NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

■むしくら日記 [翻刻] 4巻 貞 

 
むしくら日記 貞      画像1
 
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○変死亡霊冥福のため於妻女山施餓鬼せよと
長国寺へ命せられぬ、施物白銀五枚白米二俵を引
給ふ、四月廿八日彼山に於て北へ向て執行せられぬ、場
所の構は四方へ御紋の幕打廻し、方丈の座ハ一
段高くむらさきの幕にて打かこひ、前に大卒塔婆を
一夲たて、其前に施餓鬼棚をかまひ、五色の紙旙
立たり、公事方勘定役の者麻上下にて出座し、
制の同心も数多出たり、御城土堤にて目鏡もて見るニ、
夥しき参詣にて、昼比より蟻の群かりたる如く也し、
二三千人も寄集りしと思はるゝ也、死失の者一人へ
塔婆一本つゝを給はりぬ、御普請方にて経木もて三千
 
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余本調し出たり、妻女山済て後、大塔婆を赤坂の船
場へ立、流れ灌頂とかいふ事を行れたり、是へも方丈
自ら行て回向ありぬ、兼て御郡中御預所迄もふれ
示したる事故、余程遠方よりも人出しといふ、
大英寺も妻女山にて施餓鬼せんと申立ぬ、こは寺
賄にて御施物なし、端午に執行しぬ、触下凡八十僧
ほと集め、賑々しく行導抔云式等もあり、旙なとも
長国寺よりハよほと多かりし、式書一覧せよとこされ
し也、此時も在町御預所へ触示したる上に、日柄といひ
取分群集して、長国寺の施餓鬼の時よりよほと人多
く出しと思はれぬ、大塔婆ハ市村河原へ建られぬ、
 
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扨また在町寺々へも勝手次第法会せよと公事方より
触出させぬ、仍而五ヶ寺七ヶ寺十ヶ寺つゝ組合て、最寄
の山々或妻女山或寺尾山にても修行せし、又寺ニて
さま/\の法会修行せしも有し、妻女山ニて執行
の度々土堤にて見しニ、長国寺・大英寺の外御郡中
触示しなき故、僅の参詣みへたるのみ也、
○前にも云如く御城下に火災なきは実 君上の御徳
によれり、御領分にハよほとあれと、其内後丁と三輪
とハ善光寺の類焼なり、十軒上条村、九十八軒新町
村、二軒久木村、二十軒外鹿谷村、三軒下越道村、七
軒花尾村、二軒南牧村、四軒吐唄村、二十七軒後
 
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丁村、三軒妻科村、四軒安庭村、二軒入山村、七軒
鬼無里村、二軒日影村、十五軒広瀬村、二軒小鍋
村、二軒橋橋(ママ)村、一軒中条村、四十六軒三輪村、〆
二百五十七軒、其外に臥雲院等あり、
○中村仲多公事方勘定役水練の妙手也、新町辺水湛
見極として公事方よりこせしに、松夲より下り居たる通船
をやとひ乗廻り、所々に縄を下水底を捜りけるか、
何れの辺にての事なるか、此辺水底水急にして縄に
てはかり難し、我等飛入て見極来らんと云しに、水主
是を聞てうそくり笑ふさま也、仲多頓て裸ニなり飛入、
水底に入暫くして浮上り、船に戻りけるか、是よりして
 
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殊の外敬ひけるとそ、一同に行し者いかにも快き事にて
ありしと語りしと聞り、
○鹿谷村水湛御届
  私領分信州更級郡鹿谷村并日名村分地、
  松平丹波守領分境高地川与申山沢、当三月廿
  四日夜大地震以来度々強震有之、追々山々
  抜崩、右沢水数ヶ所湛留候旨訴出候付、早速
  見分差出候処、水上之儀ハ是か為ニ通路差支候付、
  早速切開方申付候へ共、右鹿谷村之内岩下組
  分地字大ばん之山抜崩、右沢水湛留候処、当
 
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  時之水面より高五間程、敷五十間余押埋、右川
  下四町程相隔、日名村之内祖室組分地字
  伝行山并沢向西山手丹波守領分左右村分
  地一同抜崩、右沢敷二丁程高六間程押埋候ニ付、
  堀割方申付度処、山奥嶮岨之道路抜覆
  数ヶ所有之、漸一歩通ニ而罷越候次第、殊ニ巌石押
  埋候儀ニ有之不行届、押埋場所一時ニ致破壊、一
  時ニ押出候節者犀川江流出山中筋川添村々ハ
  勿論、川中嶋之儀者此程御届申上候通、川除土
  堤不残流候儀ニ有之候得者、尚又如何様之水害ニ
  及可申哉難計心痛仕、此上之手充精々申付
 
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  置候、且又右鹿谷村分字荒間沢与申谷川江
  同村之内字柳窪之耕地崩出、右谷川湛留、
  尤細流ニ候得共数十日を経右場所押破候は、
  是又不容易災害二可有之旨訴出候付、早速
  見分差出申候、尚委細之儀者追々可申上候得共、
  先此段御届申上候、以上、
 
   五月朔日   御名
 
○国役御普請御願
 
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  私領内信濃国埴科郡・水内郡・更級郡・高井
  郡之内千曲川・犀川、寛保二戊年洪水ニ而、城地
  損壊領内荒所多罷成、其後明和二酉年猶亦洪
  水ニ而損亡夥敷、明和五子年奉願国役御普請
  被成下候以来、文政三辰年迄都合六ヶ度国役御普請
  被成下、漸相防罷在候処、同七申年大満水ニ而御普請
  所及大破候付、奉願見分は有之候得共、折節万石以上
  国役御普請被成下間敷旨被仰出候付、其以来無拠
  手普請ニ而相凌罷在候処、当未三月廿四日夜大地震
  ニ而、更級郡山平林之内岩倉山抜崩犀川押埋、
  流水堰留及数日候間、水嵩二十丈余相湛、川上
 
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  数十ヶ村水中ニ相成候次第ニ付、右堰留之場押破候者、
  川下村々何様之変地出来可申哉難計、加之、右川筋
  山合より押出口水内郡小市村之上字真神山抜崩、
  川式九分通押埋候付、其儘差置候而ハ聊之水ニ而も
  川中嶋へ押込ミ、大患相成候間、右掘取方并年々普請仕
  置候川除土堤へ、石俵或ハ材木等積立、数千之人夫
  を以精力を尽し致普請候処、堰留之場先月十三日
  夕一時ニ押破、小市村辺水嵩六丈四五尺ニも及候次第
  ニ而、先年被成下候犀川筋御普請所は勿論、積年致
  丹精候川除類并此度俄ニ急難為防普請申
  付候場所迄不残押払、民家流失夥敷、田畑押
 
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  掘或ハ大石土砂押入、或ハ石河原与相成、如何共無致方
  心痛至極御坐候得共、御料所他領打交居候場所ニ而、
  用水井筋も悉皆損所有之上、洪水ニ而犀川懸用水
  揚口惣而致滅却、田水者は勿論、呑水ニも差支候付、川
  中島用水揚口急難除普請之儀ハ先極之通、如何
  様ニも自普請可申付候得共、犀川・千曲川領内普請
  所延長四万八百四拾三間余有之、莫太之普請所、
  自力ニ及兼、就中丹波嶋宿之儀は北国往還筋ニ候処、
  人家流失も多分有之、一宿不残四五尺程之泥入、并
  北国脇往還川田・福嶋両宿、是又丹波嶋宿同様
  泥入ニ而、佐州御用等を始、往来之差支ニも可相成、
 
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  其外亡所ニも可相成程之村数多有之、川除之分
  は前条之通、不残押流候ニ付、両岸之形を失、大石土
  砂押入候耕地石河原与相変、川式与致混同、水行
  乱瀬ニ相成、此上少々之出水有之候而も何れへ本瀬相向
  可申哉、領分は勿論御料他領共如何様之変化損地も
  難計、尋常之普請ニ而は当坐之防ニも相成間敷、元
  来領内土地狭之上永荒所多、尤明和度申上候節ハ
  永荒所四万石余ニ御坐候処、文政三辰年迄度々国
  役御普請被成下候以来、多年水旱之損毛ハ有之候へ共、
  追々手段を以取復永荒高相減、当時二万三千石
  余ニ相成、全御厚恩故与難有仕合奉存候処、此度之
 
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  地震洪水共前代未聞之大変ニ而、明和度ニ弥増永荒
  所ニも可相成与歎息仕、右ニ付而者種々手段仕候得共、莫
  太之川除、実自力難及当惑心痛仕候、併国役御
  普請之儀者文政年中被仰出も御坐候儀恐入候得共、
  未曽有之天災ニ而、前々国役御普請奉願候水患之
  類ニ無御坐候、尤此度拝借金奉願、領内一統山里村々
  災害軽重ニ寄、夫々手当筋取計取続方可申付儀与
  奉存候処、尚又国役御普請奉願候は重々恐入候得共、
  再度之大変災、殊ニ広太之川除普請迚も難及自
  力、必至与難渋仕候、御時節柄恐入候得共、前断之仕合ニ付、
  享保以来被仰出之国役御普請之御例ニ不拘、出
 
