NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

■むしくら日記 [現代訳] 3巻 利 

 
むし倉日記 利
   翻刻
◯4月14日辰(午前8時)のころ登城してご機嫌を伺い、巳(午前10時)過ぎる頃退出しました。水の様子はどうだろうかと、目付斎藤友衛を連れて城山に登りました。しかしこの頃には、早くも水は遠くに引いていって、柴村より下流は多く見えるけれど、それより上流はいつもより少し増水しているだけでした。堂島の往来の窪んだところには水が所々見えました、昨夜盛んに逆流していたころ、山寺源大夫と佐久間修理(象山)があちこと馬を乗り回し、新馬喰町外れの断層の辺りでは、水が鐙(あぶみ)の上に届くほどでした。中でも修理は地割れに落ち込んでたいへん苦労したというほどでしたが、今はその辺りもわずかの水があるばかりと思われます。それから下山して、また未の刻(午後2時)に登城して石州子と交代しました。
 
◯村々へ流れ寄る米穀や衣類、道具類などおびただしい数だということです。人々がたがいにこれを争って取ろうとして川辺に出、その留守を狙って盗賊が家々に押し入り略奪することがたいへん多いと聞きましたので、取次の横田甚五右衛門、目付の祢津刑左衛門・小野喜平太・矢野茂・斎藤友衛らを手分けして遣わしました。その略奪する者たちを止め、懲らし、あるいは諭すなどし、また荒廃の様子も見届けるようにと言い含めて出して遣りました。1、2日あるいは2、3日、3、4日もかかって戻った者もありましたが、いずれもうわさに聞いたような略奪はなかったと申しておりました。(賄は村々の炊き出し所へ掛け合って食べなさいといって遣わしました。)
   翻刻
◯御預所郡奉行兼帯の寺内多宮が、預所の村々を巡回した時に書き出した、村々の浸水の様子だけを抜き出します。
大室村では軒下または鴨居の下まで水に浸かり、流された家も多くあります。川田宿では千曲川の堤防が決壊し、村の上手から水が押し入り、鴨居の下まで達しました。須坂御領綿内村は床上4、5尺水に浸かりました。2尺前後泥が入り、流失した家がおびただしく流れ寄り、通行が難しくなっています。
同御領吉野村より御本領御預所と三領組合の、基底部8間、道幅2間、高さ平均7、8尺の土手が所々で決壊し、御三領に浸水しましたが、復旧できない荒廃地はおそらく須坂御領に多いように見えます。
福島村は5、6尺から1丈くらい住居に浸水し、家も流されて来ています。また大木などが道に押し倒されていて、右の流された家の屋根の上を往来している場所も所々あります。
御預所中島村は5、6尺の浸水、流された家8軒、流されて亡くなった者6人、市村の船(11間余り)1艘が流れ着いています。
同村山村では住居を囲った土手が決壊し、村の上手から水が辺り一帯に溢れて来て、流失した家も多く、川沿いの家々は何れも深く浸水し、泥が流れ込み、しばらく居住は困難です。名主の家では泥の中の縁側に藁を敷き、そこに案内されました。
同相之島村は泥と水が流入、村山村と同様ですが、この村は東西に大木を植えてあったためか、家の流失はありません。
同大島村・飯田村の両村は浸水はありません。耕地は水が入り、水で抉られた大きな水たまりができています。
同福原新田・小布施村・中条村・桜沢村はとくに被害はありません。中条・桜沢の両村のはずれには流された家やがれきがおびただしく流れ寄っていて、田の耕作に差し支えるので、焼き払おうとしてこれを積み上げ火をつけましたが、水に浸かった物なので煙ばかり出て焼くことができません。
大熊村は軒下まで浸水しました、小沼への道は泥道になっています。
小沼村は、家の屋根の3分の1くらいまで泥に浸かった跡があります。床上2、3尺まで泥が入り、むしろや畳など、そのほか家財を泥の中から掘り出して洗っているような状態です、御本領の方も浸水や家の流失の被害があります。領地が入り組んだ場所なので、見分を申し立てて調査をしましたが、言語を絶する有様です。右の村は洪水に慣れていて、梁の上に棚を拵え、いろいろな道具を置いていました。前述のような浸水で、老人・子供は避難していましたが、壮年の者は村にいて、浸水したのでこの棚に上がっていましたが、次第に水が深くなって棚まで届きましたので、屋根を破って逃れ出ました。どの家の屋根も這い出したときの穴が多く残っています。
津野村では鴨居の下3、4尺ほどの水が入りました。床上に泥2尺も流れ込み、流失した家、水に浸かった家もあります。水が抉った跡はそのまま水溜まりになっています。
赤沼新田は津野村と同様に、通行ができない場所もあります。
中尾村は村内には水は入りませんでしたが、地震の際に皆家が潰れ、小屋掛けもできずに困っている者もいます。それぞれに救済金を申し渡しました。飯山御領の石村・三才などは耕地に浸水し、また地震で潰れた家が多く見られ、山崩れや洪水の跡もあります。
稲積村・徳間村・吉田村を通ったところ、吉田村では地震での家屋倒壊が夥しく、今もって片付けができずにいます。
三輪村・相之木村は、地震の被害の上に善光寺の出火で類焼しましたが、少しずつ小屋掛けができ始めています。
権堂村は土蔵まで残らず焼き払われて、野原のようになっています。栗田村は地震の被害、水害ともにありませんでした。(以下省略)
   翻刻
◯御家中破損水道役改
(略)
   翻刻
◯岩倉の甚水がひと波で決壊して、上流の方の水が一度に引いた時、山中の川沿いの村々の者が両岸に出て異口同音に閧の声を上げ、寺院・神社・修験らはそれぞれ仕えている仏前や神前から鉦(かね)太鼓などを持ち出して、いっせいに打ちたたき喜ぶ声が山谷にこだまして、ものすごかったといいます。
 
