NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■長野県師範学校生徒修学旅行概況 [ルビ注記] 

            浅井洌      画像2
明治廿五年七月廿九日(金曜日)早天猛雨、午前七時晴、長野発和田泊、道程凡十八里。
午前五時起床せしに、猛雨篠を突き、烈風樹に振ふ。されとも、既に日限を定めたる
上は、今更出発を延期すへくもあらねは、結束(けっそく:旅じたく)して、仝六時過き、本校の南庭に整列す
其生員は左の如し。
       (生員姓名は略す)(注1)
時に雨殆と収り、雨衣を用ふるを要せす。長野停車場(注2)に至る頃は雲も亦散して、漸
く晴を放たんとす。既にして客車に乗り、出発の時間を待ちしに、浮雲跡を払ひ、日
光山《ゲン》に映しけれは、皆手を額にして、喜ふこと限りなし。
 うき雲は跡なく晴れて旅衣
     みしかき袖に余る嬉しさ
校長(注3)始め職員等、皆来り送らる。時針七時五分を指すや、汽笛高く響きて、列車起動
し、漸く疾くして、漸く速かに、山送り水迎へて、篠井、屋代、坂城を過き、午前八時二十分
過くる頃、上田に達し車を下る。停車場に、上田高等小学校長久米由太郎君、先つ在
 
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りて、我か一行を待つ。即ち同行せんか為なり。聞く一昨日の強雨にて、筑摩川(ママ)出
水せし故、大屋の舟橋徹去して、路通せすと、因て道を転し、上田橋を渡り、城下より東
塩田に迂回して、九子村に出んとす。朝来の降雨にて、道途泥濘(でいねい:どろ道)、行路艱難(かんなん)言ふへか
らす。東塩田村に、生嶋(ママ)足島神社あり古記類の信拠すへき者も秘蔵すと聞けと、見
るに及はす。東塩田小学校に立寄り、暫時休止せり。校長は清水菊太郎君にして
保科百助君も亦此校に在り。因て二氏の好意を忝(かたじけの)うせり。校舎は位置結構二つ
なから、便宜善きに似たり。丸子村に至る途次、二木の峯と云ふ所は、往昔武田氏の
烽火台(のろしだい)を設けし跡、今猶存せり。是れ埴科、小県より、佐久の海口を経て、甲斐に連続
せしものにて、今も所々に、其遺跡を残存すと云ふ。
 あた守る飛火の煙跡絶えて 
     名にのみ残る二木の峯
砂摺坂を過き、腰越に来りて、午飯を喫し、小県高等小学武石分教場にて、又暫時休止
せり。校舎は甚た広からすと雖も、位置山に添うて、涼風徐(おもむ)ろに来り、更に暑気を覚
えす。午后二時又発して、武石川を過き、依田川の沿岸なる、長窪古町に達し、夫より
長久保新町を経て、午后五時和田宿に到着し、翠川与兵衛、永井喜左衛門の二氏に投
 
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宿す。上田より此に至るまて。里程八里なれとも、午前は雨余(うよ:雨上がり)道途も悪しく、且初日
には旅程少し強けれは、皆疲労を覚えたり。
七月三十日(土曜日)朝風雨、后晴、和田発、上諏訪泊、道程凡七里。
午前五時和田を発す。天曇りて風烈しく、雨の至らんとする気色なれは、五里余り
の峠を雨に濡れて、踰(こ)ゆるこそ物憂けれと思へとも、天気の亊は詮方(せんかた)なし。行くこ
と一里許にして、唐沢に達せんとする頃は、雲霧深く山谷を鎖して、細雨霏々(ひひ)と降出
たれは、皆雨衣を着く、唐沢より扉峠を越えて、松本に至る間道あり。明治戊辰の歳
松本藩、此地に仮関門を設けて、行旅を譏視(きし)す。当時余も屡々(しばしば)来り守りしか、回顧す
れは荏苒(じんぜん:長い年月)廿五年の星霜を過きて、今は其跡も知り難く、其時寓居せし家は人も皆替
りて見知れる者もなし。
 やとりせし家は昔の家なから
     むかしを語る人たにもなし
雨風愈ゝ(いよいよ)烈しく、坂路泥濘動もすれは、為に転倒せんとす。既にして、東餅屋に達すれ
とも、雨風猶止ます雲霧益々深くして、当りも見え分かされと、夏木立の繁きあたり
の、此面彼面に鴬の頻(しき)りに鳴きあへるなと、聊(いささ)か旅情を慰むるに似たりかし。行々
 
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て頂上に達する頃、雨は漸く止みたれとも、風は更に烈し、下りて西餅屋に来れは、先
着の者多くあり。両餅屋の餅は悉く喰尽して、後れ来る者は只器皿の店頭に狼藉
たるを見るのみ。樋橋川の此方道の、右傍少し高き所に石碑あり。不動院全海、横
田己之助鈴木金蔵岡本久次郎、鈴木常之助、大久保茂兵衛の名を刻せり。是は元治
元年十一月廿日、水戸脱藩の士武田耕雲斎(たけだこううんさい)藤田信等凡八百人上京して、為す所あら
んとせしに、江戸幕府沿道の諸藩に令して、之を逆(むか)へ伐たしむ。時に松本、諏訪二藩
兵を聨(つら)ねて、此地に戦ひしか、全海先鋒に進み、砲弾に中(あた)りて戦死したるも、遂に二藩
聨合の兵を破りて、耕雲斎等は、無事に此険隘(けんあい)を通過せり。他の五人も同時に戦死
したる者なる故、後に碑石を建てて、其幽魂(ゆうこん)を慰めし者なり。
 和田山の露と消えても石文に
     動きなき名を止めつるかな
樋橋にて暫時休息し、路すから草花数十種を手折りつゝ、下諏訪に来り、春宮秋宮に
詣て、上諏訪に逹せしは、午后一時なりき。 同所高等小学校に於て、校長千野君及高
橋、小林等の諸君、相迎へ校舎の楼上にて氷を響応(きょうおう)せらる。夫より牡丹屋、岐阜屋に
投宿す。郡長坂本君旅寓を訪はれ、且日、当地他に旅情を慰する者なし。湖中、瓦斯
 
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噴出の所あり。舟の準備を命し置きたれは、行きて一見すへしと誘はる。因て湖
上に泛(うか)ひ、其所に至り、之を器に充たして点火し試むるに、忽ち焔煙を発して燃焼す。
されとも風起りて、波浪高きか故に、舟の動揺随て烈しく、意の如くなること能はさ
りしは、甚た遺憾とする所なりき。舟を下り公園に遊ふ、園は旧牙城の址にして、湖
畔に在り。方一町はかり、碑あり。高さ凡そ壱丈、三島毅氏の撰文、岩倉具視公の篆
額(てんがく)を鐫(せん)す。此地市街を距(へだて)ること数町、伏して湖面を望めは、一碧万頃の中、富岳を倒
影し、漁舟幾隊相往来して、朝霞暮藹(ぼあい)、風光佳眺極りなきも。所の人は馴れて、之を顧
みさるに似たり。夜に入り千野(貞光か)君、三輪(三吉)君等来訪者許多(あまた)あり。
七月三十一日(日曜日)曇、上諏訪発、杖突峠を経て、高遠泊、道程凡八里。
朝疾く起き、食事を卒へ出発せんとするに、昨日折来て、花瓶に指置ける、草花の少し
萎(しお)れたれは、
 なか/\に折さらましを朝露の
     おき別行く旅そはかなき
といへれは、久米君花の心を、
 手折れて嬉しき袖もぬるゝ哉
 
