NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■善光寺道名所図会 [翻刻] 善光寺道名所図会 巻之五 

   画像29右  現代訳
追分宿へ三里半、牧野候居城、[乙女が城といふ、]
城下の町凡弐十五六丁相対し
  て巷をなし、猶小路多く、家数千余、是より十八丁脇に諸村といふあり、
其村より出し小諸なり、[小室共書す、] 大井庄長倉の里といふ、此辺ハ浅間山の腰を
巡る街道にて、上田辺より次第に爪先上りにて、右裏通ハ干曲川の急流なり、
午(ママ)頭天王宮町中左側にあり、例祭六月十三日より十五日迄、神主小林市正
例年六月十三日午頭天王の神輿出まして、駕輿丁五六十人にて是を舁
て城中へ入り、其後町々を〓廻り、本町に御旅所を搆へて居置なり、十四日ハ
踊子共の衣装揃とて、町の長役の前を踊り巡る、十五日ハ御館に踊子の
舞ふ日とて、十五歳に充ざる児童の麗く衣服装ひ、髪ハ大髻に鬢張し、
月代青く顔赤白く、角鍔の刀脇指我丈よりも過たるを不畏横たへ、女の
童ハいふべくもなく粧ひ立て、幾人も/\町々より出揃ふ、
 
 
   (略)
 
 
此城下より布引観音へ壱里余なり、千曲川の橋を渡り、大久保村・氷村を過る
に、坂路嶮しく、往来の人稀なり、たま/\樵父に道を尋て漸く布引山に到
る、佐久郡滋野庄御牧郷也、小諸より一里十丁なれ共深山なり、
 
 
   (略)
  
  
   画像32右  現代訳
是より小諸に帰りて順道に趣く、先城下の出外に欄干橋といふ橋爪に石
標あり、浅間別当真楽寺道と誌す、又唐松といへる松原八丁を過て、亀沢と
いふ小川の端に人家三軒有、大雨の節ハ此川に亀石流れ来る、其形背腹
共筋ありて、真の石亀の如く色黒し、兼て人の採得しを見侍りき、[三丁程の坂を登りてより、道平らにしてよし、
追分迄の路登り勝なり、]四ッ屋・平原・馬瀬口・三ッ屋等の村々何れも四五丁づゝ相対して憩所あり、
三ッ屋村に石標有り、[浅間別当真楽寺へ廿五丁、星の宮へ十丁、小諸へ通り抜、]其先に濁川とて四季ともに赤濁也、
浅間山の溪滴川をなして幾筋も流れ出れ共、此河のみかく如し、水源の山気
思ふべし、此先に小川あり、領分境の傍(ママ)示杭二本建、追分宿の入口に石標有、
関東より来りて中山道北陸道へわかるゝ手引石なり、又石像の仏躰を数
々たてり、小諸辺より軽井沢宿迄ハ浅間の麓を行るなり、本朝第一の地高
き往還なるよし、駿州芙蓉峯と追分駅人家の軒と高低なしといへり、此辺
反圃の傍に所々石を多く積置り、浅間の焼石とて色黒くして軽し
 
 
   (略)
  
  
   画像34左  現代訳
 天明三年癸卯四月九日より焼はじめ、日々止ことなし、五月廿六日大焼、六
 月廿九日七月朔日二日、此三ケ日昼夜大焼、同六日七日八日此三ヶ日ハ極て大焼也、
  [但し八日ハ昼前計リ、] 北上州吾妻郡にてハ浅間山半腹に石留り云所まて、先年三度
 押出候へども、其処にて留り候故、夫より下へは押出す間敷と心得、只石砂
 の降ことのみ用心にて、岩穴等を心懸候処に、同く八日震動して、魔
 
   (改頁)
 
   画像35  現代訳
 
 風の如く神社仏堂を揺崩し、四ッ半時頃木曽御岳又戸隠山の方より、光
 物此山へ飛来ると見へしより、此山峯子丑の間より山鳴崩れ、沼涌出
 し大石大木を押出し、鎌原村をはじめ夫より羽尾村へ出、吾妻川へ押込、
 川添の村々押崩す、一番の水先には黒鬼と見へし物大地を動かし、人
 家をはじめ森林其外数百年の老木を押倒し、土砂を捲上、火煙
 をたてゝ震動雷電す、二番の泥火石は百丈余も高く打揚、青竜の乱れ
 たる如く、一時に闇夜となり、火石の光は天を貫くばかりにて、吾妻川・利根
 川右川添村々已の剋頃涌出し、未の刻頃にハ武州熊谷の在中瀬村辺まで押
 出し、田畑村里一面に泥海の如し、老若男女の流死前代未聞の事ども也、村々
 田畑泥の深サ五尺六尺又は一丈余も押埋み、其中に火石あって燃あがること
 三十四五度あり、利根川筋別して砂押埋み、両三日流を留む、右川並
 亡村四十八九ヶ村、吾妻川添村々の流死人魂魄夜毎に水辺沢々
 にて泣声止事なく候故、所々寺院方にて水施餓鬼并堂塔供養
 
