NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■善光寺道名所図会 [現代訳] 善光寺道名所図会 巻之一 

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 松本は、岡田へ1里、浅間温泉へ18町の地です。松本は、昔は深志、深瀬ともいいました。松平丹波守の居城で、7万石を領しています。城下の町は広く、大通り13町、町数およそ48町、商家が軒をならべ、当国第一の都会で、信府と称しています。牛馬の荷物が1日に千駄も入りまた千駄が附送られるといわれています。じつに繁昌の地です。この城は永正年間(1504年から1520年)に、島立右近太夫貞永という人が、井川城を移してこれをを築き、そののち大永3年(1523)、小笠原家一族の水上宗浮という人が、信濃国の仁科からこの城に移りました。また天文2年(1533)に、小笠原大膳大夫長時が林城(里山辺)からここに移りました。同22年(1553)から甲州武田家の持城となって、30年間にわたり城代として在番しました。天正10壬午年(1582)になって、ふたたび小笠原右近大夫貞慶(さだよし、小笠原長時の子)が入城して、このときに深志という名を改めて松本としました。
 
 遍照山光明院。松本入口長沢川のわきにある袖が池の傍にあります(馬喰町)。本尊は阿弥陀如来、脇立地蔵菩薩(恵心僧都作)、浄土宗。
 この寺は松本の駅長(松本宿の問屋)倉科という者がまだ駅長でなかった頃の宅地でしたが、のちに寺となりました。この地蔵は石の座像で、高さが4尺あまりで、1人でもちあげられるほど軽いものです。江戸の中目黒明顕山祐天寺の開山祐天大僧正は、この地蔵の化身で、遷化のときに不測の事態がありましたが、後年祐天寺からしきりに競いのぞまれて、その形代(かたしろ、神霊のかわり)として、祐海上人夢中の御姿を模して当寺に安置したといいます。
 
 宮村大明神、松本城下の辰巳の方角(南東)にあり、祭神は上諏訪の健御名方命(たけみなかたのみこと)です。
 天満宮は同社に並んでいます。慶長の頃(1596~1614)、小笠原侯が鎌田村からここへ天神(てんじん)を勧請して、宮村明神の社壇の北に建並べました。大門の先に馬場(ばば)があって、天神馬場と号します。京都北野の右近の馬場を模しているとのことです。末社は本社の左右に列して図のとおりです。社内に万商守護神の祠があり、事代主を祭ります。この例祭はむかしから正月11日の初市立として、塩を売ることがあります。松本から3里ほど西にいったところの一日市場という所に、蛭子(えびす)の社人が3、4人いて、初市には地蔵清水(じぞうしみず、いまは松本の城内となっています)という所で塩をひろめていましたが、いまは松本の本町2丁目に仮屋を搆え、神輿を渡し、その床で天神の社人が塩をひろめる事を執行しています。当日未明から初市立といって、遠近の人びとが着飾って袖を連ねて群参する光景は、じつに初春の寿喜といえます。
 


(注)天神は、歴応2年9月9日、信濃国司小笠原信濃守貞宗が創建したと伝えられ、信濃国一宮の諏訪大社から分霊をうけて宮村大明神と称しました。祭神は、建御名方富命・菅原道真です。小笠原氏が深志城を築き、ここに移ったときに、社殿を西面に直し松本城の巽の方角の鎮守の神としました。当初は9月9日が例祭日でしたが、南深志(女鳥羽川以南)一円の総氏神の例祭として、寛永11年(1634)から7月25日に改められて今日にいたっています。
 松本の歴代城主の崇敬は厚く、いくつかの寄進をうけています。天保12年(1841)に深志神社というようになりました。
 
 
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 里老の話
 越後の大将(上杉謙信)がこれを聞き、甲州と信州に塩がつきてしまい、人びとが困っているようすをみて、これは卑怯であり、仁儀の道にも劣ることであるとして、数万駄の塩を甲斐・信濃の両国に融通しました。旱天に潤雨を得たようだと人びとはたいへん喜びました。このめでたいことが今日に至るまで毎年睦月(むつき、1月)11日の初市には、市神の宝前に塩を供えて、集まった人々にふるまっています。
 