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     一夜はかりの露の契りに
と二首畳紙に記し、花に結ひ付けて出つ。
午前五時、上諏訪を発し、神宮寺村の国幣社に参拜して、暫時休止し、杖突峠を越ゆ。
頂上迄は三十丁と聞けと、半腹以上斜面甚た急にして、其名空しからす。午前八時
漸く巓に達す。諏訪全郡の山川、悉く一眸(いちぼう)の中に集り冬は氷を渡るてふ湖の浪に、
幾つらの漁舟浮ひたるなんと、眺望殊に言はん方なし。
 秋ならて散りし木のはのいさり舟
     あひき釣するすはのうみつら
九時三十分御堂垣外(みどかいと)に達し、一茶店に休ひ、食ふへき物ありやと問へは、鯡の外一も
あることなしといふ。此道高遠諏訪の間往来する人馬の外は、通行の旅客も稀な
れは、さることにこそ。永藤村より雨降出ぬ。此村に沿ひて流るゝ水を、藤沢川と
云ひ、所々の渓流を合せて南下し、高遠町を東西に両分し、三峯川(みぶがわと相会して、始めて
大なり。三峯川に橋あり。天女橋と云ふ。長さ凡六十間、弁財天の祠あるに因り
て、名を得たりとかや。藤沢川以西を西高遠と称し、商賈(しょうこ)軒を連ねて、市街繁盛なり。
其東を東高遠と称し、城址の内外多くは、士族屋敷なり。近江屋、木曽屋、秋田屋に投
 
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宿す。高遠高等尋常小学校長上条源一郎君、仝主座訓導中村惣太郎君其他職員諸
氏より、吾等一行に餅菓子を贈りて、旅情を慰問せられ、又町役場より地誌を貸与せ
られたれば、当地の沿革を知るに頗る便宜を得たり。上条君に誘はれて、城址の公
園に遊ふ。園の広さ束(ママ)西六十二間、南北四十五間、碑あり。三島毅氏の撰文、嘉彰親
王殿下の篆額を鐫刻(せんこく)せり。又藩祖の祠を建て、多く桜樹を雑植せり.憶ふに春時
盛花の候は、仁科五郎信盛(のぶもり)か武田氏の末路に当り、甲信の精英を此の一城に集めて
花々敷(はなばなしく)最後の勇戦、忠死を遂けたる美観を見るか如く、天真爛漫(てんしんらんまん)芳を戦はし、艶を競
ひて、咲匂ふらん様こそいと美麗しけれとそ、思ひやられたる。
 大丈夫の赤き心をさくら花
     いく春かけて咲き匂ふらん
高遠城は、又兜城とも云ひて、天正年中山本睛行の改脩せし所なりとそ。昔時は無
双の要害と称す。旧記を案するに、牙城方二十八間、笹曲輪十八間に十五間勘助曲
輪廿一間に十九間、二の曲輪六十五間、三の曲輪百四十一間、法童院曲輪廿一間に十
三間半、馬場九十間、大手(西向)木戸より下の橋まで百五十間、搦手(からめて)(東向)門より麓迄(日
蔭道)凡八丁、楼櫓(ろうろの数総て十有三とあり。其沿革の概略は、治承二年の頃、地頭石田
 
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刑部、元暦元年の頃は、笠原平吾頼直、元久の頃は鎌倉郡代日野喜大夫宗滋、是より延
元迄の間詳ならす。暦応年中より木曽義仲の裔(えい)、讃岐守原家村建武の功に依て之
を領し、子孫九代之を襲ひ、天文の始め、木曽の木曽左京大夫義康の為に攻め落され、
其郡代千村内匠頭之を守りしか、天文十八年七月,武田晴信に追はれて、木曽に帰る。
依て秋山伯耆守直義之に代り、永録五年武田四郎勝頼又之に代り、元亀二年勝頼嗣
となるに因り、武田上総介信綱来り代り、天正元年仁科五郎信盛(信玄の五男油川五
郎を以て、仁科氏を継かしめて、此城に居らしむ。)又之に代りしか、同十年三月一日
織田信忠の陷るゝ所となり、主将信盛及ひ小山田昌辰以下の将領十七人、皆勇戦し
て之に死し、首を授くる者無慮(およそ)二千余人、武田氏の忠良皆此に尽きたりとそ。其後
織田の将毛利河内守秀頼之に居る、後豊臣氏を経て徳川氏に至りても、屡々替代あ
りしか元禄四年内藤丹後守清枚(きよかず)以後世襲して、明治四年廃藩置県に至り、城廓遂に
廃虚に帰したり。城址の南に、三峯川を隔てゝ白山あり。其南に五郎山あり.五
郎信盛以下の遺骸を埋葬せし故にしか云へり。東に月蔵山、北に城山あり。山後
の東北数里なる、山室と云へる部落は、信忠の城後より、来り襲ふに当りて、輜重(しちょう)を置
きし所なりとそ。葢(けだし)武田氏、織田氏の此城を攻むる、皆城後よりして勝を制したり
 
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と云ふ。(此城の沿革を記する、詳細に過きたる誹あらん。されとこれ、信州南方の
名城にして、之れか、沿革を知らんことを望む者、亦少なからされはなり。)
上条源一郎、北原琴三郎二君、随行員たらん事を望む。依て之を承諾せり。
八月一日(月曜日)朝曇少雨、后晴、高遠発、坂下を経て、飯嶋泊、道程凡七里。
大村信太、病気となる。止りて帰郷せしむ。
午前六時前高遠を出発ちて、六道原といふ所を行く、地籍は美篶村、伊那村等に属す
れとも、人家も無くて寂寥(さび)しきに、細雨さへ降りて、今朝は往来の人もなし。天竜川
を渡り、坂下に来りて、高等小学校を訪ひ、春宮祐一郎氏に面晤(めんご)し、暫時休止して辞し
去る。伊奈部は坂下に続きて、区裁判所の設けあり。岡俊純君を其官邸に訪ふ。
吉武氏先つ在り、談話すること一時間、午前九時辞して出つ。時に雨止み雲収り、漸
く炎威の加はるを覚ゆ。東春近村を過く、小池といふ所より、駒岳に登る道の標杭
あり。頂上迄七里なりとそ。甞(かつ)て聞く、高遠の名儒坂本天山翁、石を其山上に建て
しと、
 建石の在やなしやはしらね共
     人のいさをそ世に残りける
 
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西春近村の報恩寺に、松の古木ありといへは、迂回して之を見る。其名を老松と称
し、其枝四方に茂りて、南北三十七歩、東西四十歩の間を覆ひ、樹下に経堂あり。
 万代をふる木の松の深みとり
     猶いく千代もさかえゆくらん
宮田に来り、茶店に休ふ。主翁問ふ、何れより何れに行くと、答へて曰く。長野より
飯田を過き、天竜川を下り名古屋に赴かんとするものなりと、主翁懇切に、舟路の危
険なるを説きて之を止む。其誠意真率、口頭を以て争ひ難き者あり。赤穂。村界
に川あり。大田切と云ふ。蓋し田切とは滾(こん)の義にして。渓流の奔湍(ほんたん)漲溢する謂
ならん歟。未た詳ならす。赤穂小学校に至れは、正木、赤見、久米君等先つ在り、校長
倉科斧吉、小町谷加賀彦、丸罔鎌六、米山太郎吉等諸君の案内にて、美女ヶ森なる日本
武尊の旧跡に至る。此地は尊東征の帰路、休止し給へる所なりとそ。本社の什宝
に、神代文字の記録ありと、其騰写本を見たれとも其何事を記せるかを知らす。又
雷槌二ありて、一は長さ三尺一寸九分、一は長さ三尺二寸三分周囲之に恊(かな)ふ、されと
出所も定かならすと云ひ、石質も脆弱(ぜいじゃく)にして、皆後人の摸造品なるは疑ひなし。丸
岡、米山二君に別れ、小町谷君に導かれ、田間の小径を過きて、赤須に出て、此にて又同
 
