NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

2.紀行文・道中記、地誌

■諸国道中商人鑑 [解説] 

 『中山道道中商人鑑』は、松井田から追分まで『諸国道中商人商人鑑 中山道善光寺之部』とまったくと同じである。ふたつの『道中商人鑑』は同じ版をもとにしている可能性が高い。
 このあと『善光寺之部』は小諸から上田、坂木、戸倉、矢代、しの々井、丹波島を通り善光寺に到着、終わりとなる。
 『中山道道中商人鑑』の記述にもどる。ここからは、はじめに宿名と次宿への距離を原文通りに写し、次に掲載されている旅籠屋数と店数を示すという形をとる。
 
・「を 中山道小田井 岩村田へ一里七丁」旅籠屋一軒のみ
 その一軒「商人衆定宿 柏屋新九郎」の隣のスペースは黒く塗りつぶされている。はじめは旅籠屋名か店名が載せられていたが、広告料金を納入しないので削除したのか。とすると、この冊子が初版ではないのかもしれない。
 『木曽名所図会』に「駅内二町ばかり 多く農家にして旅舎少なし」とあり、宿泊に利用されることの少ない宿であったことがうかがえる。寛政12年(1800)の「一軒別家業書上帳」には、純農家90、旅籠屋8、茶屋5、車屋3、小商3、豆腐屋3、大工4、桶屋1、鍛冶屋1、髪結1、奉公人26、老病者5とある。小さな宿ではあったがその機能をしっかりと果たしていたことがわかる。
・「岩村田 塩名田え一里十七丁」旅籠屋五軒、店四軒
 店では太物・薬・小間物・荒物・水油が売られ、御休所では「名物しなのそば」を食べ、酒をたしなむことができる。「商人衆定宿」の広告中に「しなのそば」「酒さかな」「御茶漬」など、飲食物が記されていることから、中小の旅籠屋では御休所も兼ねた営業をしていたとも考えられる。本陣や脇本陣などの大きな旅籠屋には飲食物の広告は見られない。
 岩村宿の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない宿駅であった。善光寺への分かれ道、甲州路への道筋があり、小諸へは2里、と交通の便が良い地であったため商人が多かったという。
・「志 中山道塩名田 八幡え三十七丁」旅籠屋三軒
 ここで千曲川を渡る。『商人衆定宿』の広告には「名物ど志やう汁」。現在も川魚の料理屋がある。
 次の八幡宿までは距離が短い。なぜ塩名田に宿を置いたのだろう。荒れることがある千曲川が流れているためである。塩名田は対岸の御馬寄村とともに、千曲川往還を守り、継立を遅滞なくするために置かれた宿だった。大雨大水のときは夜中も橋を守れ、という領主からの命を受けている。現在はわずかに問屋場と河原宿周辺に面影が残されている。昔日をしのぶものとして「塩名田甚句」と「塩名田節」が保存されている。「塩名田甚句」は追分節の流れをくむ唄で、「塩名田節」は明治から大正にかけ芸妓が「とことん節」をもとにはやらせたという。
・「や 中山道八幡宿 望月へ三十二丁」旅籠屋二軒
 ここは、中山道の整備にあたり慶長の初期、御牧ヶ原南裾にあった村や八幡の本村の人家を道沿いに移して成立した宿である。天保14年(1843)ごろの旅籠屋は7軒であった。本陣1、脇本陣4と宿の大きさに比して脇本陣が多いのは、3カ村から人家が集められたことに起因しているのであろうか。現在も町割りの姿が比較的よく残っている宿である。
・「も 中山道望月宿 芦田宿え一里八丁」旅籠屋五軒、店二軒
 古代、駒の里であった望月にふさわしく「駒屋」という名の旅籠屋がある。宿内の往還は鹿曲川(かくまがわ)にそって東南から西北に伸び、道幅は2~3間、京風の格子や出桁造りの家が残り、宿場の名残をとどめている。天保14年の明細帳によると、町の長さは6丁余、総家数82、本陣1、脇本陣1、旅籠屋が9軒であった。
・「あ 中山道芦田宿 長久保え一里半」旅籠屋四軒、店一軒
 ここには古刹津金寺があり、笠取峠道の松並木は天然記念物になっている。広重の浮世絵にも描かれた松も減少の一途にある。国道142号線沿いにある松並木をいかにして保存していくか、課題である。天保14年、総家数80軒、本陣1、脇本陣2、旅籠屋6であり文久元年には旅籠屋14、牛宿1、木賃宿1、茶屋5、商家11、医師3、髪結2などであった。旅籠屋が倍以上にふえ、牛宿もみえる。商品流通がますます盛んになり、商人の宿泊が頻繁となったのであろう。笠取峠をひかえた芦田宿、増大する物品を運搬するために牛が利用されたのだろうか、中山道にはめずらしい牛宿である。
・「な 中山道長久保 和田え二里」旅籠屋五軒、店二軒
 「是より善光寺道」と書かれた道しるべの絵が描かれている。絵の上には善光寺までは15里、すべて平地であるとしている。さらに、長窪宿からは長瀬を通り「北国道大屋村」を経て上田までは1里半と記している。これは、依田川沿いを下り武石・丸子・長瀬と進み、大屋で千曲川を渡る道である。
 長久保宿は、真田領知支配のために送り込まれた石合、小林氏を中心に新しく形成された宿である。したがって現在に至るまで依田川下流にある「古町」に対し「新町」と呼ばれている。
 本陣をつとめた石合家には真田信繁(幸村)が同家に嫁いだ娘への書状が残されている。大坂夏の陣前、死を覚悟して書かれたものであり「娘のことをよろしく」と愛情のあふれた内容になっている。
・「わ 和田宿 諏訪へ五里半九丁」旅籠屋六軒
 中山道一の長丁場で難所であった和田峠を控えているため、本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28(天保14年)の大きな宿場となっている。年々宿泊者増加し、上町・中町・下町だけでは足りず、正徳3年には、橋場新田が形成され、宿が拡張された。
 
