掃地之後武家屋敷ニ成故
 明来ル壱丁目南側之小路有、是ハ下之角家主平沢
 勘兵衛家地の内也、其頃
 駿河大納言様浪人宮崎茂大夫と云人を右勘兵衛
 むこに致し浪人を立罷在候、愛宕坂より往来之人々此
 所へ出候ハヽ、末々一丁目繁昌ニ可成と御届申上、彼家
 之内を二間くづし明候而、往還江一人二間分之地子米御免ニ
                         被成候
 
  (改頁)
 
 番匠町通り・池田町・田町同数右同断
 松尾町通壱丁目  二丁目間数同割三丁目ハ衰微
     初伊勢町也、
 候ゆへ馬市御免被遊候事
 大横町通北より南へ百三十九間有
  池田町通り問屋下也
  但箕瀬町境大川より北方西側間口四間上飯田村之内
   箕瀬分ニ而年貢出候也
 
  (改頁)      画像29
 
 上横町・下横町・堀端片側町
   此三通りハ竪町角屋之内ニ而、通りを除小路を割候也
   上下横町南より北へ百七拾間余
 堀端通大手前より北へ不明御門坂頭百五十間、同南
 知久町之裏通り迄五拾間合而弐百間有
 右拾三町を御城下町屋と定、軒数五百六拾三軒有
 伝馬町壱丁目・弐丁目、古ハ名残町といふ、江戸へ出口御伝馬
 宿故、正保二酉年九月十八日被仰付、伝馬町と改め唱へ
 
  (改頁)
 
 申候、地子米御免枡形桜町之木戸際迄伝馬町分、
 則伝馬町之問屋与三左衛門相勤申候
 桜町壱丁目・弐丁目・三丁目正保五子年新規ニ町家被仰付
 相建地子米御免新町故繁昌不致候ニ付、鍋釜売
 買并袋茶の市一円ニ被下置候事、月初十日迄伝馬
 町之役、十一日より晦日迄桜町ニ而御伝馬役相勤申候、御奉
 行御代官御役人中の村方御用御差紙御触書等相送
 脇坂様御代ハ町御奉行より御書付出候而取次申候処、
 
  (改頁)      画像30
 
 当御代御役義少々候故、夫ニ及ばず上郷村へ相送申候
 当村之あて有之候村まで持参致候連名之御書付ハ
 初筆の村へ相届け夫より村継ニ仕候、
     右五通り十八町を飯田町と申候
一御城外ニ有之候御家中小路
     馬場町小路南側
     江戸町ハ 同断
     破魔射場 此度掃地と成
 
  (改頁)
 
     元永正院 屋鋪右同断
     袋町   右  同断
     細屋小路 右  同断
     升形長屋 右  同断
     西裏御茶園 右掃地ニ成
     長久寺前長屋 右同断
     下荒町    南側
     上荒町    南側
 
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     文入前    真光寺前也元祖飛騨より来り候僧文入ト申候僧
            被居候より文入ト申慣し候由、此度掃地ニなる
     梅南小路   古来龍勝寺之地にて梅南和尚被居候、其後
            寺替被仰付御家中屋敷ニ成候故、梅南
            小路ト申候、此度掃地ニ成
     上飯田郷   初南側侍屋敷ニ而梅南行ぬけ也、此度割
            替士屋敷ハ掃地ニ成小屋敷御長屋建
     箕瀬長屋   十王堂前之屋敷ハ掃地ニ成
     長光寺曲輪  掃地ニ成
     裏町通り  竪町の内東愛宕坂江両方少し残り
                    外ハ掃地ニ成
     追手前組長屋今度町屋敷ニ成
     不明御門前長屋右同断 以上
 
  (改頁)
 
