NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■善光寺道名所図会 [現代訳] 善光寺道名所図会 巻之四 

   画像55右  翻刻
 坂木からは上田へ3里8丁あります。坂木は、榊(注1)、坂城(注2)とも書きます。9町ほどの間が、にぎやかな町通りです。昔は葛尾城の城下であったといいます。坂木の郷は、南条・中条・北条と分れており、南条は今、鼠宿(注3)といい、中条は今の中ノ条(注4)、北条は坂木(注5)宿です。
 
坂城神社
 葛尾古城山の麓にあり、村上氏がいたころはその城内であったといわれています。祭神大己貴命・事代主命、健南方命を祀っています、社伝ははっきりしませんが、12代景行天皇の世に勧請したと伝えられています。
 東方の野原に飯炊平という所があります。日本武尊が信濃国を通ったとき、吉備武彦がここで飯炊きをしたと伝えられています。
 このあたりに御射山明神という祠があり、坂城神社に属します。神社領は、村上家が支配したころ、300貫文、神主は小宮山和泉守兼武でした。その後、甲州領となり、永禄11年に武田家から7貫文の地を賜りました。
 


(注1)加賀百万石前田氏が宿泊したとき、縁起を担いでか「榊宿」と記されたこともありました。
(注2)現在は坂城と表示します。
(注3)鼠宿村は江戸時代、松代領でした。
(注4)中之条村の中央、北国往還から30メートル程西に入ったところに、幕府の中之条代官所が置かれていました。
(注5)江戸時代を通して、坂木村は幕府領でした。
 
 
   画像59左  翻刻
鼠村は鼠宿ともいいます。
 5、6町ほどの間がにぎやかな町通りです。このあたりは、急峻な岩山が天に向かって立ち、左(注1)は千曲川の急流が、矢のように流れています。会地の関の跡だといわれています。地名考では、その跡はわからないといいます。しかし、たずねてみると会地早雄神社と呼ばれているお宮がありました。会地早雄神社は国史には見あたりません。神社には、閑院宮御祈願所であったという1枚の摺物がありましたので、次に紹介します。
    鼠大明神鎮座由来会地の関の記
   みすずかる信濃の国に会地の関というところがある。東には峨々たる岩山がそびえ、西には緑濃く松樹が茂り、高く募り出している。麓には千曲の流れがみなぎって北越地方に流れている。埴科・更級・小県の3郡が結び合う地で吾妻から越後に通ずる道が続き、行きも帰りも、知るも知らぬも逢う地なので、会地の関という。むかし、日本武尊が東夷征伐のときに、この地で夜を迎え、大伴の健日連公に命じて、草を刈りはらい、仮の宮を造り泊まった。夜は月が明るく、東に嶮しい厳石が覆っているのを寝ずに見ん(注2)との御詞があり、自身で御幣を立て、大己貴命を勧請し、鼠大明神をあがめまつった。これによって、鼠さえ物をそこなうという災いを鎮め、そのうえに蚕養を守った。
 〔中略〕熊野権現がこの会地に出現し、出速男神ともいう。したがって、会地早雄神社と称し、4座の神がこの殿にいる。
 この会地の関は昔から言い伝えられた名所で、いろいろな書に紹介されていますが、いつのころからか、なおざりにされるようになりました。そこで、今回は多くの人にこの名所を知ってもらうために上梓しました。
 
岩鼻
 和合の城山の麓で、とりさえも飛べないような険阻なところです。崩れ落ちそうな大岩には苔がむし、10間から15件あるいは2間から3間ほどの岩が数多く落ち重なり、また山を成しています。その際をつたい歩きして、下塩尻・上塩尻・秋和(注3)などの村々を通過、上田の城下に入ります。
 城下の入り口の新町(注4)から右へ入り、千曲橋を渡ると中之条です。神畑・小島・保野・舞田・八木澤の5か村を過ぎ、別所村(注5)へ入ります。ここでは、七久里温泉・男神岳・女神岳・三楽四院などが見どころです。
 


(注1)善光寺方面から鼠村へ向かうと千曲川は北国往還の右側になります。
(注2)鼠の地名は「不寝見(ねずみ)」で、狼煙台があったところと考えられています。むかし、大鼠が「岩鼻」を食いちぎり、上田の平ができました。そのとき千曲川が一気に流れ出し、急峻な岩鼻の険をつくった、というお話があります。
(注3)この三村のほか、上田城下までの村々は、現在はすべて上田市となっています。
(注4)『名所図会』が書かれたころ、新町は上田藩塩尻組、現在は上田市常磐城です。
(注5)現在の上田市別所温泉です。