 和田峠には旅籠屋2軒(定休所も兼ねる)、定休所5軒が載っている。
 峠道は東餅屋、西餅屋、樋口、豊橋と進みそれぞれに御休所がある。東餅屋(小県郡)に3軒、西餅屋(諏訪郡)に3軒と御休所を両群で等しく分けている(餅屋峠とも呼ばれていた)。
 下諏訪宿よりの峠道脇に「浪人塚」がある。元治元年(1864)水戸の天狗党と諏訪・松本藩士がここで戦い、15人と5人の戦死者を出した。名前の判明した6人の碑を建てて弔ったものである。
 「御飛脚衆」「御嶽山講中」「越中富山薬屋衆中」「越前漆屋衆中」「信州高遠石工衆中」「嶋屋・京屋定飛脚衆」「木曽職人衆」「駒嶽山講中」の定休所が峠に集中している。御嶽遥拝所が和田峠嶺の東側にあったが、明治期の新道開鑿の折に移転した。
・「志 中山道下諏訪 塩尻え三里八丁 当所宿中に温泉有之候」旅籠屋五軒、店一軒
 見開き2ページにわたる旅籠屋の広告は2軒の脇本陣。温泉内湯の文字と絵が見える。お泊りくだされば、信州一ノ宮諏訪上下大明神七不思議記、秋葉山鳳来寺・伊勢道中記を進上する、とも書かれている。下諏訪は宿としての名称で、郷村名は「湯之町」である。たった1軒載っている店には「即席御料理・鰻蒲焼・鯉・鮒・鯰」。諏訪湖を望む料理屋だろうか。
 下諏訪宿は、中山道と甲州街道が合流する所で、甲州街道上諏訪宿までは1里11丁あり、諏訪大社下社へは三方向から集まる参拝客でにぎわった。
・「志 中山道塩尻 洗馬え一里三十丁」旅籠屋八軒、店四軒
 2軒の薬屋、菓子屋の広告が見える。
 古代から交通の要所として重要な地である塩尻にいつ宿が成立したのかは定かではない。永禄六の年武田信玄の伝馬定書から中山道制定以前から宿があったことは確かである。武田信玄のいう宿は「古町」と呼ばれ、東北よりの場所である。中山道塩尻宿は、古町付近や近郷の人々を集めて宿役人を定め伝馬制を整えた。
 宿は文政11年と明治15年の大火で大部分を焼失、宿の中心部を国道20号線が通ったこともあり、昔日の面影を探すことはむずかしい。
・「中山道洗馬宿 本山え一里」旅籠屋七軒、店四軒
 酒造が2軒、そば切が高名である。洗馬宿は北国西往還(善光寺街道)との分岐点になる。天保14年の旅籠屋は29軒であるが文久3年(1863)には72軒と大幅に増え、飯盛女もいた。宿の中央には本陣と脇本陣が置かれ、問屋は両家が交代でつとめた。本陣は敷地930坪、建坪157坪あったが明治42年の中央本線洗馬駅開設と昭和7年の大火により焼失、敷地1050坪の脇本陣も昭和の大火で焼失した。
・「も 中山道本山宿 贄川え二里」旅籠屋四軒、店二軒
 松本平と木曽とを結ぶ地として、政治上・軍事上の要地であった。松本城主小笠原秀政が慶長19年(1614)本山宿の問屋役を命じた文書が残されている。桜沢から牛首峠を越え、小野に至るはじめの中山道が、本山を通る路線にこのころ変更されたことを示している。
 本山宿は木曽路の出入口にあたり、下段に奈良井川が流れている。原罪の家並は、江戸時代の火災、明治2年の大火により被害を受けたが、そのつど旧態をに復元しているので家並はよく保存されている。
 
 『中山道道中商人鑑』の宿案内はここで終わる。次のページには、木曽路入り口の絵とともに、ここから京都までの案内は、出来次第売り出すので、お買い求め御覧ください、と宣伝文句が記されている。
 最後の2ページには「にゑ川」(贄川)から「京」まで、それぞれの宿と距離を示した表が載せられている。