(注)初市の図には、「正月十一日 松本初市」と右上に書かれています。図の上方に放光寺山(城山)が書かれ、その右側に松本城が書かれています。本町の2丁目のようすを描いていて、図の左端に扇子と行灯があって、そこに「書物 高美屋甚左衛門」と書かれています。「商守護神」「市神御広前」「奉納万商守護神」「奉納市神」などと書かれた幟が、道の両側の各店の前に建てられています。「市神社」と書かれている拝殿をみると、正面右側に塩が盛られているのが見えます。拝殿の中の2人が人々に御札を渡しています。拝殿の前には「若者中」と書かれた奉納された酒樽や魚などがたくさん積まれていま。道は大勢の人々で埋まっています。また、女性の姿が多いことにも気づきます。
 
 
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 大宝山正行寺。東派松本御坊といいます。本堂は12間四方、太子堂・経堂・佐々木堂・鐘楼があり、末寺は、妙勝寺・玄正寺・芳仙寺・浄信寺の4か寺です。
 正行寺の開基は親鸞聖人の弟子の了智法師です。俗姓は近江源氏佐々木四郎高綱です。すでに武門の業をつぎ、智謀と武勇を兼ね備え、平家追討の際には、宇治川の先陣にその名を海内に轟かし、石橋山の戦では血戦して勲功を天下にしめしました。しかし、源平の盛衰を夢のごとくなるを感じて金剛峯寺に登り、出家して真言密乗の法を修めました。しかしながら、世間のわずらわしいことや心の迷いのなかで、真の知識があれば迷い夢をさますことができると思い続けていたとき、善因をもたらすには、聖人の越後国に遷謫(せんたく、罪によって遠方に移されること)して、他力易行(いぎょう、他力の念仏)を弘通(ぐつう、仏法が広く世に広まる)するということを聞き、野山を分け、越後の国府にいたり、聖人に面会し、時機相応の法を聴聞して、立所に往生決定の領解(りょうかい、さとること)を究めました。このとき法名を釈了智と賜わりました。
 さて、鎌倉時代前期の建暦元辛未年(1211)に、聖人越後の国府を立て、善光寺へ参籠して関東へ赴きました。了智もこれまで供奉してきたところ、鸞師の命により、信濃国に残り、栗林村で草庵を搆え、一向専念の義をここで始めて弘通されました。ついにこの地で往生の素懐(そかい、かねてからの願い)を遂げられたのです。それから血脈(けちみゃく、師から弟子に法灯がうけつがれていくこと)相承して他力易往(いおう、極楽浄土にたやすく往生すること)がゆきわたり繁昌しました。ここにこの地が武田信玄の持城だった頃、当山の縁起を聞き、栗林一郷除地諸役免許の朱印を賜りました。
 その後、文禄の頃(1592~1595)石川玄蕃頭(松本藩主、石川数正)の菩提所となり、島立(しまだち)の栗林より松本城外の六九(ろっく)に移し、のちにいまの場所に移されました。石川侯が崇敬のあまり、信濃国波田という所に、とくにすぐれている阿弥陀仏の霊像まで求めて、当山の本尊としました。また、太子堂の本尊は放光の太子で、その濫觴(らんしょう、物事のはじめ)は、信濃国安曇郡丹生子村(当山13代目浄珍の隠居所)近所に満仲という所があって、その地の古木の空穴から出現したとのことです。
 


(注)正行寺は、了智上人を開祖とし、かつては島立の北栗林にありました。文録元(1592)年に松本の六九に移り、松本藩主石川康長の菩提所となりました。慶長年間に松本城濠の拡張のため現在の裏町の場所に移りました。享和3年(1803)年閏正月に火災にあい、それから39年後の天保13年(1842)に起工し、檀家の協力も得て安政5年(1858)に竣工しました。
 明治19年(1886)2月8日の松本の北深志町の大火で、本堂・庫裡・廻廊・観音堂などを焼失。その後、観音堂などを建立しました。
 
