NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

小諸洪水流失改帳 [解説] 

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 千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」による最も大きな被害を受けたのは、小諸藩の城下町であり、北国街道の宿場でもあった小諸町(現小諸市)である。小諸町は、中山道追分宿(現軽井沢町)から分かれた北国街道最初の宿場で小諸宿とも呼ばれるが、三つないし四つの町から成っている。追分側からいうと、蛇堀川を渡った最初の町が与良町、次が本町、次が市町で(この三町は、小諸三町とも呼ばれる)、これに与良町と本町との間に新たにつくられた荒町を加えると四町になる。このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・問屋」などが流され、「亡所」になったと記されている)。
 小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている。町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。
 「戌の満水」の際には、もちろん蛇堀川も洪水を起こし、蛇堀大橋を破壊するなどの被害を与えたが、より大きな被害を与えたのが、松井川と中沢川であった。というのは、松井川は光岳寺の山裾から荒町と本町との境の道を横切り、武家屋敷のほうへ流れていた。他方、中沢川は本町の西側(往還道からは本町の住宅の裏側)を南北に流れていた。なお、その右岸は本町に属する六供・田町である。
 松井川と中沢川は、六供の上流で流れが接近している。寛保二年八月一日に、七月二八日以来断続的に降り続いていた雨が、二つの川のさらに上流で土石流を発生させ、二つの川が一つの川のようになって、六供・田町・本町・荒町や一部の武家屋敷・寺社を襲い、さらには小諸城の三の門・足柄門などを破壊したのであった。
 ちなみに、この時本町に続く市町がわずかな被害ですんだのは、本町と市町との間に存在した鍋曲輪(なべくるわ)と呼ばれる台地が、本町を襲った土石流を止め、土石流がそこで二つに分かれたからであった。二つに分かれた一方の土石流は、足柄門・三の門など城の施設を破壊した。この時の土石流の流れは、「寛保二年小諸大洪水変地絵図」(1)(小山隆司家所蔵)に詳細に描かれている。これによって小諸町のどこが被害にあったかくわしく知ることができる。また、これまでほとんど知られていなかったが、小山隆司家にはもう一枚「寛保二年小諸大洪水変地絵図」(2)が所蔵されている。これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」が「大崩れ」していたことが判明した。さらに、この絵図の裏には「小諸大変次第書」と題し、小諸町の被災状況と、復興のための幕府役人の見分の様子などが記されている。これは与良町庄屋の藤吉(小山隆司氏の先祖)が記したものと考えられるが、見分役人を案内した際に、見分役人とほぼ対等に話し合っている様子などが知られ貴重な記録といえる。
 おそらくこうした活動などのために、「小諸洪水流失改帳の写」(小山隆司家所蔵)も小山家で作成されたものと推測される。「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による被害状況を詳細に書き記したもので、どこの誰の家が、どのような被害を受けたかや、小諸藩からの幕府への報告、小諸藩領内の被害状況などがくわしく書き記されている。
この史料から被害高の一部を書き抜くと、次のようになる(別の写本で一部補足)。
  本町・六供・田町・荒町・市町の流家合計二五四軒(含寺四、宮一)
    内、流家一九三軒、潰家三三軒、土蔵二八軒
  流死(家中・郷中間・召使いなど)七九人
    内、三七人男、四二人女
  流死(小諸町)四二八人
    内、二〇〇人男、二一八人女(合計四一八人で一〇人不足) ほかに流馬一四疋
 これによれば、小諸町では武家方も合わせると(合計数が正しいとすると)、五〇七人が流死したことになる。大変な災害だったといえよう。
 なお、このうしろに小諸藩領全体の流家・流死・流馬のことも記されている。それによれば、小諸藩領全体では流家三七三軒、流死五八四人、流馬二三疋であった。もちろん、このほかに田畑なども大きな被害を受けている。それも記されている。
 このように「小諸洪水流失改帳の写」は、「戌の満水」による小諸町を中心とした被害状況、その後の復興の取り組みなどを詳細に記した貴重な記録といえる。
 「寛保二年大洪水余録」(小山隆司家所蔵)は、「戌の満水」の前年に浅間山の法印坊沢に山ごもりした僧を小諸藩が退去させた際に、僧が「三年の内に太田の家に不思議みすべし」と、山ごもりすることに問題はないとした小諸藩役人への恨みごとを言い残して立ち去ったことをはじめ、その後の「戌の満水」にいたるまでの天変地異などを記している。おそらく未曾有の災害であった「戌の満水」に遭遇して、それにつながる兆候を調べたものと思われる。
 そして、後半には法印坊沢より「蛇水」が押し寄せて与良大橋を破壊したこと、松井川などが城下の田畑を損壊したこと、小諸藩役人が被災状況を見分し、さらに幕府役人が見分したこと、などが記されている。この史料は、江戸時代の庶民の心意をうかがわせるものともいえよう。