◯村山の荒神堂はあれほど高い所にあるので、どんなに水が押し寄せてもまさか心配はあるまいと、別当も油断して避難の準備もせずにいましたが、一波押し寄せて来るとみる間に、たちまち押し流され、堂も家屋も行方が分からなくなったとのことです。
 
◯丹波島の者は、老人や女子供は山々に引きこもり、あるいは親族のもとへ避難して、わずかに若者30人ばかり残って、問屋の前に集まり、船を1艘引き寄せておいて、いざという時は乗って逃げる準備をしていました。急に大水が押し寄せたので急いで乗り込みましたが、どうしたことか、1人乗り遅れ、船端を踏み外して、しばらく流されていましたが、ちょうど自分の家に流れ着き、屋根に登って助かりました。しばらくしてその船を漕いで行って助け下ろして去ったそうです。自分の家で命拾いしたというのも不思議なことです。
   翻刻
◯同じ村で、ある家に中に2抱えほどの大木が突き通って、そのため家が流れずに残ったそうです。
 
◯同じ村で、普段から泳ぎが好きで暇さえあれば川辺に出て練習をしている者があり(名前は忘れました)父母が止めても聞きません。今回村の老人や子供が山に避難した時、この父母も山に登ろうと思いこの者を呼んで、「お前はいつも泳ぎの練習をしているのだから、こんな時こそよく留守番をしなさい」といいますと、この者は喜んで、父母に早く逃げなさいと言って、早くから父母を山に行かせ、1人で家を守り、もし水が出たなら泳いで柴村まで行こう、こういう時に日頃練習した泳ぎを試さない手はないと、平然としていました。にわかに水が押し寄せたので、油断したと驚いて、こういうときは食料がなくてはいけない、握り飯を作ろうと、飯櫃を取り出しましたが、すでに家は浸水してたちまち床上高く水が入って来たので、飯櫃を抱えて屋根に登り、着ている着物を脱いで飯をぶちまけて包み頭にのせ、それから柴村を目指して泳いで行きましたが、難なく渡り着いて、息も切らさなかったといいます。ある人が難癖をつけて、「あの激流を横切って泳いで、命が助かったのは幸運でしたね。もし家や大木が流れて来たら、たちまち流されてしまったでしょう」というと、その者は答えて「そんなことはございません。柴まではだいぶ遠いので、家でも大木でも流れて来い、そうしたらそれに上って息を継ごう、と待っていましたが、あいにく家も木も遠くを流れて側を通りませんでした。ただ苦しかったのは、喉が渇いて我慢できないのに、あの泥水では一口も飲めなかったことです。こればかりは困りました」と言ったそうです。丹波島から柴までは1里余りもあるでしょう。その距離を濁流を横切って何の苦もなく泳ぎ着いたとは、比類なき泳ぎ手です。もちろん師について習ったわけでもなく、独習したものだそうです。
 
