NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 [解説] 

11100


 
 「寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳」(以下、「万覚留帳」と略)は、祢津知行所金井村(現東御市金井)の名主役を務めていた(瀬田)清右衛門が記録した史料である。金井村は8月1日朝8時頃、所沢川上流で発生した土石流に見舞われ百人を越える村人が流死、家屋のほとんどが流出、同地での復興を断念し、別地に新村を建設した村である。「万覚留帳」には奉行所へ提出した被害届や復興のための入用金関係の書類とともに、8月1日の被災体験と新村建設の経緯が綴られている。
 上田藩や松代藩は被害報告書を作成しており、被害の実態が比較的明らかにできるが、祢津知行所には知行所全体の被害状況を示す史料が残されていない。その点で「万覚留帳」は極めて貴重な史料である。また、土石流発生時の様子を知ることができる史料としては他にあまり例をみないものである。土石流のメカニズムを解明する一助ともなろう。
 「万覚留帳」によれば、この土石流による金井村の流死者は113人だったという。生き残って祢津の長命寺をめざした村人が105名だから、他所へ避難した者が若干いたとしても、当時の村の人口はおおよそ200人ほどだったと考えられる。半数近くの村人が死亡したことになる。65軒の家屋の内、流れ家53軒、倒れ家9軒、無事だった家はわずか3軒に過ぎなかった。
 瀬田家には「万覚留帳」のほか、「戌の満水」による耕地の被害状況を書き上げた史料(「寛保三年四月二十一日 田畑屋敷并新切永流当流書上帳」)が残されており、これによれば村高257石の53%にあたる137石余が被災した(『東部町誌』歴史編下)。
 所沢川上流で土石流がどのように発生したかについては不明である。所沢川は烏帽子岳と三方ケ峰の裾合いの谷から流れ出る川である。7月終わりから降り続いた雨で土砂崩れがおき、堰き止めダムが形成され、決壊したと考えることもできるが、三方ケ峰から金井までの斜面は急勾配で、堰き止めダムは形成されにくいとの見解もあ(『寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く』)。とすれば、山体崩壊に近い現象が発生し、そのまま一気に土砂が流下した可能性もある。類例としては昭和36年(1961年)の「36災害」の際、長野県下伊那郡大鹿村大西山で発生した山体崩壊や、昭和59年(1984年)長野県西部地震にともなう御嶽山の崩壊(いわゆる「御嶽くずれ」)が上げられる。現在のところ所沢川上流で大規模な山体崩壊の痕跡は確認されていないが、金井村から10㎞余離れた上田城下で「8月1日午前8時前に巨大な音がした」(『海野町問屋日記』)との記録もあり、この音を所沢川上流でおこった大規模な崩壊とみることはできる。今後の研究を待ちたい。
 「万覚留帳」では、「8月1日朝、下男たちが草刈りに出ていた」という記述も重要であろう。土石流発生直前、雨は止んでいたということを意味するからである。土石流は豪雨時ではなく、降雨がピークを過ぎた頃、あるいは雨が止んで数時間後に発生するというケースもある。平成18年(2016年)7月、長野県岡谷地域を中心に発生した大規模な土砂災害(「平成18年7月豪雨」)でも同様な現象が報告されている(『忘れまじ豪雨災害 平成十八年七月豪雨災害の記録』など)。「万覚留帳」は土石流災害に対する教訓としても活かすことができる。
 なお、土石流は金井村を直撃したあと田中宿に壊滅的な被害を与え、大量の土砂・樹木・家屋・流死者等を含んで千曲川に流れ込んだ。上田の記録では、8時過ぎこれらが上田城下の千曲川に漂着したという(『伊藤家文書』)。流れ着いた死体は秋和の正福寺に埋葬された。
 「万覚留帳」には新村建設の過程も記されている。『東部町誌』によれば、次のようである。
 生き残った者たちは祢津の長命寺に避難したが、その後、旧金井村より数百メートル東南の庚申原の原野に代官所から屋敷地を与えられ、名主清右衛門以下家普請に取りかかった。9月に村人全員の屋敷地割が行われ、南北に通した道路の両側に、48軒分の屋敷割がなされ、奥行きは一律23間(約42メートル)とされた。道に面する部分の幅は村役人たちが広く、水の便もよかったという。道の東・西のいずれに住むかはくじ引きで決めた。翌年には氏神の仮社、薬師堂、郷蔵が再建された。
 しかし、村高の三分の一にのぼる83石余の流失田畑は幕末まで開墾不可能地として残された。
 なお、金井地区では毎年7月27日に「火祭り」が行われている(現在は7月末の土曜日に実施)。この祭りは「戌の満水」の流死者の霊を供養と無病息災を祈る行事と言われる。