一箕瀬町之義古来より上飯田村之内二而在郷町也、然処
 先年隠田ニ似たる訴人有之申上候ニ付、御詮議之上南
 之方の家三十間斗被召上入札被仰付、五間口宛買取
 申候、此時何ニ而も願候而商売仕候様ニ被仰付、穀物を奉
 願上御運上差上可申旨申上候得者、御免被遊候而暫之内
 穀物売買并ニ奥より参候越後肴迄商売致候、依之
 町方より御願申上候而、既ニ御詮議被遊御城下町古来より之
 商売物故、其通り御聞届被成下、然共箕瀬町より
 
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 地代運上半分より金子五拾両程之積り被売家分四拾六両
 程宛上り候間〆金九拾六両拾三町より差上候様ニ被仰付、寛
 文六午年より又元之始之箕瀬町在郷町ニ被仰付候、夫より穀
 商売段々猥ニ相成、何方不限売買致候ゆへか、寛文
 十二年以来右九拾六両之御運上者不被召上候
一町方地子米之事町方役之問屋・庄屋之役替ニ而
 小間の違背之候得者、少々宛増減有之候、知久町壱丁目
 御堀端之方北の角松尾町壱丁目御堀端北之角ハ
 
  (改頁)
 
 脇坂様御代御組長屋ニ而有之候処、御所替以後町
 屋ニ被仰付、地子米増候事
一町年寄諸役御免并ニ居宅地子米小間拾三間口迄
 ハ御免許事
一三問屋諸役御免并居宅間口拾間分ハ地子米御免
 毎年米八俵宛壱人ニ被下置候事
一町方庄屋六人ニ米弐俵宛被下、尤壱人ニ御俵ニ候并地子
 居宅五間御免被下候事
 
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一町方小使ハ町之軒役ニ小間壱口ニ米四合麦四合宛
 夏秋集候而給候分ニ致し候事
一御領分中町方諸職人之内、大工・鋸挽・鍛冶屋・屋根や
 こけらやねし・畳屋・桶屋・籠屋・板かふき、此類ハ国役
 と申候而古来より一ケ月ニ一日宛作料無之御扶持方斗り
 ニ而御領主様江相勤め来り候、此外御用ニ罷出候得共、上中
 下之作料御吟味次第被下置候、大工・木挽・屋根屋ハ一日壱
 升五合扶持、其外ハ一日三升扶持被下置候事
 
  (改頁)
 
一大工棟梁弐人・畳屋統領壱人・鍛冶頭料壱人毎暮米
 壱俵宛被下置候事
一御城御用水普請人足十三町之役ニ而、古来より出勤来り
 水奉行殿より被仰下次第人足出し候、火事騒動之時ハ早速
 水掛人足差出候、惣而町人足ハ一日米壱升被下置候
 筈ニ古来より御免之事
一馬場小路・中ノ町・江戸町御用水ハ伝馬町ニ水掛役壱人
 被仰付、暮ニ米壱俵麦弐俵年中ニ〆三俵宛被下置候
 
  (改頁)      画像34
 
 水道井普請ハ伝馬町桜町之役ニて人足出し来り候事
一野底橋掛人足伝馬町桜町為役ニ而人足出し来候事
一町屋辻番所御城下ニ十五ケ所、伝馬町桜町ニ五ケ処有
 之、古来より町役ニ而相勤候事
一知久町壱丁目南裏通り愛宕坂上り候口より東江御堀
 端まてハ御家中屋敷故、用心のため二間通り小路を
 御被路免被仰付、当御代替地裏町御長屋裏ニ而
 被下候事
 
  (改頁)
 
一太守堀美作守親昌公寛文十三丑七月十六日御逝去被遊
 御家督周防守親貞公無相違御領知被遊候事
一貞享元子年六月十日夜亥ノ中刻池田町南側中程
 亦助家より出火、池田町・番匠町・松尾町壱丁目・二丁目・本
 町三丁目半分・二丁目不残・壱丁目少々残る
 右之通り不残焼失、亦助早速寺入致候、類火ニ逢候者
 廿人、御城主 親貞公より壱人ニ米八斗・材木拾本・縄拾わ
 宛被下置候、此所焼跡町幅片側ニ而三尺宛用心之ため
 