 
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 光明山念来寺(天台宗弾誓派東叡に属す)、寺の鐘があり、境内に嘉吉2年(1442)の五輪があります。
 源智の井戸。宮村町にあり、井筒亘(わたり)8尺、高さ9寸です。清泉が湧き出して当国第一の名水です。松本街中の酒造はすべてこの水で製造しています。とくにすぐれた清水であるため、松本藩の代々の領主から制札(せいさつ、禁令の条文を書いて立てた札)が出されました。井戸の制札は稀であるといいます。このあたりは大昔は庄内宮村(しょうないみやむら)といいました。天正年間(天正10年、1582)、小笠原侯(小笠原貞慶)がふたたび深志へ入部して、城普請のときに、宮村の地へも町々を引移させました。その後、石川家時代にも御城町家等を修補されました。石川家の家臣である渡辺氏が井水の書札と材木を賜ったときの書札などを今日まで持伝えています。源智の子孫は、今なお宮村町に住居して河辺氏を名乗っています。
 この井水をつかって製造される銘酒は、白滝・不入火・松浪・白菊・藤浪・諸白です。そのほか、名産は、絞類・真篶籠・羽子板・ひいな・清水の里の紙・登鮭・登鱒・烏川の硯石・生坂莨など、みな当地の名産です。中にも絞類・紙類・莨などは諸国へ運送することがとくに多いということです。
 


(注)源智の井戸の名は、中世末の頃、この地に居住した河辺氏の名によると伝えられます。この井戸は湧水量も多く水質もよいため、松本城ができる前から飲用水、酒造用水として利用されてきました。明治13年の明治天皇の巡幸の際には、御膳水として使用されました。その後水量は減少しましたが、周辺のまちづくりにあわせて、平成元年(1989)に新たにボーリングをおこない、地下水脈から湧出することに成功し、この「図会」の図を参考にして井戸が復元されました。地域の人たちがポリタンクを持って毎日水汲みに訪れています。
 源智の井戸のほかにも、松本の城下には数多くの井戸や湧水があります。平成20年には、それの湧水をまとめ「まつもと城下町湧水群」として、環境省の「平成の名水百選」に選定されました。市街地中心が選定されたのは全国的にも松本だけです。
 
 
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 竜雲山広沢禅寺は、松本の東に8町ばかり、林村の山手にあります。曹洞派、開山は雪そう一純禅師です。
 この寺の寺領15石は諸役免許の地であり、山林竹木を伐採することが禁じられています。末寺は13か所あります。この寺は宝徳年間(1449~1452)に小笠原信濃守(しなののかみ)従三位中将源政康の草創です。小笠原家が松本に在城の頃からの代々の仁祠(じんし、寺院)です。大阪の陣の戦場で、小笠原秀政父子が討死のとき、従士の戦死30人、戒名俗称を誌して霊位の左右に列しました。その節義に感賞してその俗称を記し、また200年の遠忌執行のときの記録もあります。
 


(注)広沢寺は、松本市里山辺の林地区の奥にある小笠原氏の菩提寺で、もと臨済宗、のち曹洞宗になりました。室町時代に林城主で信濃守護であった小笠原政康の開基です。裏山に大坂の陣で戦死した小笠原秀政・忠脩父子の墓があります。曹洞宗の寺としては中本山格で、会田の広田寺を始め県の内外に末寺12寺を持ちます。
 
 
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 兎田(うさぎだ)は、広沢寺も門前にあり、5、6反ばかりの田です。古老の話では、むかし長阿弥(ちょうあみ)・徳阿弥(とくあみ)という人が尋ねてきたので、林藤助はたいへん喜んで、自ら兎を射取って捧げて、元旦を祝いましたが、その後に兎田と称して租税免許の地となりました。
 


(注)徳川氏の始祖、松平有親・親氏の父子が、諸国放浪をしていたとき、このあたりに住んでいた古くからの知り合いの林藤助光政(小笠原清宗の次男)を訪れたのは、暮れもせまった雪の降る寒い日でした。何ももてなすものもない藤助は、野に出てちかくの林でようやく1羽の野兎をみつけて捕まえて馳走にしたところ、父子は感動して帰路につきました。その後、徳川家康が幕府を開くと、これはあの兎のお蔭であると、正月には諸侯に兎のお吸い物を振る舞うこと幕府の吉例にしたといいます。林という姓も、徳川氏から賜ったものといいます。江戸時代には、この地は免田(めんでん)として、税を免除されていました。
 