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  格之御慈評を以犀川両岸并右落合尻千曲川
  筋何分も御普請被成下候様奉願候、以上、
   五月朔日   御名
 
○岩下革が話に、新町近辺の者地震の夜鱒とらんとて、
橋より余程上の涯へ兄弟にて下り、弟ハ畚にはいりて
鱒の上るをねらい、兄ハ暫し休息せんとて洞穴の中
に入て眠り居しか、高浪洞中ニ打入足を浸せしかは、
何事なるやと驚き覚けるに、頻リニ強く震ひけるまゝ、
扨ハ地震なるよ、弟ハ水底に落けん、不便やと、そろ/\
洞中を這出けるに、又一揺大造ニ震ける時、かの弟洞中
 
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へ高浪に打入られける、いかにと問は、初の大揺に畚の縄き
れて水中ニ落入けるか、又一揺震て此洞中ニ打入られ、
不思義(ママ)ニ相逢ふ事を得たりと歓、やかて這出て、二人
つゝかなく戻りしと也、又一人ハ七十二になる老人、是ハ
年来鱒とりて業としけるか、橋より下の方ニて畚に
下りて有しか、縄きれて落、八九間も流れける時、大ゆり
ありて足場能所へ付けるまゝ、からく命助かれりとそ、
いさゐに書付越なんと云しか、其翌々日より痢病ニて
打臥、なき人の数に入ける、むさんなる事也、
○新町の塩野入久右衛門[善光寺ニて焼死しぬ、]紺屋町の政吉か元へ
来りて語りしハ、二月比より水内橋鳴動すると取沙汰
 
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しける、初の内ハ何事をいふやと云居しか、次第に其沙汰有、
後ハ夜昼となく鳴さたあり、村の者等、是は貉のわるさ
して人を驚かすならんと云て、橋の近辺谷々隈々
貉狩して残りなく捜せしかと、小貉の一ッもとらいさ
りし、何故斯橋の鳴動するや心得難き事也と申
たりしとそ、
○前兆ハある事也、三月十三日の事と覚し、日中に御城
より退る時仰きみれは、日輪の下ニ《ヨミ不明》の如く五色ニ
一の字を引り、誰も渠も見しか、何故なるをしらす、長
雨の兆ならんか抔云しか、地震の兆とハしらさりけり、
又去秋の大風に表御居間のみとり松折レたり、是ハ
 
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大鋒公の御鉢木也と、九扈亭記にもある如く、
御代々分て御秘蔵ありしか、此木のみ折レたるハいか
にも心懸りの事と密ニ語り合し事も有しか、これも
前兆と思はるゝ也、又三月十九日ニ石川山何となく抜覆
ける、是ハ年々山中ニハ雪時の時抜覆る事あり、其覆り
にてあらんと申ける者もありしか、此日比も専ら発出
の気ありて抜覆りし物ならんと思はるゝ也、又日影
・鬼無里の辺にてハ去冬比よりトン/\と鳴音しける
とそ、
○地震三日計の内ハ烏雀の啼音を聞す、鶏時を
定めす謡ひ呼、時を作りたるも妻抔度々聞しと云、
 
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○流失の家、御領中にて千八十一軒、押埋の家三百十
七軒、押埋の上流失七軒、水押潰九軒、半分流失七
軒也、
○会津侯御届
   山抜崩川筋押埋水湛之儀ニ付先御届書
              松平肥後守
                御預所
  越後国魚沼郡中津川之儀、御預所同郡芦ヶ崎
  村下ニ而千曲川江落合申候処、右中津川水源川
  上金吾助様御支配所信州高井郡秋山之内、湯本
  分字白倉山去月十四日夜、凡高六十間程幅
 
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  五百聞程抜崩中津川江押出、川中高三百間程
  〆切、追々水湛溜長一里程幅二丁程深五百間程も可
  有之、右〆切内地窪之処或大木大石之間より当時流出
  候得共、湛水減水不致、大木共夥敷岩石一同ニ崩
  落候得共、此後大風雨ニ而も有之、一時ニ押払候は右川縁
  村々家居無覚束、勿論田畑不残押流亡所ニも
  相到り、如何様之異変出来可申も難計、御預所川付
  村々甚以心配罷在、依而川縁江堤築立或ハ諸色高
  場へ運送り、専用心罷在候旨追々注進申出候間、先此
  段御届申上候様地所より申越候ニ付御届申上候、以上、
               松平肥後守内
 
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   未五月          鈴木左兵衛
 
此中津川山抜の場所ハ当御領分界にて中野県令の
御支配ニあらす、故ニ同所より御届みへす、沓野村より此湛の
事訴出たり[沓野村より十里余もあるへし、]
○御近領異変書上
   飯山御城下
御家中并御城下町地震潰之上、出火にて半丁程町家残、
其余焼失、死失三百人程有之、其上地形七尺程高く相成
候由、御城裏御門ハ立居、表御門・御櫓・御囲塀等不残揺潰し候、
御住居向も御広間地形二丈程も窪く地底へ揺込候と申儀ニ
 
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御坐候、御領内惣村数六十四ヶ村有之候得共、一村ニ而も無難之
村方無之、潰家半潰家ニ而二千五百軒ニ及ひ候由、死失人も
町家村方ニ而千三百三十三人有之由、御家中男女死五十三人有
之由、右之内焼失夲多助之進・田中源左衛門両家を初性(ママ)名不
知候者も有之、一統御手充ハ夲潰へ金壱分ツヽ、半潰ヘ一朱之割
ニて被下候由、右之内吉村与申村方ハ山抜押埋り四十軒、地
震潰三十軒、死失百四十人余有之、押埋りへハ壱軒三分宛
被下、其上拝借金七十両被成下候由、
表御高ハ二万石ニ候へ共、御増高も有之候哉、一統申唱ニも三
万四五千石も有之、内いも川堰与申処水上より流尻迄七里
余も有之候由、右堰を地震之節所々欠崩れ水道絶、是迄
 
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一万石余も田用水ニ相用来候処抜埋り、無拠当秋毛ハ山地
一万石余之処ニ而漸三分通り仕付ニ相成候由、其外川辺八ヶ村
ニ而田地床違ニ相成候場所二分余も仕付相成兼候由、[川辺八ヶ村
ニて万石余有之由、]
殿様当月九日御帰城之処、御住居向大損ニ付、仮御殿御普
請ニ付、御領内諸職人御呼上ニ成、飯山表大混雑仕候由、
   椎谷御領
問御所村其外六川近辺御領へ、夲潰へ金五両ツヽ半潰へ金
二両弐歩ツヽ被下候由、其外寺院酒造渡世ニ而是迄御用立候
者共江者金七両弐分被下候由、尤地震潰ハ格別多無之趣、
乍去御高柄ニハ多分之御手充等被下、夫食御救方も厚く
 
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御世話被成下候儀、一統之唱悉宜御坐候由、尤夫食之儀善
光寺焼失之砌ハ穀物売買無之候処、問御所村ニ而八百文
ニ付壱合安之米暫之間売候由、
   須坂御領
綿内村三千石ニ而家数七百軒余有之由、五百軒程水入ニ相成、
流失十五六軒有之、最初ハ流失水入人別へ焚出し御救被下
候而已ニ而、金子御手充無御坐候由、漸当月初旬ニ相成、流失者
共江者金弐両三分弐朱ツヽ被下候由、水押半押ニ而も極難之者
共候江者矢張本潰同様被下候由、手元可也ニ而、水押半潰之者へハ
弐両ツヽ、家居流潰無之候而も水先へ懸り、凌ニ難渋致し候者へハ
金壱両被下、一通り之水入人別へハ金弐歩ツヽ被下候由、右之内土屋坊村
 
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小兵衛与申者親子三人流死ニ付、此者ヘハ金七両弐分被下候由
ニ御座候、綿内村外ニ水入候村方五ヶ村有之由、右五ヶ村ハ一
通り之水入ニ相成候故、金弐分ツヽ被下候由、五ヶ村ニ而ハ凡二千
石程も可有之様子之由、
   中野御支配
地震潰村々多有之、中ニも北国往還牟礼・野尻・古間・
柏原等宿場之事故、御手充拝借外並方より多分之由、尤駅場
ニ付而ハ往来差支候程之儀故、一通り潰村々へハ壱軒ニ付
金壱両之当り位之由、尤川西・川東村々ニ寄潰之上水災
ニ逢候分へハ、壱両より少余分候由、尤年賦拝借として銘々証
文を差出、役人共受判致し差出候上、金子村役人へ御渡
 
