NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■長野県師範学校生徒修学旅行概況 [解説] 

(1)概況
 出発は「明治25年7月29日(金曜日)早天猛雨、午前7時晴、長野発和田泊、道程凡18里」から始まり、
「7月30日(土曜日)朝風雨、后晴、和田発上諏訪泊、道程凡7里」
「7月31日(日曜日)曇、上諏訪発、杖突峠を経て高遠泊、道程凡8里」
「8月1日(月曜日)朝曇少雨、后晴、高遠発、坂下を経て飯島泊、道程凡7里」
「8月2日(火曜日)晴、飯島発、坐光寺村を経て飯田泊、道程凡7里」
「8月3日(水曜日)朝曇、后晴、飯田発下河路村開善寺泊、道程凡2里」
「8月4日(木曜日)朝曇朝曇、后晴開善寺発、天竜川を経て遠州二俣泊、道程凡21里」とあります。
 この後、8月5日から10日の1週間分の記載はなく、いきなり8月11日に飛んでいます。この間は天竜川を下って浜松に出て、東海道線で名古屋に向かい、「尾濃震災の跡に肝胆を冷やし」とあるように前年に発生した濃尾地震直後の名古屋まで行きました。その後中山道を北上して木曽に入ってきたところからまた記載されています。
「8月11日(木曜日)中津川発須原泊、道程凡10里」
「8月12日(金曜日)晴、須原発、王瀧泊、道程凡8里」
「8月13日(土曜日)晴、山上烈風暴雨王瀧発、登山して黒澤泊、道程凡11里」
「8月14日(日曜日)晴、黒澤発奈良井泊、道程凡8里」
「8月15日(月曜日)晴、奈良井発松本泊、道程凡10里」
「8月16日4時、或は5時猶後るるもありしか、5人、10人乃至20,30人相携へて、思い思いに出で立ちぬ。」とあり、ここで解散しています。
 7月29日に長野を発って、8月16日に松本で解散という実に19日間に及ぶ修学旅行でした。そして、修学旅行に参加した生徒は軍事教練のような出で立ちで、開通後間もない信越線、東海道線の汽車及び天竜川舟行以外は全て徒歩でした。その距離200有余里の長途の修学旅行でした。
 
(2)本書は修学旅行コースに当る各地の歴史、人物、自然等についても述べています。
 項目的に挙げると、元治元年の水戸脱藩浪士と松本・諏訪藩との戸沢口樋橋合戦、高島城跡、高遠城の沿革概略、名儒坂本天山、西春近村報恩寺の松の古木、座光寺村の善光寺如来腰掛石、烈女阿藤、飯田城市沿革、天竜川船行、美濃信濃国境、寝覚め床、御嶽山登山、源の義仲祠堂、福島以北の木曽路道路改修工事等です。
 特に天竜川船行部分は7ページ、御嶽山登山は9ページと最も多くのスペースを割いています。
 浅井はこの修学旅行を総括して、「凡廿日間、二百有余里長途の旅行に、身を炎天の酷暑に晒し、或いは天竜の激湍に神魂を驚かし或いは尾濃震災の跡に肝胆を冷やし、或いは御嶽の風雨に征衣の汚垢を洗い、朝には星を戴きて出て、夕には月を負いて駅に入り、敢て熟睡安息せざるも、一行皆健全にして無事に之を終ることを得たるは、誠に吾等無上の幸福なりとや言はん。又此行に於て、直接に、間接に得たる所の利益は蓋少小の間に止らすして、其の得る所費す所を補ひて猶余りあるべきは吾等の深く信じて疑はざる所なれ」と述べています。