 
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 林藤助旧趾は、広沢寺門前を北へ山際を伝って5、6町ばかりのところにあます。いまは民家が5軒ほどあり、また、少し北の小高いところに石の小祠があって、注連縄(しめなわ)を引いて御府といいます。このあたりは松林で、その御府は昔の鎮守だったといいます。林氏は小笠原家の一族です。
 これよりこの山並みが続いて南へ内田村の牛伏寺までをあげます。この道筋は五千石通といって、松本から塩尻宿へ出る道です。旅人は通りませんが、霊場の1、2をあげます。和泉村(松本市中山)の茶臼山(いまの弘法山)の麓に芭蕉の句碑があります。
 そばはまだはなでもてなす山路かな はせを
 
 金峯山保福寺は、筑摩郡埴原(はいばら)村(松本市中山)にあり、禅宗済家京都妙心寺に属します。信濃百番のうち4番の札所です。
 本尊千手観音(聖徳太子作)、秋葉社(本堂のうしろ)、楼門(本堂の前)、稲荷社(客殿うしろの山手)、鎮守権現(18町奥の山上にあり、そのあたりは科の木が多い)。
 什物は、心経1巻(弘法大師筆)、普門品1巻(唐本)、古画の達磨滝見観音(唐画)、十六善神(兆殿司筆)、涅槃像1幅。
 保福寺の開基は不詳で、数回の焼失で什宝の多くが灰燼に帰しています。わずかにのこっているものを記します。
 慶長19年(1614)に小笠原秀政から再興のときに次のような制札を賜わりました。
    禁制 埴原之郷 保福寺
  一、伐採山林竹木事
  一、於寺内殺生之事付狼藉之事
  一、年寄共無断者致入寺事
 右三ヶ条、違犯之輩有之者、被留置寺中、奉行所江可有御理、厳重可申付者也、仍如件、
   慶長寅五月十五日   
                         兵部太輔源秀政(花押)
 
 重玉松(しげたまのまつ)は、客殿の前にあり、冷泉為泰卿の和歌と重玉の銘を賜わってからこのように呼ばれています。その銘を板に写して傍に建っています。これより先に為章卿が寄せた和歌1首も寺に伝えられています。この松の高さは1丈5尺、幹のまわりは8尺余、低い枝が四方にひろがって東西それぞれ6尺ばかり、南はとくに長く伸びていて11間、北はわずかに3間ほどです。枝節が瘤起(りゅうき、コブのように盛り上がる)したもので50有余、あたかも玉も重ねているのに似ています。そのために重玉松という名がついて、比類なき古松です。往来の旅人も回り道も気にせず訪れて賞嘆しています。
 


(注)保福寺は「松の寺」としても有名ですが、「図会」に描かれている「重玉松」は今はなく、江戸時代の末に植えられた2代目の松が現在の松ということです。図の左にみえる「客テン」(本堂)は、寛政12年(1800)の建立、その横の庫裏は、弘化2年(1845)の建立です。「図会」の書かれたときより後ということになります。描かれた庫裏はおそらく弘化2年に建立されたものでしょう。「重玉松」も立派に描かれています。楼門(山門)は享保期に、また「本堂」(観音堂)は宝暦11年(1761)の建立です。「アキハ」(秋葉堂)は天保11年(1840)の建立です。中央の上部に「奥の院」が描かれていますが、かつて保福寺は「堂平」にあったといい、その場所をさしているものと思います。図の右下に、豊田利忠の書いた歌が書かれています。「はることに みとりをまして いく千代を かさぬる玉の かずやそふらん」と、やはり「重玉松」のことを詠んでいます。
 
 
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 ここから8町ほど南内田村に牛伏寺という霊場があります。この道筋は五千石通りといって松本から塩尻へ通じる閑道です。
 金峯山牛伏寺普賢院威徳坊(筑摩郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。
 
 牛伏寺の境内は東西30余町、南北17町、南は牛伏寺川垣外山、北は北沢川が流れ、孤山の霊区です。なり、村里からはなれること30余町、山に拠り流れに沿ってその風景は超然としてまさに壮観そのもので。寺号をみると、高大な山が牛が伏しているがごとく、また牛額牛か鼻等の字があり、いわゆる讃岐の象頭山の類でしょう。奥の院の鉢伏山(はちぶせやま)まで18町、権現の社があります、社頭に掛る所に詠んだ人のわからない歌が2首あります。
 