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相成候よし、委細之儀ハ云々
    六月
○稲荷山米や[田中友之丞、]囲穀を焼失せし米俵紫色に
焼て、至て見事の物也、籾ハ真白ニやけて、角ト石抔を
打砕キたるものゝことし、佐久間修理か云るハ、籾のやけ
たると角卜石ト性同物也と云り、
○山中にて数日水中へ入しよりこと赤豆と、道橋奉行
助高野車之助持参せしか、よりこも赤豆も用ニ立といふ、
川中嶋にて水中へ入しよりこつむぬき抔は用立す、水の
清濁によれるか、
○山寺源太夫山中巡村の時、山穂苅村にて見しハ、大岩割、
 
  (改頁)
 
中悉くはまくり・さゝゐ類の貝石也、少し持参せしを見
しか、今迄も山中より出る貝石と同物也、悉くある事とみへ
たり、佐久間修理か説に、前世界の物也と、[全世界はいまた国の開けさる已前を云、]
又所々より埋れ木も多く出し、いつ比か抜覆りたる時に
埋りたるものとみへたり、北郷村よりも大ナル埋木出たり、
神代杉の色の如く也、
○水湛御届
  先達而先御届申上候私領分信州更級郡
  山平林之内岩倉山抜崩、犀川湛留之場所、四
  月十三日夕一時ニ押破、川中嶋一円之洪水相成候
  付、川上者追々常水ニも相復可申哉ニ奉存候処、
 
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  岩石多分残候故、存外不致減水、今以常水
  よりは五丈余も相湛居、川添村々地窪之場所
  は、居家耕地共水中ニ相成居、其上右川筋所々
  之山抜ニ而石砂押埋候与相見、山中筋より川中嶋辺
  一統川床高く罷成難渋之次第、且先般先御届
  申上候同郡鹿谷村・日名村、分地松平丹波守領
  分境高地与申山沢両岸抜崩、沢水湛留候ニ付、
  右押埋之場所深サ弐丈程為掘割候得共、其以下
  ニ至候而者掘割候ニ順、両岸之土石崩埋候故、何分
  掘割方不行届候処、追々水嵩相増、去月廿八日朝
  右堀割候場より水乗流付候へ共、此上自然も一時ニ押
 
  (改頁)
 
  破、犀川江押出候節は、前条之通未水湛居候上之
  儀ニ付、猶又右川辺村々如何様之水害ニ及可申哉、
  一統恐怖罷在、甚以心痛仕候、并右鹿谷村地内字
  荒間沢与申谷川江、同村之内字柳窪組之耕
  地崩出、右谷川湛留候儀も先般先御届申上、
  其砌見分差出候処、広大之場所抜崩ニ而、迚も掘割
  手段無御坐、無拠其儘差置候儀ニ御坐候、且又水内郡
  煤花川水上同郡日影村之内字岩下組地内追々
  抜崩、右川筋三町程押埋、当時之水嵩川上江
  二十丁川巾四丁深サ十八丈程水湛ニ相成、右川向鬼
  無里村之内川浦組居家九軒次第ニ水入ニ相成、
 
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  尤巌石押埋候付、最初より洩水も有之、其上此節
  窪き場所は水乗候間、容易ニ押破候儀は有之
  間敷候得共、万一強雨等之節水勢ニ寄候而ハ何共
  難計、然時者犀川下筋へ押出、是又如何様之
  水害ニ及可申哉、其外山沢追々抜崩、水湛数
  十ヶ所有之、是以強雨等ニ而押破候節、何れも犀
  川江押出候儀ニ而何様之水災可有之も難計心
  痛至極奉存候、依之掘割方手配精々申付置候
  候(ママ)得共、猶又先御届申上候、以上、
   六月七日        御名
 
  (改頁)
 
○新町の脇へ出る大田川堰留ハ高野車之助懸りにて
掘割たり、能程に水のりて忽チ押破りしと云、水のり
初めし時、俵の如キ大岩幾ツとなく流れ出しか、其時の
人足共事共せすして立働きし、いかにも能勢ニて有し
と語れり、
○上田御領中嶋村才吉来りて語りけるハ、鼠宿村の
向岩鼻悉く崩れ落て往来留り、大聖寺侯も
西山手を御通行にて上田へ御出あり、其後道普請追
々出来し、とても大岩を片付る事なり難き故、土を
多く荷ひて岩間/\を埋め、漸く普請成就し
けると申侍りき、
 
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○猿か馬場峠の火打石の茶屋ハ、火打石にて助
かれりとそ、地震の時上の山崩れ落かゝりけるか、
火打石に突当左右へわかれてなたれける故、家ニは
別条なかりしとそ、
○我知行若宮村芝原組の阿弥陀堂のうら山
抜崩れて、阿弥陀堂裏へ六尺程も突付、村方ニて
人足を出し取片付けるか、地震毎ニ崩れて、後ニハ
村方ニ手ニ及す、見分を受て防き留たりと云、尤地所
には障りなし、却て此辺平常より清水多く湧出て、
後々ハ都合もよからんかと、道橋方同心徳左衛門[予か御預同心忠太か後見、]
見分に出しとて語れり、
 
  (改頁)
 
○村々へ被下御手充、居家押埋、潰焼失、潰流失、流水、水押
潰、半分流失、半潰之上焼失、此者共へ金三分ツヽ、水押潰金
弐分弐朱ツヽ、潰、水災半潰、居家水入之上屋根計焼失、土蔵
計流失金弐分ツヽ、半潰、数日水入、浮上土台違之類金壱分
ツヽ、床上水入金弐朱ツヽ、穢多ハ都而半減、是ニても当人へ取
てハ僅の様なれとも、在町とも金高夥しき事也、此外ニ
極難の者、或鰥寡孤独の類への手充、或麦作取入迄の
夫食手充、或農業代拝借等ニ至る迄限りもなき事共也、
然れは御情の程他領迄も響き渡りて唱能、御下
に住ん事を願ふ他領の村々多しと聞り、中野県令抔
も御手充行届たる事を殊の外称美して、山寺源太夫への
 
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書簡に申こされたり、又川辺見分の御勘定衆御普請役
なとも殊の外御手能届きたりと御褒申せしと云、江戸
にての取さたも甚よかりしと聞り、
○廿四日の地震当国かもとニて、其先国々へはひこりて、
京大坂より西ハしらす、其他ハ揺さる処なきとみへたり、
京花園大法院よりの来状ニ、廿四日夜四ッ比に地震あ
り、いかにも長く覚、是ハ遠国の大地震の響ならんと噂
申せしか、御国元とハ思さりきと申越しぬ、紀州抔も同様
位の事と云、江戸ハ並方の地震より余程強かりしとそ、然
れとも棚の物を打落す程の事にてハあらさりしとそ、
○江戸にてハ四月の初にハはや読売にして、後にハ錦
 
  (改頁)
 
絵抔にも出し、けん抔にも作りて殊の外流行したりとそ、
公義より厳度御停止ありて、読売も錦画も後にハ止
たりしと云、川中嶋の内にても[塩崎領]地震潰水押抔
部分にしたる絵画売たり、人の持居たるを借見しか、
山中辺抔大に違たる所も有し、江戸にての売売(ママ)は予も
一枚手ニ入たり、京大坂にても四月め初比より読売し
たりと、山田嶋寅より申こせし、
○磯田音門、中山中巡村の節、矢野茂立合ニ行し帰の後
書上摘要す、
  茂菅村[家数四十一軒人数二百人程]
半潰一軒、変死一人善光寺町にて死失の旨、善光寺領朝日山
 
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抜所甚多、岩石も抜落候へ共、煤花川迄抜落堰留候迄ニハ無
御坐候、茂菅より小鍋村道筋往来之橋上小鍋村之方より山
抜崩、煤花川堰留、一旦水湛候処、村方より人夫出し不日ニ
掘割候故、川上ニ格別水難無之相済候旨、尤右川中へ抜
落掘割候場所ハ、川形十二三間程横巾四五間程高サ
二丈余之由、一村のみ之人数ニ而掘割候故骨折候由、右往来
橋ハ普請無之、小船ニ而通用仕居候、無程仮橋出来候趣ニ御座候、
同村へ之取付善光寺脇腰村辺より山手へ登り茂菅村分地之
山崩、是迄之往還道抜落候付、後の方山道廻り候へハ余程之
廻りニ而、善光寺へ之往来難義之旨、茂菅一村申合、右抜場へ
新道造り仕候、凡五六丁程之間ニ而、至て嶮岨之処多く、岩石抜
 
  (改頁)
 
落候も有之、一足通ニ而馬足立兼、往々御普請無之ハ成間敷と
同村之者申聞候、当村ハ荒所潰家等も少候へ共、川筋掘割、山
道造ニて骨折之処、早速行届候旨を以音門褒詞仕候、
同村後之方坂登り、静松寺左手之方、岩石抜落道塞候場
有之、道形付候様子、此坂八分目程之処山上より大岩落、道筋
無之処も人夫出し切開、往還付置候へ共、往々ハ右道巾ニ而は
牛馬通用相成間敷由、
   鑪村[家数十五軒人数七十人]
十三軒潰、三人死失候旨、同村分地茂菅村より坂登り切候処より、
同村居家之辺迄大抜、畑方二十三石余田方も余程有之、
抜下ハにこり沢与申細流有之、川向ハ桜村分地ニ御坐候処、一円
 