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氏に別れ、中田切を渡り、午后五時過き飯島に着し、扇屋、榎木屋に投宿す。
ハ月二日(火曜日)晴、飯島発、座光寺村を経て、飯田泊、道程凡七里。
倉科君、昨日送りて来りしか、今朝別去る。
午前六時前、飯島を発ちて余田切を渡り、七久保、片桐を過き、小松川に来る。此川を
以て上下伊那の郡界とす。
 引き初し千代の子の日の姫小松
     波こす迄にいつ成にけん
大島、山吹、市田村を過き、座光寺村の弓矢沢より、左に折れて、座光寺小学校に至らん
とす。仝校長熊谷謹一君来り迎へ、且曰く、当地塩沢氏に、親鸞聖人の鏡を秘蔵せり。
立寄りて一見すへしと、至れは既に其準備あり。夫より又熊谷氏の案内にて、高岡
の森に至る。古墳あり。東西に長くして、南に入口あり。側面に入口を設けたる
は、墓墳の正則にあらさるへし。墳上に小祠あり。即ち高岡神社なれとも、其由来
明ならす。近頃蚕種貯蔵所を設けんとて、墳中を浚(さら)ひしに、曲玉(まがたま)、管玉(くだたま)、土器、鏃等数箇
を得たりと云ふ。此辺所々に古墳猶多しとそ。村長今村善吾氏の邸を、義光屋敷
と称し、庭中に善光寺如来腰掛石あり。相伝ふ。本多義光(ママ)此家に生れ、難波より如
 
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来の尊像を奉し来りて、庭前の石上に安置し、又臼上に奉したりとそ。今村氏は義
光の後裔にして旧家なりといふ。同氏の庭中に休止し午餉を喫す。庭上に井泉
あり。沸々として湧き出て、井桁(いげた)に溢れ、芳洌(ほうれつ)掬(きく)すへし。又同氏の周旋にて、如来寺
伊那の善光寺の什宝なる臼を見る。 高さ凡壱尺二三寸、径稍々之に過く、蓋(けだし)壱寸八
分の仏体を奉するには、猶大なりと云ふへし。夫より座光寺小学校に赴き、茶菓の
饗応を受く、斯く吾等一行を款待して、専ら周旋の労を執られたるは、今村、熊谷二君
と当村収入役今村嘉十郎君となり、姑(ともか)く記して、茲に鳴謝の意を表するになん。
座光寺小学校より十余丁にして、上郷少学校あり。沿道なれは立寄りて、休息あり
たしとの通報あり。至れは即ち仝校長野村銀一郎君、其他職員生徒一同校、外数丁の
所に出迎へ、校舎の楼上に於て、氷水の饗応ありて、当村雲彩寺の古墳より出てし古
鈴、金環等を示さる。既にして辞し去る、是より先き飯田学校職員部奈格一式範治
の二君、座光寺学校に来り迎ふ。飯田町に逹せんとする時、宮下要太郎君も亦出て
迎へて、共に飯田高等小学校に赴く。此地隊五整列せる兵隊等の、通過することな
く珍しけれはにやあらん。到処来り見る者多かりしか、飯田市街に入れは、殊に途
上観る者堵(かきね)の如し。飯田学校には同校職員及ひ近隣諸校の校長訓導諸氏相集り
 
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て、歓迎せられ席既に定り、氷及ひ茶菓の饗応あり。郡衙員地方有志の諸氏も、亦之
に加はりたりとそ。殊に各小学校教員諸君の如きは、数里の道途を態々(わざわざ)来迎へら
れたるは、更に深く鳴謝する所也。
 立よりて結ふも涼し諸人の
      深き心の底川の水
 まつ川の有とは聞と思ひきや
    ふかきそこひのかく有んとは
野底川、松川は、皆飯田に在る川なり。学校は高等尋常併置の目的を以て、新築に着
手し、現今尚普請中まり。校舎の位置は、旧城趾に在りて、北に面し、郡衙(ぐんが)、区裁判所と
相対し四棟に分れて、中央の建物は長さ二十間、横七間半、楼上楼下を通して十六教
室を搆へ、中に廊下あり。其西の一棟は、十六間に、四間半にして、上下を通して六教
室を搆へ、其東の一棟は廿一間に、四間にして、上下を通して八教室を搆へたれは、教
室通計三十、各室皆五間に三間の容積を有ちたり。また体操場は後方に搆へて、十
間に七間あり。庭園も亦前後に広く設けたれは、落成の上は、頗(すこぶ)る使宜を与ふるや
必せり。既にして校を辞し堀端町の正木屋、達磨屋に投宿す。夜に至るまで来訪
 
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者頗る多し。上条、北原二氏来る。
八月三日(水曜日)朝曇、后晴、飯田発下河路村開善寺泊、道程凡二里。
深谷百々寿病気に付帰郷せしむ。 本日時又より乗船して、天竜川を下るへき予定
なりしも、舟の準備整はさるを以て、午前は当所に滞在し午后開善寺に至り宿泊す
る事とは為しぬ。
午前八時より飯田高等及ひ尋常小学校の授業を参観し、夫より勅使河原、部奈二君
に導かれ、城趾市街公園等を巡覧す。長源寺に烈女阿藤(あとう:山口阿藤)の墓あリ。香花(こうげ)を手向く
る者、今に至るまて昼夜絶ゆることなしとそ。
 空焼の煙たえせぬおくつき所
      大丈夫も此たをやめに耻さらめやは
阿藤の伝は、息軒(安井息軒)遺稿に在り。故に略す。公園は市外の飯田村に在りて、八幡祠の
境内に連り、山に沿ひて東南に面し、公会所あり。風越館と云ふ。風越の嶺、其西に
聳ゆるか故に、名を得たりとそ。
 誰も皆来ては涼しと遊ふ乱
     夏こそなけれ風こしのたち
 
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午后一時頃、旅宿に帰る、当地の沿革を略記せんに、飯田城市は天竜川の西に在りて
松川其南を流れ、野底川其北を流れ、二川城市の東南に到りて相合し、東流して天竜
に入る。此城創設の年代詳ならす。弘治年中武田氏に帰し天正十年織田氏に属
し、豊臣徳川二氏の世に至りても、屡々(しばしば城主の替代ありしか、寛文十二年堀氏之に移
りてより、子孫世襲して、明治四年廃藩に至り、遂に郭(くるわ)を撤し壕(ほり)を埋め、或は市街とし
或は桑田としたりとそ。此地南方に僻在して、三遠に接する国境は、重嶺(じゅうれい)深谷道路
艱険(かんけん)、為に貨物運輸の便を欠くと雖も目下専ら開鑿(かいさく)工事中に在りと聞けは、他日其
功全きを得るに至らは、必すや幾層の繁栄を来すことあるは、亦敢で疑を容れさる
所なるへし。
午后三時飯田発松尾村を経て竜丘村なる上河路の開善寺に宿す。此間道路昂低
迂曲多し。飯田学校其他諸校の職員諸君、当地まて見送られたるも多けれと、此に
略す。又此寺に宿するを得たるは、専ら竜丘学校長齊藤操君の周旋尽力にして、其
好意は吾等の深く鳴謝(めいしゃ)する所なり。尚其他の諸君に向ても、謝辞を呈すへき事少
なからされとも、混雑の際、一々手記の余暇もあらさりけれは、茲に詳述すること能
はす。
 
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当寺は畳秀山開善寺と号し、小笠原貞宗の創建にして、開山は福州連江人清拙正澄
大和尚と云ふ。又今の住職を中嶋智蕙師と云ひ、義に勇み利を言はす。胸懐(きょうかい)灑々
として、能く物我を忘る。今回我か一行の宿泊を許諾さるゝか如きも以で其一証
とするに足らん。寺は境内広く、老樹欝蒼(うっそう)として古色を呈し、山門は建武二年の建
設にして、今を距ること五百五十余年、故を以て永遠保存の為め内務省より下賜金
ありしと云ふ。
 善人の事謀りして建て置きし
     世をふる寺の庭の松かせ
本堂は勿論、庫裏も最広く、前後の庭砌(みぎり:敷石)も清潔なれは、頗る塵外(じんがい)の思ひありて、遥に狭
隘不潔の逆旅(げきりょ:宿屋)に勝りぬ。寺に什宝器物多かり、本日は皆之を出して、吾等の観覧に
供せらる。中に就て、其二三を挙くれは左のことし。
○飛袈裟[開祖大鑑禅師遺物]○鐸二箇○古鈴○古鏡○古鎌二箇○上古土器○百万塔○木
製五重塔[旧飯田侯所秘蔵]○後水尾天皇勅筆歌軸○涅槃仏(唐画)○十三仏像(唐画)○十六
善神(唐画)○抜鳥屏風(元信画)○金屏風二隻○墨画三幅対(牧渓画)○紺地金泥大般
若経○二十八祖画像
 