(注)牛伏寺の名は、唐の玄宗皇帝に命じられて大般若経600巻を善光寺に奉納する途中、運んでいた牛が疲れ倒れてしまったことから名前が付いたといわれます。はじめ古義真言宗で高野山龍光院に属し十余か寺の末寺をもつ中本寺でしたが、のち新義真言宗智山派の智積院末となりました。はじめは鉢伏山頂に奥の院、中腹の蓬(よもぎ)堂に堂がありましたが、のち建保3年(1215)に堂平にくだり、さらに天文3年(1534)現在地に移ったといわれています。
 慶長17年(1962)の大火で伽藍が焼失してしまい、現存の観音堂・如意輪堂・庫裏・牛堂・太子堂・鎮守社・仁王門・鐘楼等の建築物は、江戸時代に入って再建されました。本尊十一面観音像を始め多くの文化財が伝えられています。1月の厄除け縁日には、県内外からも多くの参拝者が訪れます
 
 
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 白糸の御湯は、松本から東に18町いったところにあります。大昔は束間(つかま)の温泉といい、また、山部(やまべ)の湯ともいいました。順抄に「也未無倍」とのっており、古い郷名です。今はその郷はなく、名だけが残っています。
 
 白糸の温泉を湯の原といって、いまもなお盛んに諸国から湯治の人びとが集まってきてにぎやかです。またここから北へ8町ほど隔てて、浅間村に温泉があります。これが犬飼の御湯です。むかし犬飼氏の領地だったといいます。寛保2戌年(1742)秋の8月1日に大風雨洪水で山が崩れ、浅間の人家30余軒を押出し1つの村になりました。これを下浅間といいます。このときから上下の2つの村にわかれました。座敷湯があります。上浅間に、石川忠介・飯沼源之丞・小柳喜平治、下浅間に、二木重次郎・石川善之丞・滝沢屋弥五蔵・赤羽忠兵衛・扇屋源右衛門・二木助右衛衛門・中野屋幸次郎・鶴屋増次郎・桧物屋仲七・石川屋幾蔵がおり、みんな内湯を持っています。この温泉は、普通とちがっていて、臭気がなく、清潔で、飯を炊き茶を煮るのに風味が美しく、功能もまた著しいため、遠近から来る旅客は、入浴の間には宴を催してにぎやかです。これもまた養生の一助というべきです。
 


(注)束間(つかま)の湯は、『日本書紀』に、天武天皇が「束間の湯」に入るために行宮(あんぐう)の造営を命じた(686年)と記されている由緒ある温泉です。『宇治拾遺物語』にも、信濃の国「筑摩(つくま)の湯」に薬湯(くすりゆ)があり、馬頭観音が沐浴したと記されています。この「つかまの湯」は現在の浅間温泉もしくは美ヶ原温泉にあたるといわれています。
 平安時代のなかごろに、宮廷詩人が美ケ原温泉を訪れたときに、「いづる湯のわくに懸れる白糸は、くる人絶えぬものにぞありける」と詠んでいます。白糸の湯、山辺の湯などと紹介され、多くの人に親しまれています。
 慶長年間、松本城主の石川氏により整備された浅間温泉は、松本藩主の御殿湯(浅間御殿)がおかれて藩主や武士の湯治場として利用され、松本の奥座敷と呼ばれました。江戸時代後半には、「図会」にあるように、富裕な町人や善光寺参詣の旅人の休息地としてにぎわいました。本来宿泊してはいけない旅人の利用が増えたために、近隣の宿場から、旅人の宿泊を禁止するよう訴訟がたびたびおこされるほどの繁盛ぶりでした。
 
 
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 松本を出て、道を左へ折れ、養老坂を下り、平瀬村の茶店で休憩し、熊倉の橋をわたり、成相新田(なりあいしんでん)から穂高村に至ります。奥には穂高神社があり、およそ60余州に285座の格社なので、善光寺へ参詣する人も、この神社に参拝するでしょうから、このあたり有名な場所をいくつかあげます。
 