  (改頁)      画像20
 
押崩、一旦川水湛留候処、其砌水井忠蔵廻村向ニ而、村方へ申
含掘割為仕候由、当時流先差支無之様相見候、尤右は格別ノ
掘割場ニハ無之様相見候、一躰小村皆潰同様、田畑も多抜候故、
余程難渋之様ニ相見、其上用水一向無之、田方辺も当年植
付出来兼候旨、且呑水も井戸ニヶ所程有之相用居候処、
一ヶ所ハ一向出水無之、一ヶ所濁り水ニ成迷惑仕候得共、無
余義右を呑居、沢辺より出候水も水口留り、四五丁下より出候
水を無余義相用、若此儘水出不申候ハゝ住居相成間敷与所
之者申聞、
   桜村 家数五十軒
      人数二百八十人
潰家二十二軒、死失十人、田畑居切多く、抜覆の場も有之候、
 
  (改頁)
 
田水ハ上ヶ屋村分地より水道普請候ハゝ植付可也出来可申旨、其
外先別段之儀も無之、此村ニ両親圧死、子供五人別家之方
へ引取候、郡方ニて申立、別段御手充被下、右子供預り候長蔵与申
者呼出、養育方音門申含候、長蔵義、高十一石余所持、勝手も
地廻り与申位貞実者与見受候
   泉平村[家数二十五軒人数百四十人]
潰家六軒、死失三人之旨、右村ハ遠見而已、罷越不申候、村脇之
山抜四十石余之場ニて、鑪村抜所より多相見候、多分畑方ニ御座候、
抜下ニ田も有之由候得共、水懸之場抜落候故、植付出来兼候由、
呑水ハ地震已来多出候旨、
   上屋村[家数百三十軒]
 
  (改頁)      画像21
 
潰家二十軒、半潰二十軒、死人八人之旨、山抜場所分地之内
所々御坐候へ共、大抜ハ無御坐候、用水抜崩候付、堰筋等普請仕、大
凡出来上り、可也田植付も出来可申旨、枝村グンダリ組悉ク傷
寒ニ而難渋之趣郡方申上、御医師等被下、小や懸等上屋本郷より
厚世話仕候、本郷より凡半道も有之由、
   広瀬村 家数百軒程
       人数五百人余
焼失[潰之上]、十五軒、潰十軒、押潰八軒、半潰十五軒、上組モス原と
申処耕地大抜、抜候所之家焼失又ハ押埋ニ成、此上右場所ニハ
家作難出来、右抜所より少し上之方山陰ニ余程之平地有之、
名所小グンダリと申候、右平地へ材木伐取、追々家作致し度と
郡方へ申立候、右モス原抜場追而ハ耕地ニも可相成与見受申候、
 
  (改頁)
 
同村分地へ取付候グンダリと申場所、余程広キ田ニ御座候、後之
方鬼無里往来ニて、戸隠へ出候道筋之方より山抜落、泥石
等多く、無役夲田二十石新田十石余も押候旨、尤無難之
耕地も御坐候へ共、水口相変早速用立不申旨、
同村元組隣村上ヶ屋村分地之内、立屋与申処より耕地莫太
ニ抜落、何か作り入も仕置処、是迄持地之分分り兼、境立ニても
仕度候所、申談不行届、御勘定所へ見分願出候へ共、莫太之
抜所ニて、差向見分候共致方無之事ニ付、いか様共熟談、造り入
可成分ハ早速蒔付候様、泊へ迄も呼出精々郡方申渡候、
同村佐十郎、常々難渋者之処、幼年之子共有之、此度女房
圧死、弥以極窮ニ付、郡方より御手充被下取計候、
 
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同村弥吉グンダリヘ出張、揚酒商売致し居候処、山抜ニて
居家押埋め、子供三人を連漸迯出し候体故、衣類夫食
一切無之、酒商売致し居候故、麦作も仕付不致候由、女房ハ去
年死去、親子四人必支と難渋の旨、
同村大抜所ハ有之候へ共、耕地無難之場所も余程相見へ、田方
仕付も相初め候処も御座候、
   入山村 清水組  影山組 家数二百軒程
       犬飼組      人数九百人程
焼失潰ニて四十軒程、死失廿人程、田畑格別之抜覆も無之、
先此辺ニてハよほと荒少所相見へ、田方仕付初め候場所も御坐候、
同村之内篠窪与申処、家数二十軒程ニ候処、水口変し呑水
も一向無之、遠方より汲取候由、道橋方手付見分ニ進候処、水口之処
 
  (改頁)
 
抜覆、此上三百間も不掘割候へハ難用立、不容易普請故、此上
見込を付願立候様ニと申含候旨、右手附より音門へ申立候旨、
右村より飯縄原神領境迄ハ格別抜所無之、尤田畑も多ハ
無御坐候、
飯縄原見渡し候処、神領之方抜所居切等も余りみへ不申
   栃原村 平組 家数二百二十軒
       西条組 人数千人余
右村余程之平地ニて、山抜之患も無之場所与見受申候、尤西
条組ハ少々山手へ寄候へ共、居切等も相見へ不申候、潰八軒、半
潰十五軒も有之、三人死失之旨、田方仕付も専ら仕居候、
   志垣村 家数六十軒
       人数三百六十人
潰六軒、半潰八軒、死失一人、
 
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   追通村
右村辺、志垣辺と同様荒所も無御坐、潰家も無御座候旨、
毎年紙漉売出し、多分善光寺より買人参候処、変災ニて
買人無之迷惑之旨、右紙ハ善光寺より越後筋へ付出し候旨、
下祖山・志垣・栃原当村等ニてハ毎年七八百両、年ニより千
両程も金子入候由、
   上祖山村 家数百十二軒
        人数五百二十人余
押埋一軒、潰二軒、半潰二十二軒、四人死失、右村之内ゾ
ガ川組、山ノ半腹ニ四五軒有之、本郷より余程はなれ居候、地震
以来折々石落住居難相成、住居替之事申出候へ共、役元ニて
申含置引取候へ共、今以石落迷惑之由、
 
  (改頁)
 
   下祖山村
上祖山同様格別抜所も無之、田畑共無事ニ御座候、同村之内
ヤハズ山抜覆菖蒲沢へ押出し、煤花川迄崩落候処、高サ
凡二十丁程も可有之相見へ、家数十三軒程押埋、家内絶切候
家四軒程御座候旨、楽真院与申寺一ヶ寺押埋、大木大石等
押下し候へ共、田畑損所ハ僅ニ御座候、此処ニて煤花川押留、川
向ハ神領下ニレ木村与申小村ニて、押埋候家も有之由、半日程
堰留候へ共、押破り、川筋差支無御坐候様子ニ御座候、
同村の内壺山組ハ山之半腹ニ御座候処、他村へ出候ニは難所居切
等多く、至而迷惑之由、
   小鍋村 千木組 中 組  家数百五十軒
       国見組      人数九百人余
 
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押埋二軒、潰三十軒、半潰六軒、十八人死失御坐候旨、千
木組ハ平地ニて、格別抜所居切も無御坐候、田畑も先無難之様子、
中組ハ居家近辺抜所数多有之、潰家も多く、一体片下り之
土地ニて、田畑損所も多く御座候、国見組ハ抜所も多く候へ共、格別之
事も無之処、煤花川添ニ見へ候下小鍋村後山より抜崩れ、田畑居
家共押埋メ至而荒所多御さ候、且茂菅村へ之往還毎年検見
通行道多く抜落、沢辺近辺至而難場多く、一足踏外し候へハ
谷底へ落、殊ニ居切も多く往来甚難儀、外ニ道筋ニ可致場
所も無之、此上牛馬通路如何可致哉与申居候
   山田中村 上組 家数百軒程
        下組 人数五百人程
押埋三十九軒、潰十三軒、半潰十軒、死失五十人之旨、兼而
 
  (改頁)
 
承及候より目ニ余り候抜崩ニて、耕地凡三分一ハ残り不申候由、抜上より
深沢迄押埋凡十五六丁も可有之哉、横巾広キ所ハ四五丁も御坐候様
見へ候得共、広場之儀相分り兼候旨、村方之者申聞候、抜所中程
所々ニ麦畑も見へ、虎班之様ニ相成、潰家も所々ニ片端計ハみへ、
抜下沢辺之処ニ居家多崩レ有之候、此所迄抜落なから
屋根之上へ登り居候女共、夜明迄念仏申居、翌朝助ヶ被出候旨、
此抜場中程より余程下之方、道筋之形一足通ひニ付置、此度
通行仕候、足場ハ悪敷候へ共、抜跡故怖ろ敷儀ハ無御坐、岩石
も余り無之、追々ハ耕地ニ可相成与村方之者申聞候、
   宮野尾村 家数百軒余
        人数五百人余
潰焼失三軒、潰三十軒余、半潰十五軒、死失十人、上組之方
 