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境内小笠原貞宗の墓あり。墓上に大なる銀杏樹あり。寺後の丘腹に又大なる墓
穴あり。寺の西に琴原の古墳あり。後醍醐天皇の皇妹、故ありて謫(たく)せられ来りて、
久米川の上に居給ふ。其地を称して花の御所といふ、又宮娃(あい)の弾琴せしに因りて、
琴原と云ふ。蓋古墳は、皇妹を葬りし所ならんとそ。
八月四日(木曜日)朝曇、后晴開善寺発天竜川を経て、遠州二俣泊、道程凡廿一里。
午前五時三十分、開善寺を出発ち、半里程許にして、時又に達す。通船会社を伊原文
平とふ。兼て下伊那郡衙に依頼し、会社に船五艘を準備せしむ。一艘の買上代
金十八円、五艘即ち金九十円、一艘に乗客凡二十人、舟子三四人を容るゝを度とす。
舟の長さ三間余幅四尺に過きす。今朝艤装(ぎそう)未全く整はす。因りて直に乗船する
ことを得す。凡一時間にして、準備漸く整ひ、七時過解纜(かいらん)して、時又を発し、艫櫂(ろかい)の力
を借らすと雖も、舟の駛(し)すること矢の如く、舟子(ふなこ)は唯艫舳(ろじく)に在りて、舵を転し方向を定
むるのみ。然れとも、此川両岸は、絶壁峻険にして、水中所々に巨巌蟠崛(ばんくつ)し加ふるに
河身屈曲して、河床の斜面殊に甚しく、水勢為に奔流迸逸(へいいつ)し、激浪怒濤、随所に絶ゆる
ことなけれは、舟子若し誤て、楫の方向を失すれは、扁舟忽ち微塵に砕けて、舟中の人
は悉く魚腹に葬られんこと、言を待たす。加之ならす。過日来の降雨にて、水量猶
 
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平日よりも増加せること、数尺なれは、舟子は深く戒厳を加へて、敢て注意を怠らさ
るものゝ如し。又水路の前程を問へは駿遠(すんえん)の国境迄は凡十一里、遠州中野町まて
は三十里許にして、其四分の三は、舟行常に艱難を極むといふ。吾等始めは然まて
に之を意とせさりしも舟の下るに随ひて舟子の言誠に空しからす。却て聞く所
に数倍せり。故に両岸の風色幽邃(ゆうすい)絶佳なれとも、静に左右を顧みて、天然の美景を
称賛する寸暇を得す。況んや曲さに各所の名称を問ひ、勝形を記するに於てをや
是を以て記中載する所は、唯僅に十中の一にたも及ふこと能はす。聞く此川の勝
形は、独り我国に於て、勝れたるのみならす。五大洲中亦多く得へからざる風景な
りとかや。いかて山陽(頼山陽)、拙堂(斉藤拙堂)二翁の如き能文の士を得て。詳に之を記することを
得は、耶馬渓の山水、月瀬の花色も亦恐らくは其美名を保つこと能はさるに至らん。
古人云ふ。山水も亦幸不幸ありと、余其言を聞きて、未た其地を見さりしか、今此川
を下りて、真に其言の誣(いつわら)さるを知りぬ。先に明治乙酉の年、日下部鳴鶴翁、此地に遊
ひ、巨巌十所の称号を撰ひ、自ら筆を揮(ふる)ひて其岩上に題し、石工をして之を鐫刻せし
め、五絶十首を賦したりとそ。今其名称を掲けて其詩を註せん。曰く姑射橋。[姑射
橋上来。地僻心自静、境必方外尋。人間有仙何]。曰く浴鶴巌[清流不受塵。明月照澗底。時看仙鶴来巌下縞衣洗]。曰く帰鷹厓。[回風捲夕煙。返照射林簿。俊鷹
 
  (改頁)
 
忽飛帰。山中稀鳥雀。]曰く烏帽石。[藹々洞天裏。春風花気香。紅綴烏帽石。宛以僊子装。]曰く垂竿磯。[不学渭浜鉤。不披厳陵裘。三万六千鉤。仙者何所求]
曰く烱々潭[澄碧不見底。晴潭夜空明。愛他無月処。烱々星影瑩]。曰く樵廡洞。[県巌如高廡。三伏涼風生。羡他釆樵客。山中夢亦清。]曰く竜角
峯。[揮毫掃崖石。潭底湧雲煙。忽疑神物出、竜角露中天、]曰く仙床磐。[此磐誰遊息。上可坐千人。我亦携家去。好与遠猿鶴隣。]曰く芙蓉峒。[鵞湖
高岳雪。涵影入天竜。千秋漾寒碧。化作白芙蓉]此挙や、聊か勝地の名を発揚するに足らんか。されとも之を
為ず只僅に数里の間に過きさるのみ。且其事の雅と俗とは、未た知るへからすと
雖も、之を為すこと果して可ならは、命名すへき所の処、猶此他に於ても、必す多かる
へきを覚ゆるなり。斯て猶下る事数里、河は愈々重山深谷の間に入りて、両岸の山
は益々高く聳え、絶壁万仭(ばんじん)頭上に崩潰せんとし、河中到所に巉巌(ざんげん)暗礁、縦横星散して
或は深淵となり、或は漲爆(ちょうばく)となり、或は激湍奔流となり、波浪(はろう)を起し、飛沫を生し、雲霧
濛々として、虹《ゲイ》を現はし、舟中の人之か為に衣袴内外濡れに濡れて、更に乾ける所
なく霑然(てんぜん)たり、舟の瀑中を通過するや、宛も水底に入らんとするか如く、殊に他舟の
之を過くる状を見れは、一層心膽(しんたん)をして寒からしむる思ひあり。故に両岸の風景
媚を呈し、嫣然(えんぜん)として、前後送迎款待するものゝ如くなれとも、吾人皆舟路に熟せさ
れは、敢て左右に顧みて、悠々之と能く応接笑語するの余暇を得さりしは、尤遺憾と
する所なりき。然れと、大丈夫か心膽気質を鍛錬磨淬(まさい)する所は、実に此に在りて、都
 
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人士肉食者の、争てか能く想像し得へき所ならんとそ思はれける。其瀑と称する
所の重なる者は、日くザブリ瀑、曰く田原石の瀑、曰く銚子瀑、曰く櫓瀑、大島瀑等猶多
し。既にして午前十一時廿分、国境に至る。川の西岸は神原村を以て、三河国北設
樂郡冨山村に接し、其東岸は平岡村を以て、遠江国周智郡奥山村に接す。此辺特に
危険絶所尤多く、舟行極めて至艱至難の所なりとそ。
 瀬を早み言問ふ隙もあら浪に。
     国の境をふねそ出てぬる
 浪高き岩間をさして行舟に
     まかする身社危ふかりけれ
富山の大谷といふ所に上陸して、午餉を喫し、暫時休息したる後、舟子を促し纜(ともづな)を解
きて、舟を出すや否や、河道曲折し水湛へて渦を為す所、俗に釜と云ふあり。舟俄に
傾斜して、殆んと覆没(ふくぼつ)せんとし、小使徳武乙作、及ひ行李数箇水中に陷溺し、一船既に
危ふかりしも、幸に人々静止して、頓(にわか)に動揺狼狽せさりしかは、舟も亦常勢に復する
ことを得て、溺者行李も舟子等の救ひ揚くる所となり、辛うして魚腹に葬らるゝの
危難を兔かるゝを得たるは、誠に我等の天幸とやいはん。されと舟子等猶行く先
 
  (改頁)
 