(注)善光寺道は松本から岡田宿・会田宿・青柳宿をへて麻績宿へと向かいますが、「図会」では、まつもとから脇にそれて安曇郡へと向かいます。この道は糸魚川街道で、江戸時代には松本城下から日本海岸の糸魚川までの120キロメートルでした。千国街道・仁科(にしな)街道・松本街道・信州街道などとも呼ばれました。内陸の松本盆地の人びとにとって、海産物の搬入路として欠かせない道でした。また、京大坂への至近な街道であり、彼の地との経済・文化の流通の道でもした。
 松本を出て北上し、萩町(はぎまち)で左におれ、神沢(かんざわ)・塩倉を経て養老坂を下って犀川に出ます。図には、茶店(さてん)が描かれています。この平瀬村(松本市島内)の茶店を経て熊倉の橋で犀川を渡り、穂高神社へと向かいます。この時代には熊倉の橋がかかっていましたが、江戸時代末期以降昭和30年代まで、渡しが置かれるようになりました。
 
 
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 穂高神社。延喜式神名帳、安曇郡大一座穂高神社、名神大、同書臨時祭、名神祭285座之内、穂高神社1坐。安曇郡穂高村にあります、奥宮は穂高岳にあり、ここから行程9里余、本社奥宮ともに東面です。祭神は、穂高見命、南が石姥女命、北が瓊瓊杵尊。
天照大神の社。右の3社の北に並んでいます。
穂高見命御陵(瑞垣の外本社のうしろにある)。末社は廻廊の外北の方に南面に並びます。
八意思兼命、八幡宮、保食神、少彦名神。この四柱は相殿です。
牛頭天王、子安神、苦宮社、五本杉(井垣の南にあります)、2本杉(大門にあります)。
天満宮(境外北の方天神原にあり、側に高島一翁の筆塚があります)。
神宮寺跡(境外南の方にあります)
例祭は7月27日。社領は、むかしは60余郷でしたが、いまはわずかであわせて十石余です。社内(東西3丁、南北2丁)。大祝(穂高図書・安曇政美・穂高逢殿・安泰重忠)。下社家(丸山新大夫・白沢大和・白沢越後)。そのほか(飯田靱負・村上主殿・宮岡讃岐)。巫女1人。
祭礼ときは、氏子より船の形を作って、いろいろの美服でこれを飾ります。これは、大昔にはこのあたりが湖だったころのなごりであると伝えられています。
 
 穂高嶽(奥岳という)は、安曇郡西の方の飛騨国(ひだのくに)に隣り合っています。仰ぎ見れば霊岳雲を凌いでいて、幣帛(へいはく、神前に献納する物品)のようです。中空にそびえ、ほかの連山のなかでひときわ高い山です。神号(しんごう、神の称号)もこれによっているのでしょうか。嶽に3つの湖水があります。上池(かみいけ)・中池は、ともに大きさがおよそ径140、50間、横200間ほどです。奇石が岸をめぐっていて自然の林泉を成しています。イワナが多くいて、常に筏(いかだ)をうかべて杣人(そまびと)たちがこれを捕っています。大きいものは1尺4、5寸ばかりです。下池(しもいけ)の大きさは上池の半分といいます。石南花(シャクナゲ)が池のまわりに繁茂して、その花の色はとくに麗しいといわれています。それより東北の広野を神河内(かみこうち)といい、神が平(かみがひら)ともいって柳林です。湖辺に小さな祠があります。祭には木の皮を剥いで、枝でこれを叩き、大鼓の代わりに用いるといいます。最近、穂高村の医師高島氏が友達に誘われて、この霊岳に登り、その地理を写し、1章の文を作りました。
 
 焼岳(やけだけ)は常に所どころ煙が立ち上って、冬の時期にも雪がまりません。麓に温泉が涌き出しています。笹の葉に米を包み、しばらく熱湯に入れておくと飯となります。近頃、山が開けてから温泉屋・旅籠屋などができ、飛騨道の憩場となりました。
 栗尾山満願寺は、真言宗高野山竜光院に属します。寺領は牧村で、77石3斗余。この寺は山中で霊区です。穂高村から西へ烏川(からすがわ)を渉り、牧村を越え、小岩岳(7こいわたけ)の麓にあります。
 
