NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■犀川を下る記 [解説] ~犀川通船・天竜川通船・千曲川通船の盛衰~ 

(1)通船計画と神子柴村孫市の通船
 17世紀に入ると信・遠国境辺には通船が展開していたといわれますが、18世紀後半、飯田町正木屋清左衛門らは本格的な通船計画を練っていました。しかし、中馬稼ぎ村や既得権を持つ下川路村(飯田市)等から強力な反対が起ったためこの計画は一時挫折しましたが、天明3年(1783)に幕府から裁許が出され、正木屋は通船の先駆者となりました。
 文政6年(1823)神子柴村(南箕輪村)孫市が諏訪から掛塚(静岡県磐田市)までの通船願書を松本藩に提出しました。これは、100艘で信州の諸物産を輸送しようとするもので、「中馬輸送は日数がかかるために雑費がかさみ、諸国の物産より高価となるから国益がうすくなる。通船を使えば、百姓・町人の利益が増大するし、領主米の輸送費も通船の方が少なくてすむ。」(「下伊那史」第8巻P707 )と提言し、松本・高島・高遠藩も国益振興上、天竜川船に着目していたので孫市の企画を取り上げました。その後、木曽11宿から反対が起こったので、変更願書を出して折衝を重ねた結果、中馬村々、木曽11宿との合意が成立し、文政13年、幕府役人の実地検分を経て通船許可を得ました。
 孫市の企画の大要は、「①長さ7間半・底4尺2寸の船を100艘建造する。②品目は米・大豆・酒を除き、中馬で扱えない重いもの、長いもの等③荷積み場は沢村(箕輪町)・時俣村・遠江半場村(浜松市)とする。④運上ついて永100貫文、椴板3000枚を収める」(前掲書P708)というものでした。
 
(2)材木の流送
 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は大阪城造営の木瓦を天竜川河口の掛塚湾まで流送させ、豪商角倉了以は遠江見付の代官とはかり京都方広寺大仏殿造営材を鹿塩・大河原山より伐出し、小渋川から天竜川を下したと言われています。また、慶長17年(1612)には、江戸城天守閣用材が遠山各所から遠山川を経て天竜川へ流されたという。
 このように、豊臣秀吉、徳川家康が伊那山に着目した開発が天竜川を利用した材木輸送の先鞭となり、天竜川から流送された伊那の材木は江戸をはじめ、各地の城下町や宿場等の建築材となりました。
 天竜川を下る材木はすべて満島番所で改められましたが、享保2年の満島番所通過木数は100万本を超えており、江戸時代は膨大な材木が天竜川を下りました。(※)