◯川中島の内で、屋敷の西の方に木を多く植え込んでいた家では、この木に流された家や大木・材木・がれきなどが流れて来て引っ掛かったため、水が左右に分かれて流れ、難を逃れたそうです。
 
◯御領分では流されて亡くなった者は少なかったのですが、他領ではかなりあったといいます。上氷鉋あたりのことか、家族を木の後ろにくくりつけておきましたが、根こそぎ倒れたちまち押し流されたそうです。
 
◯川中島のどのあたりか、15、6歳くらいの女の子が、3つばかりの子を背負って、水が来たと聞いて必死で高い木によじ登りましたが、根こそぎ押し倒されて流されました。しかし、水に浸りながらも顔を出し、そろそろと上の枝に這い上がりつかまっていると、夜戌の刻(午後8時)を過ぎる頃飯山に流れ着いて助けられて上がったといいます。
   翻刻
◯千田村の治兵衛とかいう者の門先の木に、夜になってから夜着1枚流れて来たのを、加来(家来のことをこの辺りでは加来といいます)が拾って、こんな物が流れて来ましたと告げると、治兵衛の母がこれを聞いて、物干竿に掛けておきなさい、夜が明けて水が引いたら流した者が捜しに来るでしょう、と言いつけて、夜が明けてから見ると、着物にはその家の紋がついています。母は加来を呼んで、「おまえは何を言っているのです、夕べ流れて来たというのはうちの夜着ですよ。それを捨てておいて流れて来たと言ったのですか」と叱りました。加来は「いやいや、そうではございません。土蔵もそのままですし、お家の品は何も流されていません。ほんとうに流れて来たのです」と言います。「それではそうなのでしょうが、訳が分からないことです、下ろしてみなさい」といって下ろさせて表裏をじっくりと調べてみて、「これは、この春小市へ嫁がせた娘の夜着です。裏を裁ち間違えて縫い合わせてあるのが、その証拠です。ならば、家族も家や蔵も一緒に流されたのでしょうか」といって、夜着に取り付いて泣き叫びました。家族も一緒に泣いて、すぐに人を遣って尋ねますと、小市では「水が来ると聞いて早いうちに山手に避難して、家の辺りを眺めていますと、逆流が押し寄せてくると見るうちに、家も倉も一気に流されて行方も分からなくなったのは、たいへん情けないことでしたが、家族は元気です。御心配なく」と言ってよこしたそうです。蔵に入れてあった夜着だそうです。親の里に流れ着いたのも、不思議なことです。
 
◯氷鉋村に古くから山伏の塚というものがありました。それが押し流されたものか、中から乾いた亡骸が出て来ました。これは昔入定した者だといって、常念寺で納めておきましたが、しだいにその評判が広がって見物に訪れる者が多くありました。後には公事方から禁止され、見物は許されなくなったそうです。菅鉞太郎がわざわざ行って見て、話したところによると、半身はまったく干物のようですが半身は腐ったように見え、眼も片方はくりぬいたようで、合掌した恰好ですが、棺に納めて手を合わさせたままに固まったものではないかということです。おそらく越後の弘智法印の類で、木乃伊というものでしょう。(朱書)「これは上氷鉋村で一向宗唯念寺という寺であるといいます、見物を禁止したのも地頭からの指示と思われます」
 