  (改頁)      画像25
 
ハ抜所も候へ共、耕地格別損し候程之処無御坐、下組之方ハ
抜所数多有之、田畑損所も多く御坐候旨、同村保玉組ハ犀川
岸ニ御坐候処、分地も少々押流し候様子、且隣村へ罷越候道筋も
至て難所ニ成、追々余程之道普請不仕候へハ難相成旨、
   坪根村 家数六十一軒
       人数三百八十人
此村後ロニ飯縄山と申高山有之、右山より抜落沢々へ押下し、田
畑損所も多、押埋二軒、潰三十五軒、半潰十六軒程御坐候由、
立居候家六七軒有之、格別之大荒所ハ無御坐、死失も十人程
御座候由、
   倉並村 家数四十一軒
       人数二百二十余人
押埋二十二軒、潰十一軒、半潰六軒、死失六十人、此村ハ山上
 
  (改頁)
 
より一時ニ大岩等押懸候与みへ、居家其外跡形も無御坐候、山田中等
抜落ハ順押ニ押下し候へ共、此処ハ大ニ様子致相違候、右故中々
耕地ニ相成兼候様ニ見受申候、抜所見積りも出来兼候得とも、凡
長サ十二三丁横三四丁も可有之候、抜所之下ニ家数五六軒も
残り住居仕居候、右居家押埋或潰候者共、抜所より三四丁
下、瀬脇村分地之内を借受、小屋掛致し居候旨、往々も右場所
かり受住居ニ致し候より外無之旨、尤水無之、瀬脇村分地之内外ニ
水道も有之趣ニ付、道橋方手付見分之上御勘定役ニて申含、其上
村方ニ而申談候趣ニ候へ共、当節右水道普請等力不及旨申居候
得共、可成丈相励候様申含候、抜所之外ニも耕地も余程相見へ、
麦作も損し候様ニも無之、田方も仕付候も相見へ候、乍去麦作
 
  (改頁)      画像26
 
取入候ても僅之儀、御救頂戴も残少ニ成、人気励無之相見へ
申候、抜所之上ニも居切有之、此上も右より崩れ落可申と
あやふみ罷在候趣ニ御さ候、
   五十平村 家数六十八軒
        人数三百四十人余
潰三十軒、半潰六軒、死失十人之由、大抜場ハ無御坐候へとも
所々少々宛抜崩、田畑も損所多く居家之辺も居切多く、
居切之内へ入候て屋根計みへ候家も多有之、外村方ニて余り
見聞不仕候儀ニ御坐候、
   橋詰村 家数百六十軒
       人数八百人余
焼失一軒、潰六十軒、半潰六軒、四十人死失之旨ニ御坐候、
格別大抜所ハ無御坐候へとも、所々抜所多、取集め候ハゝ倉並村ニも
 
  (改頁)
 
劣申間布与申事ニ御座候、上組三十軒之処、皆潰ニて用水も
一向無之、呑水遠方より汲取、難渋の旨ニ御坐候、
   岩艸村 居家百五十軒
       人数七百人余
潰百五軒、半潰三十軒、死失五人、抜所も多く有之候得共、
大抜の場ハ無御坐候、
   念仏寺村 家数百三十軒
        人数七百人余
押埋三軒、潰八十五軒、半潰三十軒、死失三十人之旨、下組ハ
格別の抜所も無之様子、上組ハ岩艸村より続キ臥雲院迄之道筋
不残抜落、麦畑抜崩之処漸致往来候、
同村臥雲院寺地不残大穴ノ如く、杉立之処より一円ニ抜下り、
大門之敷石入口庭之形等格別変し候事無之、七八十軒も抜下り
 
  (改頁)      画像27
 
候様子、大門下之方田畑大抜下り、上組之村家も此処ニ溜り
居候由、其節皆々迯出し、大門下之畑中ニ集り火を焼居
候処、寺之方より黒キ牛之如キ者二ツ程下り通り候旨、いかなる
物ニ候哉、皆々大ニ恐怖仕候旨、是より下ハ深き沢ニ御座候処、
多分押埋り候ニ付、上組へ之水道塞り、大難渋仕候旨、此上水
道付候ニハ二三百間も普請不致候へハ難相成旨、右沢之向ニ
天神ノ宮御坐候、文明年中大内某与申者、京都より下り建立候
与申儀、右大内某之子孫当時も残り居、馬医渡世罷在候
旨、至て秘書所持之旨、決而人ニみせ候儀無御坐候旨、乍余事
相認申候、
   梅木村 家数百十軒
       人数六百人余
 
  (改頁)
 
押埋六軒、潰五十軒、半潰三十軒、死失七十人之旨、抜所
多く田畑荒所も数多ニ相見へ、尤道筋ハ格別大荒難所
等も無御座候、
   地京原村 家数百三十軒人数七百人余
        人数七百人余
押埋十軒、潰(ママ)死失八十人余之旨、虫倉ヶ岳八分め
程之処より抜崩、藤沢組之方ヘ一円ニ押落し、梅木分地へ
も懸り、大山の如ク築上候、其響キニ而か、横手谷ノ方へ尚又崩、
凡二十丁余も崩れ落候与相見へ候、谷下迄委細ニは不相分
候へ共、深谷を押埋候事ニ付、追而ハ耕地ニも可相成被存候場も
御座候、誠ニ一円野原之如ク道形も無之、大難所も御坐候、
同村蔵元組ハ藤沢組与裏表ニ成居候、是又余程之抜崩、
 
  (改頁)      画像28
 
耕地も多損し候様子ニ御座候、藤沢組ハ凡七八十石の場抜
落、三四十石ハ残り居可申哉与村内之者申聞候、蔵元組
ハ皆抜位(ママ)之由申聞候、
   伊折村 上組 家数百七十軒余
       中組 人数五百人余
押埋十七軒、潰十五軒、半潰十軒、死失九十人余、中
組之内太田与申処大抜之場ニて、村裏之山より大磐石砕
落候、凡十二三丁も押落し、横巾四五丁之間一円大磐石ニ而、
家数十軒程押埋、死失五十人程、死骸一向不相見候旨、右
抜崩多分大岩のみ故、耕地ニハ難相成様子、家之跡ニも
可有之哉与存候所へ石抔相並べ、誠ニ哀れ成体ニ御座候、右様之
場所ニてハ塔婆被下候故、殊之外難有かり建候様子ニ御座候、同組
 
  (改頁)
 
続キ清水組与申所後ロ之方一円之岩山所々居切、岩石
等畑中へ転ひ落、或落懸り候場も有之、居家ニ近キ場所故、
大ニ恐怖仕候処、大地震翌日右山手より流れ出候清水俄ニ濁り
流レ候ニ付、又々山抜候と申、老幼を抱キ抜所向ふ之山上へ迯
登り、十日程も集り居候由、右迯登り候山も至而危キ山ニて、
ろく/\平地無之、前後左右皆岩石ニ有之候、按(ママ)内之役人ニ
相尋候ハ、隣村へ成共平地へ迯参り候ハゝ可然処、此危キ場
所ニ居候ハ不了簡之事何故やと申候処、譬打潰され候とも
隣村之分地へ参りも致し兼候故之儀与申、いかニも殊勝なる
儀ニ御坐候、当時ハ居家へ戻居候へ共、右之通危キ場所故、外へ
居家移し候而ハ如何やと申聞せ候処、平地も随分可有之候得共、田畑
 
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ニ遠く弁利不宜抔申居候、今以夜分ハ小屋懸之内ニ寐候
者も有之趣ニ御坐候、
此村より和佐尾村へ越候山も抜崩、田畑損所も多、道筋も皆
抜落、漸通行仕候場数多く、容易ニハ道造りも難相成様ニ
相見へ、惣而道形有之候ハ稀ニ御座候、
   和佐尾村 家数八十軒
        人数三百九十人余
押埋五軒、潰十八軒、半潰七軒、死失七人之旨、栗元組之
居家山手へ付居候処ニ御坐候処、後ロより抜崩候、花尾村境之処凡
五六丁程も抜落候場有之候、其外無難之様子見受申候、
   椿峰村 家数百三十軒
此辺至て地震軽キ様子、抜所少々ハ相見候へ共、格別之儀無御坐候、
 
  (改頁)
 
潰八軒御坐候旨、虫倉岳より余程遠く、土地も平ニ而開キ候場所
ニ候得共、麦作等も少ク作り候而も碌々出来兼候旨、依而多分麻
畑ニ御座候間融通悪敷、麻荷付出候所無之節ハ、上納ニも差支候
之由、
鬼無里村之方ハ荒所軽ク候付、不罷越候処、椿峯村より僅之道
法ニ而、遠見も出来候ニ付、少々踏寄遠見仕候処、山抜之場も不相見、
潰家等折々相見へ候位ニ御座候、
   瀬戸川村 成就組 馬曲組
        埋牧組
居家潰、半潰等有之候得共、押埋之場所ハ無之旨、畑方大抜之
場も不相見、此辺至而片下り之畑方故、大居切多く田畑も押
下り、居家斜候のみニ而一丁余も下り、其まゝ致住居候者も
 