  (改頁)      画像35
 
 御ひろめ被成候事
一貞享二丑年越後国高田御在番ニ御越十一月八日越
 後におゐて 殿様御逝去、無御世継依而近藤織
 部様御子千之助様を御養子ニ被成、御家督被仰付
 候而、又七郎様と申上候後、美作守親常公斗申上候
一元禄六酉年六月十九日夜子刻、番匠町北側権右衛門
 家より出火隣家類焼、依之類焼のものへ米八斗・
 材木拾本・なわ拾把親常公より被下置候事
 
  (改頁)
 
一元禄九子年十一月十九日子刻、桜町二丁目東側太左
 衛門家より出火南側焼失、此時も類火之ものへ米八斗ニ
 材木十本・縄拾把宛被下置候事
一元禄十丑年三月廿七日太守堀親常公、於江戸表ニ
 御逝去無御子、依而堀外記様御子長吉様を御養子ニ
 被遊御家督相続堀玄蕃親賢公ト御改被遊候
一元禄十三辰年三月廿四日飯田町惣曲輪御改御役人中様
 方御見分被成候、同廿五日御城下寺方江宮崎平六殿御
 
  (改頁)      画像36
 
 廻り被成、御堀之内寺院之土手ハ土手頭の上より内ハ寺分頭上より
 外ハ御堀之分ニ而寺之境内ニ無之由、急度御改メ有之、古
 来如此よしにて被仰付候、裏之垣境右之心得ニ而
 結垣致候様ニ寺々へ被仰付候
一上下横町商売竪町より賑ハ敷繁昌、肴店盛んニ成
 竪町衰微のやうニ成行候ニ付、町中相談之上元禄
 十五午年太守様堀大和守親賢公御役人中迄目安を
 以御訴訟申上候処ニ、相手方横町分角家持被召出、度々
 
  (改頁)
 
 対決被仰付御吟味之上、四ケ年の間御評議有之、宝永二
 酉年閏四月廿五日御裁許被仰付、此筋之御役人ハ
       御郡代
               東原市右衛門 様
               杉本所左衛門 様
       御町役人    黒須五右衛門 様
               宮崎相左衛門 様
               松沢善右衛門 様
 
  (改頁)      画像37
 
 右之御人数之古来之通近藤源助殿御証文相立、竪町
 利運ニ被仰付候角屋敷主知久町通小左衛門・次郎四郎・曽
 右衛門・与右衛門、本町之上五郎右衛門・九郎四・文左衛門・三郎五郎・弥左衛門
 庄兵衛・治郎左衛門、番匠町清兵(衛)・治郎兵衛・池田町喜三郎・清七、此外
 ハ差而出店なし、横町之方間口二間ハ竪町同前ニ商売物
 出し可申候、是より横丁の方ハ御停止之十三品之外物を
 売買可仕候、角店より横町へ押廻し店を所々して、売物之
 品は御定之通別々ニ出候義ハ紛敷候間、仕切候而商売
 
  (改頁)
 
 可致旨被仰付候、右之通ニ付横町役ニ勤来候辻番
 竪町并堀端ニ而相勤并御堀端之通り之掃除も竪
 町へ請取相勤可申旨被 仰付候
一堀端通りハ御城追手前ゆへ商売竪町並ニ仕候故
 堀端通り小店へ辻番横町之分掃除半分より御堀の
 方ハ竪町之人足ニ而掃除いたし候、本町壱丁目・二丁目・番
 匠町人足罷出候事
一不明御門坂頭より伝馬町坂頭迄ハ谷川非人共之役ニ掃除仕候
 
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一谷川通り之内人離連場ニ而候故、牢守之一家八郎兵衛
 出店仕夜四ツ時迄行燈出し置可申旨御願申上、御免被成下
 出店仕候事
一伝馬町之先枡形も桜町木戸際の溝迄伝馬町の役ニ而
 掃除仕候事
一此頃町方上納之地子米高之事
   一米六拾九俵弐斗八升弐合弐勺  知久町通三町
   一同百拾五俵三斗壱合四勺    本町通三町
 