◯村々に流れ着いた品々は、すべて公事方で調べて名主に預け、村内に札を立てて、8か月以内に捜しに来る者があれば渡すようにと定めました。
   翻刻
◯四ッ谷村で地震の時、産土神の社が潰れました。下でうごめいている声がするというので、村の人々が集まって屋根に穴をあけて見ると、7、8歳ばかりの子供が出て来ました。父と母はと聞くと、中で寝ていると答えます。さてはと、さらに穴をあけ崩してみると、夫婦らしき者と乳飲み子1人が押し倒されて亡くなっていました。夫は坊主で、傍らには袋に入った米もありました。さては巡礼をして歩いて暮らしを立てているのであろうと、その子供に住所を聞くと、片言ではっきりとは分からないものの、松本近辺のはし場というところまで行けば知り合いがいると答えたので、地震が止んだら連れて行こうと言って名主のところで面倒を見ているうちに、疱瘡にかかりましたが、軽くて済みました。そのうち大水になりましたが、このときも人々が世話をして無事に逃れましたが、村はわずか4軒を残して流され、田畑も残らず押し流されてしまったため、皆途方に暮れて、この子の世話に困り、しかたなく公事方に訴えましたので、政府に頼んで岩野村の幸五郎を付けて松本に遣りました。その子がそこここと言う方に連れて行きましたが、だれも親族だというものがなく、浅間の温泉あたりで尋ねてみると、佐久郡から来た無宿者だというので、しかたなく連れ帰り、幸五郎がしばらく預かっていました。(6月になって梅翁院が引き取って育て、道心坊にでもさせたいと願い出ましたので、公事方に訴え政府に告げて、梅翁院に遣りました。)
 
○須坂侯(堀長門守)御届 両度
私の領分信濃国高井郡のうち、一昨日24日亥の刻(午後10時)ごろ強い地震があり、陣屋や家来の住居の長屋の辺り数か所が破損しました。村々では百姓家が潰れ、そのほか田畑の地割れ数百か所から砂や泥が吹き出し、耕地に残らず流れ込みました。今もって余震が続いております。領分では人馬の怪我などはございません。もっとも善光寺の参詣や余所に働きに行っていた者の中には亡くなった者のあるように聞いておりますが、いまだ調査が行き届かず、詳細は追って申し上げますが、まずこの段お届け申し上げます。以上。
  3月26日
   翻刻
先にお届け申し上げた私の領分信濃国高井郡で、先月24日夜大地震がございましたが、その節近領の更級郡山平林村の岩倉山辺りの山が抜け崩れまして、犀川を埋め立て、せき止められた水がしだいに数十丈まで溜まり、どこへ流れ出すかと心配しておりましたが、昨日13日夕方七ツ時(午後4時)ころ、にわかに決壊したものか、この山の方で鳴動している様子があり、ほどなく一気に水が押し出し、防ぐこともできないと、出向いていた家来から次々と報告がありました。間もなく犀川・千曲川の合流地点あたりの領分綿内村と申す所は勿論、この川の付近の村々、田畑まで一面に水に浸かりました。かねて、村方の者は言うまでもなく、家来や手伝いの人足たちも多くの人数を差し出して、懸命に水害に備え準備をしておりましたが、夜中でもあり、とりわけ水の勢いが強く、流された家、亡くなった者もあると思われます。その上田畑は泥を冠り、亡所・損地になるところも多く出るのではないかと心配しております。もっとも今朝になってしだいに水は減っている様子でございますが、これ以上のことは分かりかねます。いまだ水に没していることでもございますので、詳細は追って取り調べご報告します。先ずはこの段お届け申します。以上。
  4月14日                    堀長門守
 
この後のお届けは未だ聞いていません。寺内多宮が御領所の方から問い合わさせた時報告して来たと言って、書き付けてよこしました。
(略)
   翻刻
◯須坂侯はまだ壮年(16、7)でいらっしゃるということです。16、7日のころ川辺の村々をご巡見なさいました。猩々緋の馬具が見事であったと、宮島守人が川辺の見分の時に見かけたと語りました。また13日から3日ほどの間炊き出しをいただきました。私領他領の区別なく来るもの皆にふるまったと言います。
 