も危険の所許多ありといふにそ、舟中の人皆安き心もなかりけり。
 来ときても猶行先のあしと聞けは
       舟も心もゆきにわつらふ
此辺総て、両岸路も通せす。人家も絶て見えす。万一、舟の沈没破砕するか如き、困
厄(こんやく)に遭遇せは、縦令(たとい)溺死に至らさるも、亦飢餓に斃(たお)れんのみ。若し余言を信せすと
いふものあらは、請ふ実地に就きて之を検定せよ。
 岩浪は立帰れともうしと云てヽ
     また帰るへきよしたにもなし
此に又、暫く休憩して、纜を解きしに、河道は絶えす左曲右折、千転万変、更に極り定る
所を知らす。其左も艱険なる所を、チャウナ瀑、山ボロ瀑、釜瀑、挟石瀑なんとの数ヶ
所とす。而して、奔波狂瀾の激怒し来て、面を撲(う)ち背を衝き、前後狭撃の猛烈なるこ
と、毫も間断あることなく、水忽ち舟中に充満するを以て、舟子一人は務めて、之を汲
取し去るに忙はしく、若し之を怠る時は、積水正に足を没するに至る。斯く濡ると
雖も、日中は之を耐忍したるか、午后三時を過くる頃より、河岸高きか故に、日光を蔽
遮して、湿衣乾く時なく、寒冷肌に徹して、満身粟粒を生じ、人皆顔色なし。然れとも
 
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舟は絶えす逸走(いっそう)して、漸く遠州戸倉に来る。左岸の山上、遥に秋葉山一の鳥居見ゆ。
舟子云ふ彼所迄は、里程五十丁にして、夫より又本社まて八丁ありと、
 舟路より仰けは高し秋葉山
     雲井に見ゆる峯の鳥居は
此辺よりは川幅も稍々広く、両岸も漸く低く。下流より溯(さかのぼ)り来る舟の、布帆を用ふる
あリ。問はすして、今は既に水路の平夷なることを推想すへきなり。雲名、横山、谷
山、伊砂等を過きて、船明日明辺に来れは、川は愈々広く、両岸は益低く、水勢湛々とし
て亦怒濤激湍(げきたん)の音を聞かす。夕陽西山に舂(つ)く時、舟は頓て豊田郡二俣に着きぬ。
舟子皆舟を止めて曰く、日も暮ぬ。気力も尽ぬ。且是よりは川幅愈々広く、水路分
れ、誤て浅瀬に入るあらは、舟底《ツキ》て、進退すること能すと雖も夜間は能く水の浅深
を知る由なけれは、旁(そば)以て今宵は茲に一泊せんと請ふ。されと今日は浜松迄の予
定なれは、暫時は議論も決せさりしか、彼所迄は猶、水陸の里程七里余りも有りぬへ
く、若し夜半に到着して、宿泊所に迷ふ恐れ無きにしもあらされは、止むを得す、舟子
の請を容れ、舟を下りて二俣町の浅羽屋、山梨屋外一軒に投宿せり。時に午後六時
三十分ならんとす。前に述へし如く、事卒爾(そつじ:突然)に出てしを以て、宿割を定むる暇もな
 
  (改頁)
 
けれは只片端より座席の充るを度として、投宿せしめたり。偖(さて)各自席既に定り浴
衣を服せんとするに行李皆波の為に浸され、大方濡れて服すること能はす。尤困
難を感したり。今朝時又を出てより茲に至るまて、水路凡二十五里、而して其五分
の四は、殆と瀑又瀑、灘更に灘、怒濤狂瀾舟中に躍り、面を撲ち《ヒタイ》を過き、電奔電撃、猛烈
いふへからす。今にして之を回想すれは恍惚夢寐かと疑かはれ、危険艱楚(かんそ)誠に物
の譬ふへきなし。是に於て凛乎(りんこ)として襟を正し、粛乎(しゅくこ)として容を改め帳然として
以て思ふ、夫れ人海の険悪なる、危言(きげん)激論世を動かし、侫弁(ねいべん)妄説事を誤り、正邪転倒し、
理非錯誤し、逆浪怒潮洶々(きょうきょう)湧々、捲来(まききた)り捲去り、吾人をして能く処世の方針を知らさ
らしむるもの、亦斯の如し、実に今日の舟行は、限りなき冐険危道なりしも、幸に破舟
覆没の患なく、皆無事に通過したるを以て、満腔(まんこう)の壮快自禁すること能はす。楼上
楼下の各室、今宵談論笑語する所は、皆舟中にて、目撃遭遇せし事の状況ならさるは
なく、一事の他をいふ者あることなし。
 岩浪の立かへりても語る哉
     けふの舟路の危ふかりしを
 川浪の高瀬をけふは凌来て
 
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      いを安くぬる二俣のさと              (中賂)
八月十一日(木曜日)中津川発、須原泊、道程凡十里。
午前五時中津川を出発ち、落合宿に達せんとする所に川あり。川に添ひて右に入
る岐路は、神の御坂に通ふなりとそ。神の御坂は恵那山の東北に当たり、頗る重嶺絶
険なれとも、往時木曽路の未た開けさる以前は、東山道は此道に由り、上下伊那を経
過せしなり。然るに文武天皇の御代、木曽山道を開くと云ふこと、史上に見ゆれは、
夫より今の道に改りしなるへし。落合より半里許にして、落合新茶屋、神坂新茶屋
といふ所、軒を並へたれと、茲を美濃信濃の国境と標示せり。戸さゝぬ今の大御代
に逢ひては、国境とて、関門衛戍(えいじゅう)の設けあるにもあらねは、此に至りて、更に喜悲の情
を異にすへくもあらぬ理りなるに、是なん国の境と聞きては、誰か之を喜はさる。
 自からけふは心に急かれて
     国の境にとくそ入りぬる
馬籠宿を過き、馬籠峠あり。峠に茶店数戸ありて、栗を和したる強飯(こわめし)を炊きて客を
待つ、蓋し此地の名物なり。 峠を下り、大島の橋場と云ふ所より、右折する岐路を大
平越とて、飯田に逹す通路にして、頂上まて四里、夫より壱里下り、大平の村落ある
 
  (改頁)
 
も、道路頗る困難なりと云ふ。妻籠に来る、此に木曽義仲の出城の跡と云ふ所あり。
午時美富野に逹す。炎威甚しきを以て、所所の茶店に休止せる者多し。野尻に来
りても亦然り、野尻を過きて、猶行程に、今井兼平の城址あり。午后五時頃須原宿に
著し、住吉屋、桜屋に投宿す。木曽路は道路開鑿工事中と聞きしか、落合より三富野
の間は、既に落成せり。我等一同多くは旧道を来りしも、二三の新道を来りたる者
に聞くに、道は至て平垣にして、里程も僅に半里許延ひたるのみといふ。木曽路に
入りしより。ニッの喜ふヘきは、到処清泉芳洌にして、味甘く、各家の店頭路傍の樹
蔭等に至るまて筧(かけい)を架し之を引きて、自他適意の使用に任せたれは、都下甘露の氷
水に勝ること幾倍なるを知らす。是れその一つ、又夜寝ぬるに蚊帳(かや)を用ひさる是
其二つなり。
八月十二日(金曜日)晴須原発、王滝泊、道程凡八里。
五時過須原を発ちて、荻原村の小野といふ所に至れは、路傍に瀑布(ばくふ)あり。小野の滝
と称ふ。近く立寄れは、泡沫霧を為し、暑さも忘るゝはかりいと涼し。
 吹きおろす松の嵐も音そへて
     あたり涼しき小野の滝つ瀬
 
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御嶽講社の此を過るもの、皆此滝壼に水浴し、身を潔めてそ登るめる、程もなく寝醒(ねざめ)
の里に至る。蕎麦は此地の名物とて其名高し。
 旅人もしはしは足をぬは玉の
     寝醒の里にとゝめこそすれ
少し西に下りて、木曽川に臨みたる所に梵刹(ぼんさつ)あり。臨川寺と云ふ。川迫り岩聳え
水湛(たた)へたる所なり。俎板岩、獅子岩なと名を命し、此を浦嶋か子の竜宮へ通へる旧
跡なりと云ふ。甚其謂れなけれとも、斯る妄誕(ぼうたん)無稽(むけい)の言を伝ふること、世間に少し
とせされは、常にある虚搆と見て、亦敢て怪むにも及はさるへく。上松駅を過きて
桟に来り、又暫時茶亭に休ふ。木曽の桟(かけはし)といへは、古人の歌にも許多(あまた)読れて、其名は
いと危険の所と聞ゆれとも今は川底より、高く甃(しゅう)を築き上けて、路を作りたれは、只
昔の名を残すのみ。伹し古道は尚高き嶺に在りしとそ。
 桟の名のみ残りて旅人の
     行かふみちは危ふけもなし
とはいへ、落入らは命生くへくもあらす。沓掛といへる所にて、木曽川を渡り、西岸
に沿ひて越立峠を過き、黒田渡所に至りて、御嶽川の辺に出つ、橋あり。常磐橋と云
 
