NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■善光寺道名所図会 [現代訳] 善光寺道名所図会 巻之五 

   画像17右  翻刻
 海野へ2里、長瀬へも2里です。松平伊賀守(注1)の居城で、5万8千石を領有しています。城下の町は長く、1里8丁にわたって道の両側に町並みが続き、にぎやかです。
 特産物としては、上田縞・紬・白紬などがあります。これらは、近くの村で織られていますが、城下(注2)にも織屋・呉服屋があり、諸国へ売っています。よい織物を生産している一つの都会といえます。
 
大宮大明神
 諏訪の神をまつっています。六所明神、駒形稲荷、天神は、本社の右にあり、神木である楠の古株と三峰は本社の左にあります。ほかに、舞殿、朱の鳥居、石橋、手水鉢があります。
 
浄瑠璃山国分寺(注3)  天台宗属東叡山
 本尊は薬師如来で行基の作です。上田から1里、小県郡白鳥庄国分寺村にあり真言院と号しています。
 
加賀川
 深山の多数の渓谷から流れ出た水が加賀川(注4)となり千隈川へ入ります。慶長の頃、上田勢(注5)は国分寺を本陣として、20町ほど東の加賀川に柵を構えたといわれています。
 加賀川の橋を渡り、大矢(注6)村海野新田を過ぎると、まもなく海野宿です。
 大矢から右へ別れ、千隈川の橋を越し、長瀬・腰越を経て中山道の長久保宿へ出る道があります。大矢から長久保までは2里16町です。
 


(注1)上田藩主松平忠優(ただます)(のち改名し忠固(ただかた))は、『名所図絵』が書かれたころ幕府の老中で、江戸城西の丸下を上屋敷としていました。彼は日本の開国・貿易を推進し、上田藩は安政6年の横浜開港当初から、ヨーロッパなどへ生糸を輸出しました。
(注2)上田城下には海野町と原町に問屋がありました。城下商人や村の豪農商が上田藩の生糸輸出事業を支えていました。
(注3)信濃国分寺は聖武天皇の勅願で建立されたと伝えられている寺で、国史跡跡に指定されています。現在の国分寺は、寺跡の北方400メートルの地にあり、本堂は薬師堂または八日堂と呼ばれています。八日堂縁日で頒布する蘇民将来の護木は民俗資料としても貴重です。三重の塔は室町時代中期と推定されています。
(注4)現在は神川(かんがわ)と表記し、菅平高原方面からの渓流を集める川です。
(注5)上田の真田軍が、関が原へ向かう徳川軍を上田城で撃退した戦いです。
(注6)現在は大屋と表記、交通の要所です。