  (改頁)      画像30
 
有之、乍去岩石抔落候所ハ無御坐様子ニ見受申候、
   古山村 家数百軒程
       人数五百十人余
押埋六軒、潰十三軒、死失十人、山格別之大抜ハ無御坐
候得共、数多抜落候由、日暮ニ及遠見ニ而分地迄ハ罷越不申候、
同村より桐山へ罷越候道筋至而難所ニ相成、村之者無余儀往来
ハ仕候へ共、此上道普請多分不仕候得者難相成旨、
   上野村
此村荒所軽重有之、ドロ立組ハ明松寺後ロノ山抜落、大
居切、之ニ夲堂庫裡共押埋、山門等悉ク押潰、寺地ニは
難相成様子ニ見受申候、
   花尾村 家数八十二軒
       人数四百三十人余
 
  (改頁)
 
押埋二軒、焼失九軒、潰三十七軒、死失四十人、当村
格別大抜ハ不相見候へ共、数多抜所有之、田畑も多分崩落、
潰家も外より多く御坐候、
同村和田組平左衛門家内五人暮之処、潰候上焼失ニ而、平左衛門
并老母子供二人死失、女房おり年二十八才一人相残り、一
躰難渋者、当時必支と差支、先達而里方鬼無里村へ罷
越候途中ニ而、水井忠蔵廻村向へ難渋之旨致歎願候ニ付、何レ
村役人へ申出、夫より可願出旨申含候旨、然ル処今以村役人へ願
出も不致旨ニ付、郡方申談、下目付一人郡方手付一人和田組
へさし遣、穿鑿為仕候処、右女房此節上野村より入聟を取、
花尾村役人之内ニも身寄有之、夫食等厚致世話候旨ニ御坐候、
 
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同村浪人大日向司、途中へ出向面会、居宅へ立寄少々
休息仕候節、司申聞候ハ、当村之儀当一毛損毛致し候得ハ、
来年よりハ是非元之通起高ニ為致可申候、一統大変災之
事、御上御厄介罷成候而ハ奉恐入候、との手ニも取続かせ
可申抔ト甚勢宜申聞候、司儀ハ村内之者共も甚伏し罷在候
之由御坐候、
   竹生村 家数百三十軒
       人数六百八十人余
押埋六軒、潰二十七軒程、死失十三人之旨、各村ハ平地
ニ而土尻川添ニ御坐候処、後ロノ上野村境之山大抜有之、町組
迄一円ニ岩石泥等押下し、田畑多分押埋、町組居家
も余程押埋し処も有之、同村浪人大日方源吾ハ山際住居
 
  (改頁)
 
御座候処、悉く押埋、当時町組之内ニ仮宅罷在候、勝手向も
甚不如意故や、花尾村司等之如く村内締ニも不相成、却而村方
厄介ニハ相成趣ニ相聞候、
土尻川向山抜ニ而、同村分地損所も相見へ候、尤平地続之
分ハ先無難之様子ニ御坐候、
   小袮山村 家数二百軒程
        人数千人余
潰七軒、半潰四十軒、死失一人、当村ハ平地ニ而、村家
近辺ハ至而地震軽キ様子ニ御坐候、村家後ロ古山村境之
山抜、田畑等余程損所有之、且又同村より一り程脇舞台与
申候所より、境之宮与申処之向松平様御預所専見村江
懸り、大町へ之往還筋ニ御坐候由之処、右道筋の内専見村近辺
 
  (改頁)      画像32
 
岩石抜落、通用難相成ニ付、専見村より小袮山村方へ申越、
道筋切開之儀懸合も有之候処、其砌高野車之助新町辺へ
出張居候節ニも候や、道橋方手付等世話仕、御領分黒鍬
等遣、専見村より人足出し切開候由、
   椿峯村之内立屋組 家数四十二軒
            人数二百人余
小根山村より新町へ越候辺ニ有之候村ニ而、椿峯本郷より一り半
余有之小郷ニて、土地も悪敷麦作も碌々出来兼、畑ハ多分麻
等相見へ候、地震ハ至而軽ク御坐候旨、
   久木村
此村一躰平地少く候故、分地之内抜場も多相見、道筋難場
も御座候、兼而巡村之積り之処、山手之方源大夫序ニ付呼出、御手充
 
  (改頁)
 
取計候ニ付、一通り遠見仕候而已ニ御坐候、
   夏和村
   奈良井村
右村辺潰家等ハ多有之候得共、田畑格別損所山抜も格別ニ
無之、荒所軽ク御座候、
   中条村 家数百三十軒
       人数六百余人
潰八十七軒、半潰二十二軒、死失四十四人之旨、田畑所
々崩レハ相みへ候得共、格別大抜ハ無御坐候、
   青木村
当村田畑荒所格別不相見、潰家も中条村より軽キ様子
ニ相見へ候、尤土尻川湛居、水入之場も有之難渋の旨、
 
  (改頁)      画像33
 
   専納村家数三十六軒
此村抜所多く、耕地大半抜落候様子ニ相見へ候、一躰平地
無之、片下り之土地のみニ而、別而潰多く、潰二十七軒、半潰
六軒、居切等多く、近村之内ニ而ハ格別難渋ニ見受、通路も
至而難場ニ相成候処多相見へ候、
   長井村家数百十軒余
潰流失ニ而六十八軒、死失二十人之旨、当村犀川水押山
抜ニ而田畑損所多キ所も御坐候へ共、分地之内無難ニ而麦作等
取入ニ可相成場所も余程相見へ候、
   五十里村
当村之儀者格別大抜之場も無御座候得共、分地一統ニ抜下り、
 
  (改頁)
 
麦作多分用立兼候様ニ相見へ、殊ニ同村之内一ノ瀬組ハ土尻川堰
留之場漸掘割水通し候へ共、いまた二段之滝ニ相成居候故、居家
水入之分も有之、耕地も余程水入ニ成居、難渋之旨御さ候、右滝掘
割候は耕地も出可申処、真土ニ而固メ候様之場ニ付、容易ニ掘割出来
兼候旨、人気宜村柄之様ニ見受申候、
   大安寺村
当村荒所潰家等も至而少、無難之様ニ御坐候、土尻川橋落居候故、
隣村へ之往還甚差支候旨ニ御座候、
   笹平村 居家七十九軒
       人数三百九十人余
潰七十軒、半潰三軒、死失二十五人之旨、耕作相稼候者
は稀ニ而、皆々商仕居候計ニ付、一旦ハ甚難渋仕候旨之処、追々仮
 
  (改頁)      画像34
 
小屋補理、店も開キ小間物・荒物・肴や・茶菓子等商取続
ニも相成候旨、当村商初候ニ付、山中筋弁利甚宜旨、且又居家裏
犀川端ニ而欠落候ニ付、往還道筋山手之方ニ仕度願立候旨申
聞、実ニ無余岐様ニ相見へ候、
   瀬脇村
当村抜崩も所々多く、犀川端之田畑多分流失難渋之旨、
五十里村与当村ニ限、私共通行仕候余程之間道造り仕候儀、
諸人之助ニ相成、一段之旨音門賞美仕候儀ニ御坐候、
   吉窪村
当村抜所至而多く、殊ニ大抜之場等も有之、田畑損所多く
難渋ニ相見、殊ニ小市口へ出候道筋抜崩候ニ付、真神山へ出通行
 
  (改頁)
 
仕候へ共、至而廻り難所も有之候ニ付、願立道造り仕度申聞候、
   深沢村
当村ハ平地少ク三方山ニ而小市口之方一方開キ候土地故、片下り
田畑多分抜崩、村前之深キ沢、吉窪村分地之方より山抜覆、水
湛留、当時二百間余も湛居、畑地余程水入ニ相成候、堰留之場
大木・土砂・岩石等ニて押埋メ、高サ四五丈も可有之様ニ相見へ、
掘割等も中々出来兼候旨申聞候、其儘置候へハ当八九月比ニ不
相成候而ハ流レも付間敷申聞候、尤水乗候様ニ相成候而も、居家へ水上り
候程之地陸ニハ無御坐候、源ハ細流ニ可有之候へ共、八九月比迄も湛
候ハゝ、一旦ハ余程大水可参与奉存候、村方之者共も甚難渋之様子
ニは候得共、是非掘割度と願候様子ニは無御坐候、
 
  (改頁)      画像35
 
○或人の書留
坂屋嘉助か抱春吉と云者、地震前善光寺大門町某と云
旅籠やへ聟養子ニ成、地震の夜用事有之堂庭へ行ける
に、俄の大地震、家並ヒシ/\と潰けるに魂を失ひ、宅まて
欠付けるに、はや所々より火燃出、家ハ潰れ、家内ハ皆家の下
になり、いかニとも詮方なく、助出し度と欠廻り見ても、元
来瓦葺なれは一人の力にて難助出、とかくしけるうち、
下女一人壁の間より頭を出し、助け呉よと叫ふ故、即時に
助んと思ひしかと、四方より猛火盛んに吹懸、暑さ難堪
ニ付、着物を脱キ赤裸成て漸下女を救出し、家内の事を
問けるに、奥の方ニ居給ふと云けるまゝ、兎ても助出ん事叶
 