◯19日未明に、大鋒寺の御木像が寺に御帰座なさいました。御番頭一組と御目付もいらっしゃいました。私は五ツ(8時)過ぎから代参を勤め、途中地震の被害の様子を気をつけて見ましたが、荒神町から寺尾の横町まではひどく潰れています。東寺尾の町はいかにも地震は弱かったと見えて、傾いた家も見えません。向張の木が2本あるばかりです。愛宕なども、石段その他別状ありません。穢多町に至ると、孫六の家はよほど壊れたとみえて、所々修繕しておりました。松原切れ口からむこうは水がずいぶんと畑に押し寄せたようですが、麦はまったく倒れていません。金井山の少し脇に9尺2間ばかりの屋根と材木が所々に引っ掛かっています。柴村は水が漬きませんでした。代参が終わって御廟所を見分しましたが、まったく別状ありません。(夜燈は倒れたそうですが、もう立て直してあって傷もついていません。)惣卵塔も見ましたが、倒れた墓はまったくありません。地震はよほど弱かったと思われます。金井山には小屋がたくさん見えました。農夫に尋ねたところ、「真島・川合辺りの家を失ったり、家に泥が多量に流れ込んで未だ片付けられずにいる者が、昼は足の弱い者を山に残して留守を守らせ、達者な者は行って土を片付けなどし、夜は小屋に戻ります。満水の時は3000人もいたと思いますが、今は夜になっても200人余りいるばかりです」と答えました。
   翻刻
◯御参府御用捨御願
私参勤時節の件お伺いいたしましたところ、今年6月中に参府いたすよう仰せいただき、有り難き仕合せにございます。しかし何度かお届けいたしました通り、先月24日夜、未曽有の大地震で、城門はじめ家中、城下町とも破損箇所ならびに家屋の倒壊が多数あります。また領分の村々では家の倒壊・死者等夥しく、そのうえ田畑・道路・地面は地震で裂け、土砂泥水など吹き出しています。ことに山中筋では土砂崩れで村ごと人も家畜もともに土砂に埋もれてしまった村も少なくありません。とりわけ更級郡山平林村の土砂崩れは犀川を埋め立て、流れをせき止めて数日間水が溜まり、水嵩が20丈余りに及んだため、川辺の村々は水中に没しました。もっとも岩石で数十丁の間をせき止めていたもので、水勢にも押し切られそうもない様子に思われましたが、去る13日夕方、思いもかけず一気に決壊して、岩石とともに数十丈の水が押し出し、下流の川中島一帯に溢れました。人家はもちろん、田畑も押し流され河原になりました。そのほか近隣の村々と下流に続く続く川除けをした村々が流失し、あるいは泥水が流れ込んだ所も多くあります。また数十日水中に没していた山中の村々は、水は引きましたが家・田畑とも残らず押し流され、その上川辺の道は数丁にわたって崩落しています。度重なる災害で、親族を失い家・家財・耕作道具、あまつさえ田畑までも失って、悲嘆にくれ途方にくれている領民は幾千万ともいえません。当面食料もなく、住居もなく、農作業にとりかかろうという気さえ毛頭ない様子なので、所々手分けして役人を差し向け、炊き出しや小屋掛けなどの算段を申し付け、飢えや雨露を凌ぐことを専ら取りはからっておりますが、これは全く臨時の救済措置で、この上は仮にも家を修繕し、耕作道具を取り揃え、田畑の開や道路の普請を行うとなると、容易なことではございませんが、しばらくの間も放置することはできません。なんとしても早速復興に取りかからなければなりませんが、領内全体のことで、簡単には行き届きかねます。ことにすぐ田植えの時節になりますが、このような次第で、なかなか耕作に取りかかる状態に至りません。年貢はもちろんのこと、それぞれが食べるあてもなく、自然人心にも影響が出て、どんな心得違いの事件が起こるやも知れず、心を痛めております。この上は精いっぱい救援と田畑の開発の算段を申し付けるつもりでおりますが、家来に任せてばかりでは領民の意気にも拘わり、復興がはかどりかねます。右については領内の村々が多少とも復興し、人心も穏やかになって、耕作に取りかかる状態に至るまではこちらにいて、救援の算段はもちろん、人心を引き立てるようひたすら努め、また取締の方面も万端指図をして参ります。格別のお情けを以て、今年の秋半ばまで参府をご容赦いただきたく存じます。以上。
  4月21日
   翻刻
◯越後高田侯(榊原式部大輔)御届 初度2度
私の在所越後高田では、先月24日亥の刻ころより大地震があり、城内住居、門、櫓、囲塀が破損し、家中の屋敷、城下町、領分の村々では家の倒壊、破損がおびただしく、怪我をした人や家畜があります。北陸道の街道筋で所々崩落箇所がある旨、在所から報告がございました。詳しくは追って申し上げますが、先ずはこの段お届け申し上げます。以上。
  4月4日                榊原式部大輔
 