  (改頁)
 
   一同百四拾四俵三升五合八勺   番匠町  池田町
                   田町   大横町
   一同九拾四俵三升六合八勺    松尾町通三町
   〆米四百三拾三俵弐斗五升三合七勺
一知久町壱丁目愛宕坂より入口横町二間之小路高寄せ付
 手せま候而商内事不自由ニ付、右小路より上の分壱丁目ニ而
 一間半家買壊し候而、小路を三間半ニひろめ度御届
 申上候而、御地子米御免被遊元二間ハ平沢勘兵衛時代
 明ケ候分一間半町寄合金ニ而家買廣め候事
 
  (改頁)      画像39
 
一御領分中盗賊御吟味のため目明し差置連可然との義
 ニて伝馬町九左衛門・太左衛門両人、元禄十六未年初而被仰
 付、毎年暮ニ金弐両宛壱人ニ被下置、其外町中よりも可取
 合金取集
一町方出火之砌御奉行へかけつけ人足古来無之事ニ
 候得共、此度新規ニ被 仰付候
一宝永二酉年春町方人別御改、御城下分人数四千四百
 八拾三人同男二千三百九人女二千百七拾四人、御領分中壱万
 
  (改頁)
 
 八千四百六拾四人家数〆三千拾壱軒
一御領分中金銀銭札遣ひ被仰付、元禄十七申年二月
 より始り通用致候処、宝永四亥年十月十三日於江戸
 表ニ、諸国札遣停止被 仰出候よしニて相止候
一宝永四亥年十月四日地震強く揺き、御城内町在
 々大破、町方斗り潰家五十軒・半潰百軒・土蔵之潰
 連二十ケ所・半潰土蔵六拾八ケ所有之、御領分中貧
 敷もの潰家壱軒ニ材木拾本・縄拾把宛、半潰へ軒
 
  (改頁)      画像40
 
 材木五本・縄五把宛、其外米迄被下置候
一御領分中質屋之事、古来より面々心次第質屋致度候処、
 札遣被 仰付候より御改有之、質屋株願出候通二被仰付
 拾軒ニ相定候
   知久町壱丁目       福住善右衛門
   本町壱丁目        笹屋治郎左衛門 宝永七寅年御免
                        兵右衛門二男久松と
                        御帳ニ付
   同 二丁目        伊勢屋権三郎
   同 三丁目        南部屋五郎右衛門
 
  (改頁)
 
   知久町二丁目       紙屋喜三郎   宝永七寅年御免
                        兵右衛門二男久松と御
                        帳ニ付
   本町二丁目        團屋彦九郎
   番匠町          駿河屋市太夫
   池田町          塩屋治兵衛
   同            釘屋弥兵治   宝永七寅年米屋弁右衛
                        門ニ御免、正徳二辰冬池弥
                        平治ト御帳願直し被成
   松尾町三丁目       河内屋源兵衛  文化八未年春池田町 
                        西沢勘右衛門御帳へ
                        願直し
一御領分中酒屋之事、古来より酒造株有之造来り候、諸
 国米高直ニ付酒造高減じ候様との義度々被仰候、其上
 
  (改頁)      画像41
 
 元禄十一年寅十月亦々御改、前々之五分一造候様ニ被仰付
 候、酒造米高ノ運上被仰付候、私領方ハ御地頭へ被下、御
 料方ハ御代官へ被上、 公儀へ上納仕候様様ニ被仰付、飯田
 御領分御改有、古来之酒株五十三株ニ御定、元禄
 十二卯暮より酒運上差上申候処、宝永六丑年より運上
 御免被遊、然共酒造米ハ随分減し株も五十三株
 之外新酒屋停止被 仰付候事
一町中相談之上火事之時分人足支配之ため庄屋
 
  (改頁)
 