  (改頁)
 
難く、辛くして漸遁出て助りけるとそ、
上ヶ屋村の百姓、用事有て善光寺に止宿し、大門町辺
へ買物に出ける処、俄の大地震ニて町へ欠出しけるに、はや
両側の家並町へ倒れ、通るへき方なき故、倒れたる家
の上に登り、屋の峯を渡り、堂庭迄来り、堂裏の山手
へ出、荒安村に懸り、夜の内ニ上ヶ屋村迄迯行助りけると云、
長谷川深美、此夜御用にて上ヶ屋村に止宿、翌朝聞たると
聞り、
稲荷山潰、大火となりける時、或家家内をしニ打れて、
主一人迯出しける、息子ハ棟ニ打れ半身外へ出けれ共、
大木に押付られ(ママ)事故出る事不叶、父是を見て助んと
 
  (改頁)      画像36
 
すれと、一人の力に不及、子ハ親の足に取付、助けくれよ
と叫ひけれとも、いかにともせんすへなき内、一円の猛火と
なり、此家へも燃付けるまゝ、とても不叶と観念して、
子の手を振はなし欠出、家内ハ不残焼死ける、此時の
心ハいかに有けん、
○御台所勘定帳をみるに、すへての事夥敷、中
にも炊出し賄拾弐万六千八百三十六賄とみえたり、
御救方御手充金被下渡し辻金一万三千四百弐十
両と米七千百五十五俵也、是ハ申年の調なるを後
に記し付ぬ、
○妻女山の三災亡霊の碑ハ予か懸りニて御建立也、
 
  (改頁)
 
国役御普請御願書写
 
  (改頁)      画像37
  (改頁)
 
   五月十四日
一、国役御普請御願書、当六日御勝手御懸阿部
伊勢守様御勝手江津田転持参、公用人高木
三太江面会、入御内覧候処、思召無御座旨被仰
出候付、翌日七日御表江藤田繁之丞持参、
御取次三上三平を以差出候処、被成御落手
候之旨同人を以被仰出候旨、繁之丞罷帰申聞
候由、左之通申来、
 
  (改頁)      画像38
 
 私領内信濃国埴科郡・水内郡・更級郡
 高井郡之内千曲川・犀川、寛保二戌年洪水
 ニ而城地損壊領内荒所多罷成、其後明和
 二酉年猶亦洪水ニ而損亡夥敷、明和五
 子年奉願、国役御普請被成下候以来、
 文政三辰年迄都合六ヶ度国役御普請
 被成下、漸相防罷在候処、同七申年大
 満水ニ而御普請所及大破候付、奉願見分
 は有之候得共、折節万石以上国役御普請
 
  (改頁)
 
 被成下間敷旨被
 仰出候付、其以来無拠手普請ニ而相凌罷在
 候処、当未三月廿四日夜大地震ニ而、更級郡
 山平林村之内字岩倉山抜崩、犀川押埋、
 流水堰留及数日候間、水嵩二十丈余相湛
 川上数十ヶ村水中ニ相成候次第ニ付、右堰
 留之場押破候は、川下村々何様之変地出来
 可申哉難計、加之右川筋山合より押出口
 水内郡小市村之上字真神山抜崩、川式(ママ)
 
  (改頁)      画像39
 
 九分通押埋候付、其儘差置候而は聊之水
 ニ而茂川中嶋江切込み、大患相成候間、右掘
 取方并年々普請仕置候川除土堤江
 石俵或は材木等積立、数千之人夫を以
 精力を尽し致普請候処、堰留之場先月
 十三日夕一時押破、小市村辺水嵩六丈
 四五尺ニ茂及候次第ニ而、先年被成下候犀
 川筋御普請所は勿論、積年致丹精候
 川除類并此度俄ニ急難為防普請申
 
  (改頁)
 
 付候場所迄、不残押払、民家流失夥敷、
 田畑押掘或は大石土砂押入、或は石河原
 与相成、如何共無致方、心痛至極御座候
 得共、御料所他領打交居候場所ニ而、用水
 井筋茂悉皆損所有之候上、洪水ニ而犀川
 懸用水揚口惣而致滅却、田水は勿論
 呑水ニ茂差支候付、川中嶋用水揚口
 急難除普請之儀は先格之通、如何様ニ茂
 自普請可申付候得共、犀川・千曲川領内
 
  (改頁)      画像40
 
 普請所延長四万八百四拾三間余有之莫太
 之普請所自力ニ及兼、就中丹波嶋宿之儀は
 北国往還筋ニ候処、人家流失茂多分
 有之、一宿不残四五尺程之泥入、并北国脇往
 還川田・福嶋両宿是又丹波嶋宿同様泥
 入ニ而、佐州御用等を始往来之差支ニ茂
 可相成、其外亡所ニ茂可相成程之村数多
 有之、川除之分は前条之通不残押流
 候ニ付、両岸之形を失、大石土砂押入候耕地
 
  (改頁)
 
 石河原与相変、川式与致混同水行乱瀬ニ相成、
 此上少々之出水有之候而茂、何れ江本瀬相向
 可申哉、領分は勿論御料他領共如何様之変
 化損地茂難計、尋常之普請ニ而は当座
 之防ニ茂相成間敷、元来領内土地狭之上
 永荒所多、尤明和度申上候節は永荒所
 四万石余ニ御座候処、文政三辰年迄度々
 国役御普請被成下候以来、多年水旱之
 損毛は有之候得共、追々手段を以取復、永荒
 
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 高相減、当時弐万三千石余ニ相成、全御厚恩
 故与難有仕合奉存候処、此度之地震洪水
 共前代未聞之大変ニ而、明和度ニ弥増永荒
 所ニ茂可相成与歎息仕、右ニ付而は種々手段
 仕候得共、莫太之川除実自力難及、当惑心
 痛仕候、併国役御普請之儀は、文政年中
 被 仰出茂御座候儀恐入候得共、未曽有
 之天災ニ而前々国役御普請奉願候水患之
 類ニ無御座候、尤此度拝借金奉願、領内一統
 
  (改頁)
 
 山里村々災害軽重ニ寄、夫々手当筋
 取計取続方可申付儀与奉存候処、尚又
 国役御普請奉願候は重々恐入候得共、
 再度之大変災、殊ニ広太之川除普請迚
 茂難及自力、必至与難渋仕候、御時節柄
 恐入候得共、前断之仕合ニ付、享保以来被 
 仰出之国役御普請之御例ニ不拘、出格之
 御慈評を以犀川両岸並右落合尻、千曲川
 筋何分茂御普請被成下候様奉願候、
 
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以上、
 
   五月朔日           御名
 
一、右ニ付御勘定奉行御勝手懸り石河
土佐守様・松平河内守様江茂藤田繁之丞
罷出、御用人江面会、伊勢守様江御願書
被差出候段、何分茂御含被成下候様申述、
国役御普請御願書写御用人共を以差出
 
  (改頁)
 
候処、被成御落手候旨、繁之丞罷帰申聞之、
 
  (改頁)      画像43
  (改頁)
 
弘化四未年
   六月
   江戸日記写
 
  (改頁)      画像44
  (改頁)
 
一、左之通御届書御用番牧野備前様江
被差出之、
 
  私在所信州松代、先達追々御届申上
  候之通、当三月廿四日夜大地震以来、度々
  之地震ニ而、城内并家中町在居家其外
  破潰、人馬死失田畑損毛、且山抜崩犀川
  堰留湛水ニ而、数十ヶ村水中相成居候処、
  同四月十三日右場所一時ニ押破、埴科・更級・
 
  (改頁)      画像45
 
  水内・高井右四郡之内八拾ヶ村一円之洪水ニ而
  猶又居家其外流失流死人田畑損毛
  等委細相糺候処、
 
 一、本丸囲塀八拾間倒
 一、二丸馬出櫓壱ヶ所大破
 一、同所囲塀九拾四間三尺倒
 一、三丸櫓壱ヶ所潰
 一、同所囲塀弐拾七間倒、
 一、本丸・二丸・三丸共門并櫓・諸番所等屋根瓦
  震落、壁破損
 
  (改頁)
 
 一、米蔵壱棟潰
 一、同九棟破損
 一、城内囲水除土堤五拾弐間崩
 一、厩壱棟大破
 一、学問所壱ヶ所大破
   家中之分
 一、居家潰参拾八軒
 一、同半潰弐百八拾六軒
 一、同大破六百五拾四軒
 一、門潰九ヶ所
 
  (改頁)      画像46
 
 一、同半潰拾六ヶ所
 一、同大破五拾三ヶ所
 一、土蔵潰三拾五棟
 一、同半潰百拾壱棟
 一、同大破百七拾六棟
 一、物置潰百弐棟
 一、同半潰八拾七棟
 一、同大破弐百八拾棟
 一、囲塀倒千七百拾弐間余
 城下町之分
 