私の在所越後高田で、先月24日亥の刻ころより大地震があったことは、去る4日お届け申し上げた通りでございます。その後も余震が止まず昼夜おりおり揺れております。同29日午の刻(正午)頃強い揺れがあり、さらに所々大破しました。米蔵や寺社、田舎も町もともに家の倒壊、破損が増えていると在所から報告がありました。詳しくは追って申し上げますが、先ずはこの段お届け申し上げます。以上。
  4月7日                榊原式部大輔
   翻刻
◯高田侯のこの御届は5月28日に出したとお知らせがありました。後に記すべきでしょうが、関連がありますので、ここに出します。
(略)
   翻刻
◯むしくら御届
私の領分信州松代の、先月24日夜の大地震以後の次第は幾度か先にお届け申し上げましたが、城下から北西の方向に6、7里ほど隔たった山中水内郡伊折村・梅木村・念仏寺村・上曽山村・地京原村・和佐尾村・椿峯村・日影村・鬼無里村等にわたる大姥山虫倉岳という高山が同夜の地震で抜け崩れた次第で、近ごろようやく通路もでき見分させましたところ、右の9か村はとりわけ甚大な被害でございます。そのうちでも伊折村・和佐尾村・梅木村・地京原村・念仏寺村の5か村は右山麓の近くで、念仏寺村の平沢組・臥雲組、梅木村の城之越組・親沢組、地京原村の藤沢組・横道組、伊折村の太田組・高福寺組・横内組・荒木組、和佐尾村の栗本組、計11組のうち民家70軒ほど、人199人、馬30匹が跡形もなく土砂に埋まり、これらの組はまったく亡所となりました。また右の村々の近隣の村でも、黒沼村では家49軒、人口235人のうち、潰れた家5軒が残り、ほか39軒と60人余りの人、馬6匹、また山中の田中村は家39軒、人口42人でしたが、これも跡形もなく土砂に埋まり、亡所となっておりますので、付近の村々でも地形の変動や家の倒壊、死者は夥しい数になると思われますが、いまだ調査が行き届いておりません。前条の村々は里とは違って村内の耕地も山道を隔てており、高地にもかかわらず面積が広く、何事につけ辺鄙な上、総じてふだんでも岩の積み重なる辺りを一歩ずつ歩くような険しい道ですが、このたびの大災害でもとの道の形がなくなってしまっており、当分詳細な見分は行き届きそうもなく、いかにも嘆かわしく心を痛めております。最寄りの被害の甚だしい村へは親身になって救援の手を差し伸べるようそれぞれ算段を申し付けております。これまでも幾度かお届け申し上げましたが、右の大姥山虫倉岳麓の村々の未曽有の被害の様子はとりわけ甚だしいため、さらにまたこの段お届け申し上げます。以上。
  4月23日
 