  (改頁)
 
ふ風色佳絶なれ共、野翁は馴れて称せす。都人士は亦見るに及はす。故に埋没し
て其名称せられさるなり。沓掛より此に至るまては、僅に樵路(しょうろ)を通するに過きさ
るのみ。此にて福島より来る道と相会し、稍々路らしき路となれ共、沢渡峠といへ
る峠ありて、頂上まては、凡壱里なりとそ。中腹に登山人の休ふへき小屋を設く、其
傍に懸れる瀑布を、八幡滝と称し、是亦信徒水浴の所とす。又こと/\しく、御嶽三
社、普寛神霊不動明王なと彫刻せる石を立並へたるは、妄者の心を悦はすへく、吾人
の目にはいとうるさし。富士山には、斯る者をは見さるなり。普寛(ふかん)とは行者の名
にして、初め御嶽山は、天明二年に覚明(かくめい)行者、黒沢村より、寛政四年木食普寛行者、王滝
村より登山して、路を開きたれは、信徒は皆之を開祖として、尊信するものなりと云
ふ峠の頂上には、御嶽山遥拝所を設け、小屋二戸あり。此を下り崩越なといふ所を
過き、二里許を行き王滝川の渡船場を渡れは、対岸は頓で王滝川にして神宮滝亀松
原彦右衛門二軒に投宿す。時に午后五時半を過く。羽田貞義君、福島より来りて
先つ在り、明日共に登山の為めなり。又登山の料にとて、各自金剛杖を購(あがな)ひ、且餅を
搗(つか)せて携帯せんと思へと、明朝の間に合はすと云ふにそ然らは赤飯と通常装飯の
外別に之を用意し、草鞋(わらじ)は一人に三足宛とし、物持案内者を兼ねて強力(ごうりき)三人を雇ひ
 
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準備全く整ひけれは、明朝の出発を午前二時と定めて九時頃皆寝に就きぬ。
八月十三日(土曜日)晴、山上烈風暴雨王滝発、登山して黒沢泊、道程凡十一里。
午前二時整列して、全員を三部に分ち、案内者をして松明(たいまつ)を執り、其先頭に立ちて行
かしむ。 松明は檜の枝の割きたるを、数本束ねて作れる者なり。此辺の土人は夜
行の節今も猶之を用ふとそ。山間僻郷には、上古の風俗言語を存すと、されは往時
未た提灯(ちょうちん)蝋燭(ろうそく)のあらさりし世の、有様をも斯くやと思ひ遣られたり。既にして三
合目を過き清滝に至る。 夜未た明けされは、松明を掲けて瀑布を見る。水高く懸
りて幅三間余も有りぬへく、実に其名に背かぬ詠めなりかし。
 滝つ瀬の流れもきよき清滝の
     夜るの詠めのおもしろきかな
此所の小屋にて、又松明を買求めて行くに、其尽る頃、東方漸く白み渡りぬ。彼方此
方の高嶺に、棚引ける横雲も、朝風に漂ひ晴れては、又曇りて何となく、今日の天気の
心にかゝりてなん。されと、此時三笠山、御嶽の峯は、能く晴れ渡りて、山霊の心も、い
と和やかなるか如く、浮雲繊霧たにも、猶かゝらさりけり。斯くて大陽の登らんと
する時、四合目八海山の小屋に行着きて、暫時休息し、或は煙を吹き、或は装飯を食ふ。
 
  (改頁)
 
時に豊栄登る朝日の影いと花やかに、山の端に匂ひ出てたり。
 ふりしよの松の灯火かけ消て
     長閑(のどか)にのほる朝つく日かな
五合目に至りて、又路傍に休ふ。 岐路あり。左して三笠山に登る頂上まて、猶五十
町許と云ふ。斜面漸く急にして、木を敷き通路を設く、此山は栂(つが)唐檜の老樹多く立
交りて、遠望すれは、風趣殊に佳なり。されと頂上に逹すれは、神祠の傍仏像を安置
し、行者の碑も其間に交りて、雑糅(ざつじゅう)混合殆と方物すへからす。頑陋(がんろう)俗習眼を遮り、人
をして、久しく留ることを欲せさらしめ、霊地も為に霊ならす。哀れ、此物なからま
しかはとそ思はれける。
 さして来し三笠の山の奥迄も
     うき世の塵はなほかゝるなり
最前よりいつとなく、風烈しく吹き雲立騒きて、一天墨を流すか如く、千早振(ちはやぶる)御嶽の
嶺も見えすなりぬ。和やかなりし山霊も、何ゆゑ斯くは、荒ふる業を為給ふらんと
こそ覚えて、いと佗しく恐しけれ。 七合目田の原の小屋に下りて、皆休止す。時に
午前七時、天気益々悪しく冷寒に堪へす。焚火をして暖を取り、湯を求めて水を呼
 
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ふ者なし鈴木志津衛中途より病む、強力を添へ黒沢に送り返す。さて雨の降らぬ
程に、頂上まてと思ふに、風は愈々烈しく、雲霧は益々深くして、四方も更に見えす。
里程を問へは、猶二里余リと云ふ。此辺よりは、既に中腹以上にもなりぬれは、路の
斜面も一層急にして、昨夜購ひたる金剛杖の、効用も著しくそ知られける。八合目
も過き九合目に来る、路傍に石室あり。内に数人を容るへし。是なん登山者の、暴
風雨を避くる為の設けなりとそ。今日は未た此内に入る程の天候に至らさるも、
雨は既に降り出てぬ。四方は更に見え分かす。只咫尺(する)を弁するのみ。後者呼ひ
前者応へ、互に相喚(よ)ひ相荅へて、雲を穿(うが)ち霧を排(ひら)き、遂に崎嶇(きく)羊腸たる、険路を登攀(とうはん)し
午前十時、始て絶巓に逹することを得たり。此に祠字(しう)を設け、少彦名命(すくなびこなのみこと)、大巳貴命の
二神を崇祀(すうし)して、之を御嶽神社と称す。其傍に社務所あり。山上風力常に強大な
るか故に、祠殿屋社皆狭小にして、宏壮ならす。
 二柱かみのたゝせるみたけ山
     幾重の雲をわけて来つらん
 雲霧のかゝるみ山は二神の
     高しりませる天の中そら
 
  (改頁)
 
暫時皆頂上の小屋に入り、焚火をして煖を取る。衣袴(いこ)悉く濡れて、殆んと寒冷に堪
へす。
 柴焚てしはし寒さは忘れても
     濡れし衣のひぬそわひしき
思きや。斯く密雲濃霧の合囲して、眺望を妨げ、且雨さへ降りて、長途の覊汗(きかん)旅塵を
此山巓に洗濯せんとは、抑吾等の遠く来りて、此天候に遭遇するも、亦天なりとこそ
いはめ。 されと猶遺憾なしとすること能はす。因て中央気象台報告書等、彼是を
抄録して、茲に此山の概略を記し、聊か看覧の便に供せんとす。
御嶽山は、信飛両国の間に亘れる、大山脈中に在りて、海面を抜くこと曲尺壱万〇百
二十八尺、[廿八町八間、三千〇六十九米]登路三あり。其一は三岳村字黒沢よりするもの、即表山と
称し、道程凡六里、其二は王滝村よりするもの之を裏山と称し、道程凡五里、其三は飛
弾国益田郡落合村よりするもの、道程凡七里にして、特に艱険を極むと云ふ。毎年
夏秋の候、登山する所の信者は、其数凡そ壱万人に下らす。されは山路も意外に開
け、黒沢及王滝の両所より登れは、一合目毎に小屋あり。尚其間にも、中小屋と称す
るもの所所に設けて、食物休泊なとは自在に為し得へくして、事を欠くことなし。
 