 下ニ水頭二人宛相定申度よし願上候処ニ願之通被
 仰付、一町ニ弐人宛家持の長敷者へ問屋より申付拾八丁ニ
 三拾六人、此時より初まり、是を享保十年ニ組頭と申候
一此節町方地子米納高
   一米六拾九俵弐斗壱升八合弐勺    知久町通三町
   一同百五十俵三斗四合六勺      本町通三町
   一同百四拾弐俵壱斗九升五合八勺   番匠町 池田町
                     田町  大横町
   一同九拾四俵三斗六合八勺      松尾通三町
 
  (改頁)      画像42
 
   〆四百弐拾壱俵三斗五升五合四勺
一正徳五乙未六月中洪水十七日十八日大満水百年以来
 未聞也、然共町中ハ別条なし
一同年十一月十七日夜、太守堀石見守親賢公於
 大坂御在番所ニ御病死、御相続堀一学子親庸公
 無相違江戸表ニおゐて被 仰付候
一享保二酉春御領分人別改被仰付町方人数
 五千八拾壱人内男二千六百五十三人女二千四百弐拾八人
 
  (改頁)
 
一近年村々往還之道端家居を建御城下町同前之
 商売猥ニ成候而、町方困窮ニ及ひ候故、打寄相
 談致し御訴訟申上べしと申合、十八町之外御城下
 在郷町
    箕瀬町上飯田村之内、古来此所より愛宕
    自由ニ上り下り成候よし、七十年余以来谷ニ
    成人倫通路不相成事
 
  (改頁)      画像43
 
 愛宕坂出崎之東片側の茶屋ハ、元禄年中ニ建
 同頭之茶屋ハ元禄の初にたつ、野底茶屋上飯田
 村之内、別府村も少し有、但し川端ハ元禄年
 中ニ建初ル、長久寺前ハ享保元年ニ建初茶屋町上
 下山村之内古来より段々建、谷川老守一類并非人
 小屋有、古来より牢屋有之候故河原もの差置候
一享保二酉年町中より御願申上、村々道端ニ家を建御(城)
 下の商売を奪ひ店を出し、商ひ手廣く仕候
 
  (改頁)
 
 故町方難立行よし申上候処、御吟味之上先規之通
 被仰付、則御書付被下置候
      覚
  一村々猥ニ有之由相聞、依之村方相応之商
   売拾ケ条免許之、其余ハ可為停止事
  一大工・桶屋・鍛冶屋・紺屋等之職人、唯今迄有来候
   分ハ格別、向後在々ニ而其職可為義無用之事
  一自今往還へ新規ニ家作無用ニ候、若無処義ニ而
 
  (改頁)      画像44
 
   家建候儀、願出候ハヽ、其品ニより可令免許
  一上飯田村之内箕瀬町ハ御構之内たるニより而格
   別、山村之内上下之茶屋町、上飯田村之内愛宕
   坂ハ御城下たるニより、別段商売許之、停止
   之書付出し候、其外村々百姓家居商売左
    之通り
    一 煮売物    一 餅屋    一 酒     一 刻たばこ
    一 きせる火縄  一 豆腐
               こんにゃく 一 ところてん 一 菓子類
 
  (改頁)
 
    一 調合薬    一 草鞋・沓・草履
    〆十ケ條
    右之外者可為停止者也
   享保二年酉十一月         杉本所左衛門
                    黒須卯太右衛門
 
  山村之内上下茶屋町并愛宕坂商売物停止覚
一 白木   一 古手   一 呉服類   一 手前ニ而志め油
一 繰綿   一 婦と物 壱端以下之    一 味噌 塩
             切売ハ格別
 
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一 紙類 但し小売ハ格別  一 新敷鍋・薬缶 一 糀
一 椀屋   一 葉茶屋 但し小売ハ格別   一 穀類
一 畳表類  一 肴屋   〆拾五品
 右之通令停止候、其外新規之家作職人等之
 義ハ村々差出し候書付之通可相心得物也 
     享保二年酉十一月           杉本所左衛門
                        黒須卯太右衛門
 