   翻刻
豊後守在所信州飯山の、3月24日亥の刻(午後10時)頃よりの大地震で破損の箇所については、先だって御用番様へまずお届けを差し上げましたが、その後余震が止まず、さらに破損箇所が生じ、今月6日阿部伊勢守様へ御届書をさしあげました。2度の概要は左の通りです。
(略)
一 用水路は水揚口より1里余りの難所で欠落し、そのほか村々の用水も所々破損しています。また往来筋の2か所で崩落し、山が崩れ、川が氾濫し、地割れが起こり、小さな橋が壊れ、立ち木が多数倒れて調査できず、負傷者も夥しく、体が不自由になって農業を続けられない者も多くいます。もっとも負傷者については数が多いため取り調べは困難な状態です。ことに飯山表では先月13日夜から14日まで、平常より1丈3尺増水し、流域の村々の田畑に水が流入した等の件については、先だってまずお届けいたしましたが、6日、左記の通りお届けいたしました。
(略)
   翻刻
○御預所御届
御名御預所の村々、何度かお届け申し上げました通り、先月24日夜未曽有の大地震で、高井郡・水内郡の村々では民家が押し潰されて死者が出たため、早速見分の役人を差し向けましたところ、とりわけ水内郡権堂村については、右の地震で殆どの家屋が壊滅状態になった上、善光寺町からの出火で類焼しました。死者について取り調べましたところ、左記の通りでございます。
(略)
右は御名御預所の信州高井郡・水内郡の村々、先月24日夜亥の刻頃未曽有の大地震で民家の倒壊、死者・負傷者がありました。焼失した家屋や死亡者を取り調べたところ、書面の通りでございます。もっとも死者について調べたところは、焼死ならびに圧死に相違なく、怪しい点は一切ございません。また他村の者もいませんので、それぞれに埋葬するよう申し渡しました。また防水堤や村々の耕地はもちろん、御普請所の土手も岸が崩れ地割れができ、泥水が噴き出している所もありましたが、好天のためそのまま干上がって、泥水の吹き出しは止まりました。地割れは幅1丈2尺くらい、深さ2、3尺あります。その上耕地一帯田畑に高低ができ、田の方は水を引くことに差支え、畑の方は容易に地ならしができません。右のような次第で、用水揚げ口の関枠が大破しております。そろそろ用水が大事な時節になります。旁々土手の崩落ならびに関枠について急ぎ御普請していただきますよう願い出たので、役人を出して見分させました。また両郡の村々には牛馬いたって少ないため怪我は一切ございません。また権堂村・中尾村につきましては、差し当たり食料が不足していますので、代官のもとから救援金を早速手配いたした次第でございます。そこで別紙にて権堂村の略図を添えて、この段お届け申し上げますよう役人より申して参りましたので、ここに申し上げます。    以上
                      御名家来
  未4月                   座間百人
   御勘定所
   翻刻
◯同じく水災御届
御名御預所信州高井郡・水内郡の村々は、かねて申し上げました通り、犀川の湛水箇所が今月13日暮れ時前一気に決壊し、民家の流失や押し流されて来る家屋などありましたので、早速見分の役人を差し向け取り調べましたところ、左記の通りでございます。
(略)
右の村々は全体に低地で、普段からわずかな水でも千曲川が逆流し、水を冠るところです。このたびは先月24日の地震で用水の篠井川の岸が崩れ水が溜まったため、組合の村々で堰を浚う普請中でしたが、まだ完了しないうちに、さらに大水で水深は深くなりましたが、家屋の流失などは一切ございません。もちろん耕地は一面に泥を冠り、別書のような状態ですので、容易には水は引かないと思われます。
(略)
右は御名御預所信州高井郡・水内郡の村々で、今月先にお届け申し上げておりました通り、犀川上流の御名御領分の山中筋の山が抜け崩れ、水が数日せき止められていましたが、今月13日の暮れ時前、右の湛水箇所が水圧でにわかに決壊し、数丈の水嵩の水が一気に流れ出して、流域の村々はもちろん、民家や田畑ともに水に押し流され、水害防止の御普請所も破損いたしました。とりわけ高井郡の村々のうち中島村・相之島村・山王島村・小沼村等多くが流失した模様で、早速見分の役人を送りましたが、これらの村々へ行く途中、冠水や水で抉られたり押し流された箇所が所々にあり、通行不可能なためしばらく見合わせておりました。少し水が引いてから村を廻り見分しましたが、言語に絶する有様で、食料の雑穀や諸道具など多く流失し、大百姓、小百姓とも途方にくれて嘆き悲しんでいますので、さしあたり食料や小屋掛け等の援助を代官所からいたしました。水難防止の土手の類、あるいは用水路の関枠などの大破した箇所は、今般御勘定様が御普請役でお越しでしたので、お願いしてご見分いただき、急破御普請目論見帳をご同人様の方へ差し上げました。また流されて亡くなった者については、取り調べましたところ溺死に間違いなく、怪しい点もありませんでしたので、埋葬するよう申し渡しました。この段お届け申し上げるよう、在所役人より申して参りましたので、ここに申し上げます。以上。
   未4月
御名家来 座間百人
 御勘定所様
   翻刻
◯山中のいずれの村の辺でしょうか、水がしだいに溜まってきたので、船を集めて水際に繋いでおきましたが、水が一時に引いてみると、船は高い山の木の後ろに引っ掛かっていました。それを引き下ろすのに林の中をかき分け、ようやく川辺まで出したとのことです。
 
◯笹平村の浪人村田亘は、ふだんから八幡を信仰していましたが、高波が打ちかかると見るや、兄弟して八幡の祠を持ち出し、蔵の後方の正面に出て、「神霊がお守りくださるならば、お救いください。流されるなら一波で流させください」と一心に祈念して、2人で祠を捧げて祈っていますと、不思議なことに高波が横にそれて、兄弟の身も蔵も無事に残ったということです。本人が物語った話だと、公事方勘定の片岡源左衛門が語っていました。
 
 
 
むしくら日記 貞
(略)