   (改頁)
 
 追善有之、七月朔日二日焼ること甚しく、軽井沢・碓氷峠・坂本宿・松井田・
 安中・板鼻・高崎、武州児玉郡榛沢郡三十余里の間の灰砂二尺三尺、場所
 により五六尺降り、人馬の通路も絶え、同四日夜五ッ時頃又火坑吹出し、火
 石五十丈余も高く、煙の先に手鞠の如く見へ、砂石雨のごとく降る、同五日夜八
 半頃浅間山より黒雲生じ、その中に一丈ばかりの光物くる/\と廻り、稲妻の
 如し、人々天魔の所為なりとて、銕炮を撃しに、吾妻が岳の辺にて薄
 く成り、北国の方へ散渡り候、右四日五日の両日ハ夜の如く上州碓氷郡・群馬
 郡、武州児玉郡・榛沢郡白昼に家々行燈をともし、道行人は挑灯にて歩
 行す、其五日の朝関八州并信濃・加賀・能登・越中・越前・出羽・奥州まで白き
 毛降る、三四寸又一尺余も有之も見へ候、又一尺五六寸の石に火付候てもえ
 ながら飛来り、落ては砕候ゆへ、坂本宿の商家五十軒余焼失、潰家八
 十余軒老若男女悉く南の方へ逃走りぬ、同く廿日頃より追々に
 立帰りたれども、山林の草木青き物一葉もなく、野菜等迄難
 
   (改頁)
 
   画像36  現代訳
 
 義なりしとぞ、将また浅間山根に住居し猪鹿狼等山野に餌物なく、
 宿内焼跡へ出る故、日暮ては外出も成かね、殊に近所に水なく火のもと
 危かりしといへり、今度北へ三里十一丁の間土石を押出し山となる、其
 中一番の大石九十五間、是に準じたる石あまたなり、
 七月十一日夜ハ大雨大水にて、山々沢々に積りし砂石を押出し、往還
 二手の橋流失にて、宿方も危く見へ、水涌切れし音山河動揺せり、
 此大変にて損じたる村数廿二三ヶ村、流家千二百軒に及びし、惣溺死
 の人凡千四百人程、馬五百疋余、以上は書付の意を採る、
予其物語を聞て、胸つぶるゝばかりになん侍る、夫天ハ生育を主るといへり、
中庸にも君子於禽獣也、見其生不忍見其死、聞其声不忍食其肉
と見へたり、幾許の人馬及び居家田園を失ふ事畏べきの甚しきにあ
らずや、妖怪也奇怪也、天変とやいはん、実に希代の珍事なり、惣ては大
山祗の神のあらびなるべし、
 
   (改頁)
 
 按、宝永年間に不尽山大焼ありて、砂石を吹出し、一つの瘤を成す、
 是を俗に宝永山といひ慣せり、かゝる名山の姿も爰に一つの
 廉付たり、其後は烟も立ずなりて今ハ見る事なし、浅間山は
 大焼の後も今にいたりて煙畳々と立昇り、雨催ふ折からハ烟気
 殊に多しときく、
 
 
   (略)
  
  
   画像38  現代訳
○碓氷峠[上州碓氷郡に《カカワ》る、右の名なるべし、] 熊野権現の宮立給ふ、若宮の社は祭神日本武尊当山
の地主と称す、例祭六月十五日、前夜に紀州熊野より梛の葉降、頭白き烏
来り、社内の樹木に宿すること往古より変る事なし、又当山の熊笹の葉
紀州熊野へ降となり、
 
 
   (略)
 
 
夫当社は鎮座の歴代不知、社領なく、古来より諸役免除の社格にして、守護
不入の神地なり、此巓ハ信州上州の境にて、拝殿の屋根片方
ハ信州、片方ハ上州より修理するなり、国分の神社と自称するも此故にあらむやかし、
神人凡て四十五人あり、[廿二軒信州方、廿三軒上州方、] 各家系の祖先を知らず、古記録なし、
 
   (改頁)
 
古いかな尊きかな、独神代より連綿して、此高岳に世を累ね、神に仕る
外亦他事なく、正路にして神代の余風を不失、神境とも謂つべし、大昔
日本武尊東征し給ひ、碓日嶺より辰巳の方を眺て、橘姫を慕ひ、三たび嘆
いて、吾嬬者耶々々々々と宣ひしより、東の方を吾嬬といひ慣しけると日本
書紀に見へたり、此嶺より東を眺れバ、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波
山・日光山など殊に高く見へたり、
 
此山中鹿多し、秋はその声寥亮にかなし、たま/\白鹿見ゆ、雪の如しと
いへり、又此峠は寒気甚しく、五穀の類熟らず、野菜もなしといふ、
則冷際に到るなるべし、