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    本町通・知久町通・番匠町通・大横町通り
    松尾町通右拾三町与伝馬町与塩并肴
    売買之儀及争論ニ糾明之裁許
一塩并肴御城下町ニおゐて売買之義、往昔者尾
 州江通路之在之中馬追、出所より両種之荷物ハ
 御城下本町通・知久町通・番匠町通・松尾町通り買
 付之町々江付参り候得共、其町中として買分ケ他
 町之倚(綺)無御座候処ニ右十三町之者共申合、寛永
 
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 年中より二日宛廻り市ニ仕来り、両種之運上銭
 古来之法を以十三町内市場町へ相納申候由緒、拾三町
 之者申之、伝馬町より申候ハ往昔ハ伝馬町江も両種
 之荷物市廻りニ而付来り候得共、元来貧敷町ニ而
 候得者、市場相立不申候由雖申ト、寛永年中より二日市
 相定候、以来ハ市場不相立、勿論運上銭不取来候
 得者、伝馬町之申分不法二候間、自今市廻り運
 上納候義ハ拾三町ニ限り可申事
 
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一右両種之内塩荷物十三町之内市場江付参り
 十三町之商人共買取り可仕候、其日之市場ニ而塩荷
 多売残り候得者、翌日市町江廻し買分け仕候
 処ニ馬方共翌日迄逗留之義迷惑之由申候ニ付、
 拾三町申談之余り塩ハ、馬問屋江卸候様ニ近年
 申合候得者、馬問屋共市場より買分け自分之心
 得ニ而伝馬町江も買分ニ仕候ニ付、当春相改市場
 之余り塩問屋へ卸候ても市場之任法ニ、十三町
 
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 之外は買分ケ仲間へ入不申候由十三町之者申候
 伝馬町より申候者、買分ケ之義市場ニ而も問屋場ニ而も
 十三町之もの共一同ニ買分ケ商来り候よし申、是を
 双法糺明之上伝馬町之者ども問屋場ニ而調へ
 候義分明ニ候得共、市場ニ而調へ候義者曽而不相聞、自
 今以後市場之余り塩馬問屋江卸候儀無用ニ候、古
 法之通市町ニおゐて十三町之商人買分ケ仕、余り
 塩候ハヽ翌日之市場へ可相送事
 
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一肴之義寛永年中廻り市相成候節、一両年
 之内市場へ卸し十三町之者共買分候得共、
 其以後多年之内市場へ卸候義無御座候、不残
 馬問屋江卸候而十三町之者共買分ケ仕候、伝馬町
 之者共肴商仕候義ハ拾三町之内肴屋之売
 子分ニ而候間、買分ケ候儀ニ仕候由、拾三町より申候之、伝
 馬町より申候者、問屋場ニ而肴買分ケ候儀、以前者
 十三町之者共と一同ニて〓《クジ》取ニ而買分ケ候得共、近
 
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 年猥ニ相成問屋場ニ而十三町之者共奪取ニ買分ケ
 商来り候、多年肴商売候者共数多く御座候得共
 売子と申義曽以無御座候処、当春ニ至売子ニ
 相成候而者肴買分不相成由ニて差押へ候旨申
 候ハヽ、双方令詮議候処ニ売子と申す義不相成候、前
 之通肴荷物者問屋場へ卸十三町伝馬町之商
 人共同様ニ買分ケ可申事
 
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 右之通塩荷肴荷市場并問屋場ニ而商人共
 買分ケ候儀、令裁許畢為後証双方裁許
 状一通宛相渡候間、永不可違背者也
   享保五庚子年
       七月五日         黒 卯太右衛門
                    高 源八
                    杉 所左衛門  
 
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                    舘 太左衛門
                    阿 四郎兵衛
         本町通り
         知久町通り
         番匠町通
         大横町通
         松尾町通
            右拾三町之者共
                飯田記終ニ
 
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              番匠町
               わたや庄助
                   持主
              明治十八年八月
                  蜂谷所蔵トナル