NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■宿継要書留 [解説] 

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 『宿継要書留』は、飯田市立中央図書館に所蔵されている「飯田文書」の中にあります。
 「飯田文書」は、様々な経緯で飯田図書館に集まった、旧飯田市(現飯田市街地および上飯田地区)関係の古文書の総称です。これらの中には、既に翻刻されて出版されたものもありますが、まだ翻刻されていない史料もたくさんあります。
 『宿継要書留』は横半帳という形態の帳面で、普通の横帳の半分ほどの長さの帳面です。裏表紙を見ると、「飯田問屋 大原安正」と書かれています。飯田町の内5町(伝馬町1~2丁目・桜町1~3丁目)の問屋(町役人の職)を勤めた大原氏の記録帳であることがわかります。この記録の中では「大原伊右衛門」という名前で登場しています。飯田町18町のうち5町は、13町のように地子米という税は収めておらず、伝馬役を勤めていていました。多少の商売はしていましたが、街道を通過する人々の宿泊や荷物の継送りを主たる仕事にしていました。この帳面は、「宿継要書」と表紙に書かれていますが、宿継に関係するいろいろな書類を書き留めた帳面で、江戸時代初期から中期くらいまでの書類が集められています。人や荷物の継送りをする伊那街道の宿場と、荷物を付け通す中馬稼ぎの人たちや、荷物を送り出したり受け取ったりする飯田町商人たちとの争いに関係した書類です。文書のほとんどが争論の記録で、寛文期(1661~1673)・元禄期(1688~1704)・宝永期(1704~1711)についてはわずかです。宝暦期(1750~1764)から明和期(1764~1772)の二つの争論についてが、帳面の9割を占めています。この帳面に載っている文書は、およそ次のようです。
 ①正保3(1646)年  飯田藩脇坂氏より市田問屋に渡された7品の定書
 ②元禄7(1694)年  中馬追いと伊那街道16宿との争論の裁許書
 ③宝永3(1706)年  伊那郡中馬と筑摩郡中馬との争論の裁許書
 ④慶安3(1660)年・享保17(1732)年・享保20(1735)年宝暦5(1755)年  町役人への申渡し、桜町の商売についての申渡し、木曽路への伝馬について
 ⑤宝暦12(1762)年~宝暦13年宝暦の中馬一件、中馬御検使米倉幸内・高橋八十八へ差し出した書類の写し
 ⑥明和6(1769)年~明和7年駄分荷物についての争いに関する諸書類
 天正18(1590)年7月に再び飯田へ入封してきた毛利秀頼は、飯田城拡張・飯田城下町整備に力を尽くしました。この時飯田より北部の街道を、天竜川沿いから西方の山沿いに移すことに着手しました。そして脇坂氏の治世になって、宿駅制度が完備しました、正保2(1645)年に名残町を伝馬町と改称し、伝馬役が仰せ付けられ、正保5(1648)年に桜町ができ、伝馬役を仰せ付けられました。
 街道が整備されると、宿馬によって商人荷物が運ばれるようになっただけでなく、自分馬による物資の輸送も行われるようになりました。飯田城下町の発達に伴い、様々な荷物が飯田町へ運ばれ、さらに継いで遠方まで運ばれるようになりました。こうした自分馬での物資輸送は,のちに中馬と言われるようになりました。
 寛文期くらいになると、これらの通し馬は宿場と争いを起こすようになりました。寛文13(1673)年馬方たちは幕府の奉行所へ訴えるまでになりました。百姓の要求は全面的に認められ、荷物を自由に運送できることになりました。これが、江戸時代の宿場と中馬の争いの始まりでした。
 元禄6(1693)年伊那街道の16か宿は、宿継の荷物の励行を願い出ました。裁許では付け通しの荷物は自由にしてよいということになりました。一方宿継荷物は、正保3年に渡邉九兵衛が言い渡した7品になりました。
 宝永3(1706)年筑摩郡の中馬が伊那郡の中馬を訴えるということがありました。伊那郡の中馬は、筑摩郡の中馬を新馬と呼び、自らの優位性を主張したが、裁許により同じように自由にできることになりました。
 宝暦9(1759)年上伊那の北部において、伊那街道の宿場と中馬の荷替問屋を持つ村との対立が始まりました。宝暦10年になり、上伊那の中馬村々は下伊那の中馬村々にはたらきかけ、江戸へ訴え出る準備を始めました。そして訴訟になり、中馬御検使米倉幸内・高橋八十八が信州へ出張してきました。松本や飯田などで各地で、詳細な書類を提出させ、いろいろ聞き取りもしました。そして明和元(1764)年裁許が申し渡されました。地域を限っての裁許ではなく、信州全域に及ぶ裁許でした。ここでは、中馬慣行が全面的に認められました。荷品を区別することで解決の基準が示されました。しかし伊那街道については、反対もあり駄数によって区別されることになりました。この裁許書は『宿継要書留』には、全く記録されていません。裁許が中馬公認を中心としたもので、宿場についての規定があまりなかったためかもしれません。しかしこの駄分けによる裁許は、後々に大きな問題を残しました。
 明和6(1769)年から明和7年にかけての争いは、飯田町商人が決められた駄数の荷物を宿継にしなかったことから始まりました。伊那街道の大島・片桐・飯島・赤須の4か宿は、江戸へ訴え出ましたが、飯6町商人もこれに対応して訴え出ました。明和の裁許によって駄分けになり、伊那街道の宿場と中馬稼ぎ及び飯田町商人は、どの品を駄分けにするか曖昧なところをついて、互いに自分たちに有利になるように争いました。この解決は、次の安永期(1772~1781)へ持ち越されました。
 『宿継要書留』はここで終わっています。中馬の争いはこの後も続き、文政期(1818~1830)になると、三州(愛知県)に起こった三州馬との争いが出てきて、天保期(1830~1844)にかけて大きな争いとなります。
 信州における中馬に関する研究は、戦時中の古島敏雄氏による『信州中馬の研究』に結晶する研究が始まりだと思います。戦後中馬を本格的に扱った研究は表れていません。また隣県の山梨県でも増田廣美氏の『商品流通と駄賃稼ぎ』などがあり、信州中馬との関係も研究されています。
 中馬に関する史料は翻刻され、出版されているものがいくつかあります。それらは、『宿継要書留』と合わせてみると、全体の様子がはっきりします。次にその史料を紹介します。
 ①「中馬一件記録集 上」(伊那史料叢書刊行会『伊那史料叢書 十三』所収 1933年12月発行)
 ②『仲馬一件記録集 上・中・下』(近世伊那資料刊行会   1953年12月発行)
 ③『飯田町組頭日記(二)』(市立飯田図書館・伊那史学会  1969年発行)
 ④『新編 伊那史料叢書(五)』(伊那史料刊行会   1975年発行)
 『宿継要書留』を分析した唯一の研究としては、平沢清人「飯田北町の発展(1)~(10)」(『伊那』1971年6月~1972年5月)があります。