  (改頁)
 
 一、同大破百四拾四軒
 一、土蔵潰三拾九棟
 一、同半潰弐拾九棟
 一、同大破六拾棟
 一、物置潰四拾壱棟
 一、同半潰三拾四棟
 一、同大破三拾棟
 一、酒造蔵潰弐棟
 一、同半潰壱棟
 一、社潰弐ヶ所
 一、御朱印地寺院本堂大破庫裏潰壱ヶ所
 
  (改頁)      画像47
 
 一、同半潰壱ヶ寺
 一、同大破三ヶ寺
 一、寺院潰壱ヶ寺
 一、同大破九ヶ寺
 一、圧死人三拾弐人
  内 男拾壱人
    女弐拾壱人
 一、怪我人弐拾七人
  内 男拾三人
    女拾四人
  但、渡世差障候程之者無之、
 一、高七万千六百四拾五石余[本田新田]共
 
  (改頁)
 
 三万弐千八百五石余村数百五拾壱ヶ村
  内
 壱万八拾五石余 田方
 弐万弐千七百弐拾石余 畑方
 洪水之節
 三万八千八百四拾石余 村数八拾ヶ村
  内
 弐万七千九百拾三石余 田方
 壱万九百弐拾七石余  畑方
 
 右は山崩耕地覆、床違并犀川湛水入之
 
  (改頁)      画像48
 
 村々、且右湛水押破大石等耕地江押出候等之
 大荒、村々凡高ニ御座候、永荒ニ可相成処
 多相見申候、
 一、用水堰抜崩并大破大小百四拾六ヶ所
 一、用水堰大破并磐石砂泥入押埋欠、崩延長
 拾弐万八千六百四拾弐間余
  内
  九万七千百六拾間余  地震之節
  三万千四百八拾弐間余 洪水之節
 一、山崩大小四万千五拾壱ヶ所
  内
 
  (改頁)
 
 一、山抜崩堰留水湛大小五拾三ヶ所
  但、堀割候分、其外共水路相附申候、
 一、往来道筋地裂抜崩流破、延長拾六万
 四千七百四拾壱間余
  内
  拾三万千弐百五拾弐間 地震之節
  三万三千四百八拾九間余 洪水之節
 一、橋大小落損流失等三百七拾三ヶ所
  内
  百拾三ヶ所    地震之節
 
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  弐拾六ヶ所    洪水之節
   但、久米路橋共
 一、同破損百八拾壱ヶ所
  但洪水之節
 一、犀川・千曲川筋国役御普請所土堤流失、延長
弐千九百四拾七間
  但右同断
 一、同石積流失延長八拾間
  但右同断
 一、犀川・千曲川其外川除土堤震崩、流失
 延長弐万九千三拾間余
 
  (改頁)
 
  弐万四千三百五拾六間余 洪水之節
 一、同石積流失延長弐千九百間余
  但、洪水之節
 一、同菱牛石積流失三百八ヶ所
  但、右同断
 一、同石枠・合掌枠流失千弐百参拾六組
  但、右同断
 一、同岸囲打杭笈牛差出流失八千百四拾
 五間
  但、右同断
 一、同急難除岸囲水刎流失四百七拾ヶ所
 
  (改頁)      画像50
 
 但、右同断
 一、用水揚口水門底樋震潰大破流失弐拾
 四ヶ所
  内
  拾ヶ所       地震之節
  拾四ヶ所      洪水之節
 一、船大小破損流失弐拾五艘
  内
  四艘       地震之節
  弐拾壱艘     洪水之節
 
  (改頁)
 
 在方之分
 一、居家潰九千三百三拾七軒
  内
  三百軒        山抜土中江埋
  弐百四拾三軒     潰之上焼失
  弐百軒        潰半焼ハ湛水入之上流失
  六百六軒       潰半潰湛水ニ而浮出之上流失
  千四百壱軒      潰半潰之上流失洪水ニ而
  六百弐拾四軒     半潰之処洪水ニ而潰
  六千三百弐拾三軒   潰
 
  (改頁)      画像51
 
 一、居家半潰弐千八百弐軒
 一、同大破三千百弐拾軒
 一、同石砂泥水入弐千五百七軒
  但、洪水之節
 一、土蔵潰千七百五拾七棟
  内
  百弐拾九棟    山抜土中江埋
  八拾四棟     潰之上湛水入
  百拾棟      同断之上焼失
  弐百拾四棟    潰半潰之上洪水ニ而流失
  千弐百弐拾棟   潰
 
  (改頁)
 
 一、同石砂泥水入三百弐拾弐棟
  但、洪水之節
 一、物置潰六千百四拾八棟
  内
  弐百弐拾四棟    山抜土中江埋
  三百拾八棟     潰半潰之処焼失
  千三百弐拾七棟   同洪水ニ而流失
  百九拾五棟     半潰破損之処洪水ニ而潰
  六拾弐棟      潰之上水入
  四千弐拾弐棟    潰
 一、同半潰九百七拾四棟
 
  (改頁)      画像52
 
  内
  六拾三棟      半潰之処洪水之節水入
 一、同石砂入泥水入六百三拾弐棟
  但、洪水之節
 一、酒造蔵潰弐拾三棟
  内
  四棟     潰湛水入之上流失
  拾四棟    潰
  五棟     半潰之処洪水ニ而潰
 一、同半潰弐棟
 一、同大破壱棟
 
  (改頁)
 
  七棟       山抜土中江埋
  五棟       潰之上焼失
  三棟       同湛水入
  弐拾五棟     潰半潰之処洪水ニ而流失
  拾弐棟      半潰大破之処洪水ニ而潰
  五拾七棟     潰
 一、社倉潰七拾七棟
  内
  七棟      山抜土中江埋
  三棟      潰之上焼失
  拾八棟     潰半潰之上洪水ニ而流失
 
  (改頁)      画像53
 
  四拾九棟    潰
 一、同半潰四拾七棟
 一、高札場潰拾八ヶ所
  内
  壱ヶ所     潰之上湛水入
 
  (改頁)
 
 一、社潰百四拾七ヶ所
  内
  拾五ヶ所    山抜土中江埋
  拾壱ヶ所    潰之上湛水入
  六ヶ所     同焼失
  三拾七ヶ所   潰半潰大破之処洪水之節流失
  弐拾弐ヶ所   半潰之処洪水ニ而潰
  五拾六ヶ所   潰
 一、同大破八百弐拾五ヶ所
 一、御朱印地寺院潰八ヶ寺
  内
 
  (改頁)      画像54
 
  壱ヶ寺     潰之上地裂土中江埋
  壱ヶ寺     同湛水入
  六ヶ寺     潰
 一、同半潰弐ヶ寺
 一、同大破六ヶ寺
  内       地震之節
  五ヶ寺
  壱ヶ寺     洪水之節
 一、寺院潰八拾ヶ寺
  内
  三ヶ寺     山崩土中江埋
 
  (改頁)
 
  八ヶ寺     大破之処洪水之節流失
  五拾壱ヶ寺   潰
 一、同半潰弐拾壱ヶ寺
 一、同大破三拾五ヶ寺
 一、諸堂潰弐百四拾壱ヶ所
  内
  拾ヶ所     山抜土中江埋
  壱ヶ所     潰之上焼失
  壱ヶ所     同湛水入
  三拾三ヶ所   同流失
  弐ヶ所     洪水之節潰
 
  (改頁)      画像55
 
  拾三ヶ所    同流失
 一、同半潰五拾五ヶ所
  内
  四拾九ヶ所   地震之節
  六ヶ所     洪水之節
 一、同大破五百五拾ヶ所
 一、同石砂泥水入六拾八ヶ所
  但、洪水之節
 一、圧死流死弐千五百八拾五人
  内
  一、男千弐百弐拾八人
 
  (改頁)
 
   百九拾五人   山抜土中江埋死骸相見不申候、
   六人      洪水之節流死
  一、女千三百四拾五人
   内
   千百弐拾七人  地震之節圧死
   弐百弐人    山抜土中江埋死骸相見不申候、
   拾六人     洪水之節
  一、社人弐人
  一、僧拾人
   内壱人山抜土中江埋死骸相見不申候、
 一、怪我弐千弐百六拾弐人
 
  (改頁)      画像56
 
  内
  一、男千拾壱人    地震之節
   内拾人往々農業渡世難相成分
  一、女千弐百五拾壱人 右同断
   内拾五人右同断
  一、穢多圧死七拾八人
   内
  一、男四拾三人
   内弐拾七人山抜土中江埋死骸相見不申候、
  一、女三拾五人
   内弐拾人右同断
 
  (改頁)
 
  牛四疋
  馬弐百六拾三疋
   内三拾六疋山抜土中江埋相見不申候、
 
右之通御座候、尤地震之儀は領内一統之儀
御座候得共、居家は勿論土蔵物置ニ至迄、
少破無之分は更ニ無御座候、損亡高之儀は
収納之上可申上候、此段御届申上候、以上、
 
  七月九日            御名