ところが、秀吉の裁定に違犯する事件が間もなく起こる。真田の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で沼田城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗っ取ってしまったのである。これについて真田信幸より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田)へ、まずは使者を出して知らせるよう指示している(写真)。
 真田信幸宛徳川家康書状 |
<史料解説>
「真田信幸宛徳川家康書状」 真田宝物館蔵 天正十七年(一五八九)十一月十日 秀吉の裁定により真田方に残された上州の名胡桃(なくるみ)城が、北条の兵に奪い取られた事件を信幸が家康に報じたおりの返事。家康は裁定の検使津田・富田の二人にまず知らせるように指示し、きっとその両人から秀吉に披露(報告)されるだろう、としている。 [ 目録 ]
<訓読>
来書披見候。然れば、なくるミの事其の意を得候。左候へば、其の許 の様子京都の両使存ぜられ候間、則ち彼の両人迄其の方使者差し上げ候。定めて披露申さるべく候。将又(はたまた)菱喰十到来、悦喜せしめ候。猶(なお)榊原式部太輔申すべき也。 十一月十日 家康(花押) 真田源三郎殿
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