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されと落合村より登る路は、近頃[明治十九年]の開設なるかゆゑに、小屋もなく、中途には
只濁川と称する、温泉場あるのみ。因て或は飢餓(きが)を免(まぬが)るゝこと能はす。況で風雨
雲霧の、烈しく起る日に於てをや、雖(いえども)不然に登山人は概ね蒙昧(もうまい)無識の妄想信徒なれ
は、往々山上巡拝の際、濃霧に閉ちられ、飢寒(きかん)に襲はれ、暴風に吹き去られて、殆と死に
瀕し、且生命を失ふもの少なからすと云ふ。晴天の日嶽頂に登れは、遠近の峯巒(ほうらん:山々)、指
顧(しこ)の中に在りて、風景雄観絶佳(ぜっか)なり。駒岳は、最も近く東方に峙ち、其脈蜒蜒として、
東南恵那山に連り、赤石山の山脈は、尚其上に聳立(しょうりつ)して、一帯の峯頭を露はし、富士山
は殊に又其上に超出し、縹緲(ひょうびょう)糢糊(もこ)、風景最も佳なり。八ヶ岳蓼科山を経て、東北に方
り、常に一縷の雲煙を噴くものは、問はすして其浅間山なるを知らん。乗鞍岳鎗ヶ
嶽等は、北方に聳えて突兀たる峯巒相重畳し、延て越中の立山に及ふ。加賀の白山
は、北西に蟠り、其山脈亦頗る宏大なり。西南二方は、絶で一箇の高山なく、恰も緑波
の層々相重れるに似たり。之を要するに、此等の壮観佳眺は、高山に登りたる人に
あらされは、共に能く其趣を談すへからさるなり。御嶽は休火山にして、其噴火孔
の遺跡として、五個の池あり。概ね南北に列す、其最南なるを、一の池と称す。池底
平坦にして、僅に残雪の融解(ゆうかい)して、流るゝに過きす。週廻凡八丁、其外壁中、南東の最
 
  (改頁)
 
髙所を剣ヶ峯と云ふ。是を当山の頂上絶巓(ぜってん)と為す。一の池の北東に隣接して、二
の池あり。其西半の最も窪き所々に、雪水を湛へ、周回五丁許、清透鏡の如し。二の
池より、北方大河原を過き、険峻なる絶壁ありて、其東部を阿爾摩耶(あにまや)山と称し、西部を
摩利支天(まりしてん)山と称す之を過くれは、又三の池、四の池、五の池ありて、鼎足(ていそく)の形を為す。
三の池は周回十丁、頗る深く、清水湛々掬すへし。四の池は其底浅く埋れ、只清水の
潺湲(せんかん)たるを見るのみ。其西なる五の池は、最も小にして、僅に水を蓄ふるに過きす。
其北は継母岳に接す。之を御嶽の北端とす。又一の池の西壁を三十六童子と称
し継母岳其西に屹立(きつりつ)し、共に信飛の境界を為せり。三笠山は、王滝村に下る、半腹に
在る一の小瘤(しょうりゅう:こぶ)にして、其南西端を、奥の院と称し、地獄谷の南壁たり。頂上の南西は、
断崖絶壁其深さ幾何なるかを知らす。是を地獄谷と云ふ。察するに噴火の際、崩
壊せし所なるへし。崖岸に立ちて谷底を瞰下(かんか)すれは、覚えす、心悸して足戦き、慄然(りつぜん)
として、肌膚(きふ)忽ち粟を生す。谷間遥に蒸気の噴出するを見る。降て所に至れは、
二箇の噴孔(ふんこう)ありて、相距ること十間許、其大なるものは、口径凡六寸、小なるものは凡
三寸、共に噴勢頗る猛烈にして、轟聲(ごうせい)殷々殆と耳を劈(さ)かんとし、且硫気紛々たり。要
するに岳頂には、幾多の噴火孔あり。又噴裂(ふんれつ)崩懐せる残跡、各所に存し巉巌崔嵬、実
 
  (改頁)      画像19
 
に荒涼たる有様を呈出せり山中温泉三ヶ所あり。其一は嶺より、北西飛騨へ下るこ
と、二里の谷間に湧出す。則ち前記の濁川温泉是なり。其二は地獄谷噴気孔の傍
に在り。 其三は山麓なる、王滝村の地内に在りて、亦濁川温泉と称す。御嶽の地質
は悉(ことごと)く輝石安山岩にして、其主成分は、輝石長石及磁石鉄とす。是を以て磁計は磁
石鉄の作用に感して、一定の方向を指示せす。故に山頂に在りては、常に北極星を
標目として、方向を定む。御嶽の植物は、整然として層帯を為せり。其下部は扁柏
花柏等の良材、所々に欝茂し、五合目以上は、唐檜白檜等密生し、八合目以上は、一面に
偃松(はいまつ)の、地上に匍匐するを見る。更に頂上に至れは、焼石塊磊(かいらい)、気候寒冷、絶て樹木な
く唯僅に数種の花奔、岩石の間に点在するのみ。然れとも、能く短き夏日の間に生
育し、美麗なる花を開き、一時の芳研を闘はするに至りては、大に登山者の、心目を慰
むるに足るものあり。以上述ふる所は、抄録にして風雨の為に普(あまねく)く其地を踏査す
る事を得さりしなり。看者請ふ之を了せんことを。
頂上の小屋に、暫時天気を卜(ぼく)するに、雲霧の合囲益々甚しく、風伯(ふうはく:風の神)雨師を駆て、愈々威
を逞(たくまし)うする有様なれは、斯で空敷(むなしく)あらんよりは、寧(むし)ろ速に山を下りて、帰路に就くに
若(し)かさるへしと、是に於て、前路を転し道を表山即ち黒沢路に取りて、馳せ下ること、
 
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宛(あたか)も疾風の梢を渡るか如く、円石の坂路を転するに似て、忽ち九合目に達し又忽ち
八合目に着し遂に前隊後列相懸隔(けんかく)して顧望すへからさるに至る。余の八合目に
来るや。生徒宮坂元蔵病に罹(かか)りて、小屋に在り、鈴木松樹と看護して午后二時に及
へとも病猶癒えす。
 病む人をのする車も馬もなし
     いかゝはすへき木曽のおく山
兎角(とかく)思ひ煩ひ居たるに、小屋の主人云ふ。強力に負はしむる外、亦良策あるへから
すと、依て背負木(:背負子)の下に板を結ひ付け腰を其上に掛けて、背負することゝし、強力二
人を雇ひ、相代りて負ひ下らしむるに、険路を歩すること、坦途(たんと)に異ならす。我等単
身なるも、猶後れんとするはかりなり。数次負ひ替へて、五合目千本松の小屋に至
り、休息す。此よりは路も稍平夷なりと云ひ、且患者の疾苦も漸く快癒(かいゆ)したれは、今
は歩行せんとて、強力には銭を与へて遣り帰す。時に午后四時に垂んとすo斯て
三人共に歩して、五合目を立出て四合目の小屋に来りて又暫時休息せり。実は窃(ひそか)
に病者を案したりしか、此まで壱里余り歩行せしも、更に障ることなしと云へは聊
か安心はしたれとも、皆足は漸く疲労を覚えたり。小屋の傍に瀑布(ばくふ)あり。松尾滝
 
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と云ふ。
 くる人をまつをの滝の白糸の
     岩根にかゝる音のさやけさ
又下りて、二合目に来る頃は、夕陽将に山の端に入らんとし、気も疲れて足も進ます。
談話を試むれとも、其荅すら《モノウ》き如く、只心中に日の暮なんことを恐れて、早く宿所
に逹せんことを、願ふのみなり。人に問へは、地籍は既に黒沢村の内なりと云へと
未た人家も見えす。山を廻り林を出て、道の転する毎に、空しく失望すること其幾
回なりしことを知らす。
 日は入ぬ足は労れぬうは玉の
     黒沢山のやまかけにして
既にして、里宮を過き、橋を渡り、人に逢うて、宿所某氏は、那辺なるかと問ひしに、指し
て彼の少し小高き所なりとそ荅ふる。今は暮れぬとも、心安しとて、路辺に踞して、
寸燐(寸りん:マッチ)点し、巻煙草(まきたばこ)を喫し、午后六時過る頃に、神官武居氏に投宿す。先着の者は、皆既
に食事を終わりて、寝に就きたるも多かりき。
 村鳥の獨り佗しくおくれ來て
 
