NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

西江部村篠田家文書 [解説] 

11900


 
 西江部村では千曲川洪水の被害に加えて、夜間瀬川洪水の被害があった。松崎で堤防が決壊し暴流となって、一本木村・吉田村の南端境を流れ下り、西江部村まで達した。その土砂を含んだ暴流は、西江部村の用水源となっている岩船村地籍内の湧水池を埋めてしまい、今まで三か所だった湧水池を一か所にしてしまった。そのため、潤沢であった用水が不足がちになり、後々まで大きな影響を残すことになった。
 寛保の水害は、西江部村の用水源を荒し、六町五反歩余の水田を干損地としてしまったのである。しかたなく、畑にして耕作せざるを得なかったが、さらなる問題は、畑地化しても年貢は従来と同じく水田として賦課されたことである。
 こうした年貢の過重負担が、西江部村を「極貧窮」の村に追いこむことになった。文化十五年(一八一六)、中野代官所代官大草太郎右馬が幕府勘定所へ提出した伺書の中で、西江部村の状況を次のように記している。
「年々の困窮が重なり、宝暦期(一七五一~)から天明期(一七八八~)の間に、小百姓のうち一一軒が潰れ、寛政八年(一七九六)から文化十四年(一八一七)の間には一〇軒が潰れ、六〇余人も減少してしまった。残る小前たちも極貧窮となり、他所へ出たり奉公稼ぎに出たりする者が多く、年々人口が減少している。土地を近村へ質に入れる者もあり、このままでは一村衰亡してしまう歎かわしい事態である。」
 同じ大草代官が翌文政元年(一八一八)に提出した伺書の中でも、次のように記している。
「西江部村は全く水不足で、水田の植え付けが出来ずに畑地化している。やっと金をととのえて年貢金を上納している始末であるが、その稼ぎ方をただしたところ、農間に布木綿や莚を織っても自家用のみである。人数の多い村では、高一〇〇石について人口一五〇~二〇〇人にも達するのに、西江部村では宝暦のころから一一軒も減少し、今は二〇〇石余の村で四六軒、一九二人しかいない。このなかには、江戸奉公などもあり、村柄はだんだん衰微にある。」
 このように、水不足による水田の生産力の減少と過重な税負担が、寛保の水害以後の西江部村にとって、解決しなければならない大きな課題であった。文政元年にようやく一応の解決をするのであるが、この間、実に五六年と半世紀もかかった。
 この間を三期に分けて考えることができる。
 一期は水不足が目立ちはじめた宝暦期から安永九年(一七八〇)までで、自力で解決しようとした時期である。
 それまでは「用水筋も宜しく相成り、手入れし出精仕り候わば、立直り候儀もこれあるべきやと存じ、御訴えも申し上げず」というように、まださほど深刻な事態ではなかったようである。しかし、年々渇水が厳しくなり、水田の干損地化が恒常的となった。しかも、水田が畑地化しても年貢は水田分を負担していたのである。困窮した小前百姓たちは村役人に働きかけて、代官所の役人へ改善を訴えようとした。けれども、年貢を減少させることは「容易ならざる事」なので、精を出してもとの水田にするよう代官所側に説得され、正規の手続きで訴え出ることはなかった。
 二期は、安永九年から寛政三年(一七九一)までで、水田干損地を畑地に地目変更しようと訴願した時期である。
 安永九年、西江部村名主市左衛門ら三役連名で岩出伊右衛門代官に願書を提出した(前出の寛政二戌年「御吟味ニ付申上候書付」では安永八年と記されているが、実際に出されたのは安永九年である)。その内容は水不足で水田が畑地化している分は、畑方の年貢上納にしてほしいというものであった。だが、「容易ならざる願筋」だとして、なるべく手入れいたし精を出して年貢を上納するよう命じられ、願書は取り上げてもらえなかった。
 その後、久保平三郎代官の時に願書は取り上げられたが、代官が変わってそのままになってしまった。西江部村では「取り立ての手段もなく、一同途方にくれる」という状態であった。
 寛政元年(一七八九)四月、御料所(天領)巡見使が回ってくることになったので、取るべき手段のなくなった西江部村では、代官を差し置いて、この巡見使に直接願書を差し出した。
 問題の場所の見分吟味する段階までいったが、幕府勘定所へ伺ったところ、またまた沙汰なしとなってしまった。理由は、田畑のことは代官の任務に属すること、これまで田方の年貢を納めてきたこと、これを取り上げると全体のゆるみになるということであった。
 三期は、文化十二年(一八一五)から文政元年(一八一八)までで、溜池築造による水源確保を代償に、実質的に地目変更を実現した時期である。
 再度、年貢引下げの訴願が活発化したのは、文化十二年である。その原因は、代官が大草太郎右馬になったこと、西江部村の名主市左衛門が息子(市左衛門襲名)に代わったこと、文化十三年が一〇か年の定免切りかえの年にあたり、問題にしやすかったことなどが考えられる。
 西江部村では、今までの経験から、年貢減少になる願い筋は取り上げられないことを知っていた。そこで考えたのが溜池築造計画であった。内容は、干損田の年貢を十五年間畑地なみの課税とし、その年貢量の差額分を溜池築造の経費にあてる。そして十五年間で溜池を完成させて、干損田をもとの水田にもどそうという計画であった。また、もしこの計画が聞き届けられない場合は、年貢定免は返上して検見を願い出る以外にないという強い決意で、名主市左衛門は江戸の大草代官へ直接願い出た。
 大草代官は、今までの代官とはちがい、「時すぎて訴えることは法が許さないが、しかし、民の困苦は代官の責任でもある」と西江部村の訴願を積極的に受け入れ、幕府勘定所への働きかけにも力を入れてくれた。その結果、文政元年に干損田の課税率が畑地並に引き下げられることになった。長年の年貢率引き下げ運動が一応の実を結んだのである。
 西江部村の村人は、大草代官に感謝し、その功績を長く伝えようと、天保四年(一八三二)に大草稲荷を建立して祀った。