 若沢寺は、上波田村水沢にあり、真言宗京都智積院に属します。寺領10石、境内のまわりは3里半ほどです。末寺が4か寺。本堂本尊は不動明王立像(弘法大師作)、観音堂本尊(行基作)。
 (御詠歌)たのめ人こゝろも清き水沢の流に結ぶ法の誓ひを
 寺伝 信濃国水沢山は、天平勝宝年中(749~757)行基菩薩の開基で、大同年中(806~810)田村将軍が中興の建立です。金堂瑠璃殿の正観音は行基の作、千手観音は田村丸の兜の守仏であると伝えられています。疫癘を除け、また夫婦愛敬の願い、そのほか万徳の尊容であれば、一誓に限らず、何事も祈るに応験がないということはありません。中堂救世殿の傍に忍ぶ杉という大樹があり、この杉は男女の縁を祈るとよいことがあるといわれます。講堂の阿遮羅王は弘法大師の作仏です。境内に雄鳥羽の滝があり、この水を浴びると色黒い人は純白となり、容貌も麗しくなるといいます。
 


(注)松本市波田にある慈眼山若沢寺は、奈良時代末、僧行基によって水沢山に創建され、室町時代に現在地に移されました。江戸時代には、信濃三十三か所観音霊場の一つとして「信濃日光」とたたえられ、たいへんにぎわっていました。明治初年の松本藩の廃仏毀釈政策によって廃寺となり、伽藍のなくなった寺跡には、戦時中にカラマツが植林されました。
旧波田町では、平成11年(1999)から寺跡の発掘調査を始め、史跡の整備、保存に努めてきました。松本市との合併後には「若沢史跡保存会」を設け、整備作業や啓発講演会などを続けてきています。
 
 
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 雑食橋は、水沢若沢寺より8町ほど戌亥(北西)の方角の島々村にあります。13年目に橋の普請があります。橋長は20間、幅6尺、高13間、橋の杭はなく、梓川にわたしてある橋です。これを渡って蛇橋(じゃばし)という小川の橋を越すと島々村です。酒造家などがあって、山間の1村です。この村の山の中腹に三光石があって、長さ6尺ばかり、幅が4尺ほど、高さ2尺5寸で、色黒く日月星はうす赤色です。日月の太径は5寸ほど、星は大小あって数18、9あります。この石は、昔は梓川の河原にあったのを、島々村の徳右衛門という人が採り上げて家の庭に置いてあったのを、もったいないといって、現在の所へ引き上げて安置したということです。
 


(注)野麦街道の島々宿は、大野川の金山で採掘された銀・鉛鉱の継立て伝馬役をしたり、橋場番所、または梓川渓谷から出される藩用薪炭、材木の検査に行く役人の送迎伝馬、善光寺参りの客の宿泊などの役を果していた小さな宿でした。
 橋場番所は飛騨道を押えるために松本藩が寛永10年(1633)に設置した口留番所です。
 雑炊橋は、古い記録には、雑師、雑食、雑仕、雑司などと書かれていますが、呼称は「ぞうし橋」、「ぞうしの橋」と呼ばれてきました。雑炊橋の名称は明治四14年(1911)に、従来の刎橋(はねばし)から木枠の吊橋に架け替えられたときに、この橋は古来から嶋々と橋場に住む若い男女が相逢うことを発願し、雑炊を食し倹約につとめて架けたという伝承の物語に結びつく事から、改められたものです。
 橋の架け替えは12年に1回、干支(えと)一回りの寅年と決まっていました。梓川下流に橋がなく、松本、大町方面の往来に、唯一の頼れる橋であったことから、梓川を挟んで安曇、筑摩の両郡を統治した松本藩にとって重視されました。
 なお、山梨県の猿橋、越中の愛本橋をあわせ、刎橋の三橋とも言いわれたといいます。
 大正14年(1925)に鉄塔鉄組みの橋に改められ、昭和34年(1959)8月に鉄骨吊り橋に架けかえられました。現在の雑炊橋は、昭和62年3月に、橋場側のタワー一基に吊られる斜張橋となりました。
 
 
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 穂高にもどって貝梅村の乳川(ちがわ)を渡り、狐島にて高瀬川を越し、十日市場・渋田見・滝沢・林中などを過ぎて、池田宿に至ります。これを仁科(にしな)街道といいます。