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     しむるねくらに日は暮にけり。
八月十四日(日曜日)晴、黒沢発奈良井泊、道程凡八里。
午前五時過、黒沢を発つ、道程壱里許にして、合砥峠の頂上に来る。御嶽山遥拝所の
設けありて、傍に小屋あり。此を過くれば御嶽も見えすと云ふにそ。
 顧みる高嶺は雲そ隔てける
     けふも昨日とあれまさるらん
又行きて、八久保峠を踰(こ)ゆ。時二峠共に、甚た険しからす。漸く福島に近くなる頃、
西筑摩郡教育講習会員某氏二人来り迎へられ、既にして、又高畠秋元等の諸君も、共
に来り迎へられ、相伴ひて、福嶋町なる高等小学校に誘はる。既にして、講習会員郡
衙等の有志諸君より吾等一行を優遇して、氷水、茶菓を饗応せらる。
 知しらぬあまたの人の真心の
     よに浅からぬ木曽のやま川
小学校を辞し、羽田、高畠二君の旅寓に至る。二君は、本郡講習会の講師として、来れ
るなり。午時前二君を別れ、福島を出てゝ、宮越に来り、徳音寺の什宝を見んとて、立
寄りしも、住僧不在なるか故に得す。 只源義仲の祠堂(しどう)を開扉するを、諾するのみな
 
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り。
 木曽川の早瀬の浪の砕けても
     猛き名社は世にひゝきけれ
此辺古跡多し。上田と云ふ所に仲原兼遠の屋敷跡あり。宮越には、義仲の城址、樋
口兼光及ひ巴の屋敷跡あり。藪原を過き鳥居峠に来れは、其巓は、木曽義昌か、武田
勢を破りし所なり。福島以北は、目下専ら道路改修工事中にして、所々に工夫の二
三十人、乃至四五十人、群集しつゝ山を穿(うが)ち岩を割り石を甃(しきつ)み、土を運ひ橋を架する
等の工事に.従事せる者少なからす。鳥井峠の頂よりは、又御嶽を望む故に、此にも
遥拝所の設けあり。此峠の開鑿工事は、此線路中、第一至難の所なりとそ。奈良井
は、新線路を外れたれは、目下すら、生計に苦しむ人民、今後尚一層の困難に至るなら
んか。日暮奈良井に逹し、徳利屋、米屋に投宿す。藪原及ひ奈良井は、櫛を以て産物
とし、戸々大抵之を以て、生計を営むと雖も、多くは粗造にして、僅にロを糊するに、過
きさる情況なりき。
八月十五日(月曜日)晴、奈良井発松本泊、道程凡十里。
早発の者は、午前二時遅きは仝五時頃なりき。道路は、昨日と同しく、開修工事最中
 
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なれは、所々行歩に艱(くるし)む所多し。贄川を過き、桜沢に来りて休止し。又本山、洗馬を
過き、中山道は、東に走り直に北すれは、松本に達す。此にて鈴木正治君と相別る。
夫より桔梗ヶ原を過き、出川の多賀神社に来る。本日は、此にて一同待合せんこと
を約せしも、一人の止る者なし。是れ早く松本に至らんことを欲すると、神社境内
には、休息すへき所なきとに由る者なり.因て前議を変して、随意到着の事とした
るは、聊か飽かぬ心地そせられたる。余は甞て、出川学校に在りし故知人も多く、中
に就て、故人となりし者も、数人に及ひたれは、中田東蔵、上条伝次等の墓を吊して、
 跡問へと苔の下には声もなし
     長きねふりにつきし君かな
又小学校に立寄り見るに、夏期休業中にて、校舎は閉ちたれと、壁も壊れ障子も破れ
にたれは、教の業も荒れつらんと覚えて、昔の事とも、何くれと思ひ出るまゝに
 二十年の昔しこひしみ立寄は
     庭も籬も荒れはてにけり
斯て獨も後れて、松本博労町に至る。赤見氏在り。折居松若君、中学校職員総代と
して、出迎に来らる。因て三人相伴うて、東町に来り、信濃屋外二軒に投宿す。時に
 
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午后三時なり。夜に至るまて、来訪者最多かり。修学旅行は、既に本日を以て終り
たれは、明朝一同整列の上、解散を逹し、且告別すへきなれとも、遠方の者は、非常に早
発を欲し.近傍の者は、之に反すれは、寧ろ今宵逹して、明且は整列せさるの便宜なる
に若かすと、决定せり。是に於て、犀川通船(注4)契符を買ふ者、第二線路(注4)馬車契符を買ふ
者等多かりき。
八月十六日四時、或は五時猶後るるもありしか、五人、十人乃至二三十人相携へて、思
ひ/\に出立ちぬ。
 今朝はしもねくら離て群鳥の
    おもひ/\に立わかれぬる ’
凡二十日間、二百有余里長途の旅行に、身を炎天の酷暑に晒(さら)し.或は天竜の激湍(げきたん)に神
魂を驚かし或は尾濃震炎(注5)の跡に肝膽(かんたん)を冷し、或は御嶽の風雨に、征衣の汚垢(おろう)を洗ひ
朝には星を戴きて出て、夕には月を負ふて駅に入り、敢て熟眠安息せさるも、一行皆
健全にして、無事に之を終ることを得たるは、誠に吾等無上の幸福なりとや言はん。
又此行に於て、直接に、間接に得たる所の利益は蓋少小の間に止らすして、其得る所
費す所を補ひて、猶余りあるへきは、、吾等の深く信して、疑はさる所なれとも、獨り記
 
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事の鹵莽(ろもう)にして、詳略宜を得す。要旨を洩らして、徒らに蛇足を添へたること多か
らんを、耻つるのみなり。職員等は本日麻績泊にて、十七日長野に帰る予定なれと
も、記事は生徒解散の日に於て筆を止めつ。
 
(注1)修学旅行参加者数
 明治23年に行われた「第4次修学旅行概況」には、参加者は教職員が教頭松井元次郎、浅井洌はじめ11名、その他4名。生徒は4年生16名、3年生15名、2年生28名、1年生25名で「一行96人なり」と記録されている。当事の男子生徒数は121人だったが、その夏の悪性流行性感冒により参加できなかった者も多い。
 『信濃名勝詞林』には「生員姓名は略す」とされ参加者数の記録はありませんが、本文中に天竜川の船行は5艘で1艘乗客凡20人とあり、明治25年の修学旅行参加者は約100名だったと思われる。
(注2)長野停車場
 信越線は、明治21年8月15日に長野-上田間、同年12月1日に上田-軽井沢間が開通した。明治26年には碓氷峠があき、高崎-直江津間が全通した。
(注3)当時の長野県尋常師範学校長は浅岡一であった。浅岡は信州の地に近代教育の種子をまいた永山盛輝、能勢栄とともに信州教育の三大恩人といわれ、人格教育として大きな影響を与え、教育者精神を遺産として残した。女学校創設の啓蒙教育家 渡辺敏は実兄。
(注4)犀川通船・第二線路
 犀川通線は江戸時代後期に開設された。松本と上水内郡信州新町を結ぶ約60キロを7時間かけて下ったが、明治35年(1903年)に篠ノ井線が開通したことで衰微し、犀川沿いの陸路が完成したことで廃止された。
 第二線路とは、松本から上田に至る現在の国道143号線のことで、1890年に千曲川の上田橋架橋完成に伴って県道として全通した道路で、建設当初は馬車交通であった。
 なお、第一線路とは碓氷峠越えの国道18号旧道である。
(注5)濃尾震災
 明治24年(1891年)10月28日、日本史上最大級の直下型地震の猛烈な地震が岐阜県美濃地方、愛知県尾張地方をおそった。甚大な被害をもたらし濃尾地震と名づけられた。