NPO長野県図書館等協働機構 信州地域史料アーカイブ

1.震災・火災・水害等災害の記録

地震後世俗語之種 第1冊 [現代訳] 

小人閑居して不善をなすと申します。私永井幸一は幼くして父母の愛情を存分に受けながら、親不孝なことに教えや戒めをないがしろにしてきました。今になって後悔することしきりですが、恩も罪も身に付いたまま、人前で無学の恥をさらしているのは、哀れにも恐ろしいことです。罪科消滅のための懺悔として自らの罪の所以をここで子孫に語ろうと思います。
養父が病に倒れ、ついに遠く旅立たれたにもかかわらず、まだ若かった私は看病を怠ることを覚え、実母がこの世を去られた時もまた同様でした。後年、道を誤って江戸にいたときには、実父が病を得て遠く旅立たれたその日も知らず、父母が健在の間は故郷を離れていたのです。これは聖人賢者の教えを守らなかったためと後悔しています。自らが招いた禍いは逃れがたく、健康を損ね、恥を忍んで再び故郷に帰り、養母が立腹されるのをたしなめて許しを願いましたが、これを受け入れてはくださいません。数日仮住まいをして妻子とともに辛さに心を痛めていましたが、困窮も極まって日々病に苦しんでいました。
折しも夏の日の夕立が篠つくように降り、雷鳴は耳をつんざかんばかり、稲光に目もくらんで恐ろしいという言葉ではとても足りません。このとき私は怖れおののいて「酉夢(ゆうぼう)が父を打ったところ雷がその身を裂き、班婦(はんぷ)が母を罵ったところ、毒蛇がその命をうばった」という『童子教』の一節を思い起こしておりました。指を折って罪を数えてみると、私は鳩や烏さえ知る親に対する礼節も知らずにいました。私のような不孝者でなくて、いったい誰が罰を受けないでいられましょうか。今にも身を引き裂かれるかと、苦しみ堪え難く気も狂いそうな思いでいました。父母との死別までの日々も残り少ない頃に養家を継ぎながら不行跡の過ちを犯し、今路頭に迷ったからと自分勝手にも再び家に帰りたいと思っているが、養母は怒ってこれを許しません。これらはつまるところ、ほかでもない自分自身を恨む以外にないことです。妻子がいなければ剃髪して出家したい、もし不幸になるのも厭わない無分別さがあるならば、このことを相談したいものだと、しきりに心を痛めて悲しみました。痛ましいことです。それ以来風雨を恐れ物事におびえることが骨身に沁みて逃れることができません。これが即ち私の病の原因で、ひきつけの症状が出て治療をしても治らず、病に苦しむことは語るも恥ずかしいことです。
さて我が娘順は養母の愛情を受けて成長したので、祖母と孫との愛情が架け橋となって初めて詫びを受け入れてくれました。このことを考えると、我が子を愛しその孫を慈しむ思いやりは、「子を見ること親にしかず」というとおりで、有難いことは言うまでもありません。しばらくして養母も重い病に臥してあの世に旅立ちました。この時初めて看病もし、野辺送りも務めましたので、自ら念仏を唱え考えたことは、心は出家し墨染めの衣を着て世の辛さを覆い隠したとしても、煩悩は捨て難く、妻子が行く末に迷うのも顧みず、出家してますます罪を重ねることこそ恐ろしいことだ、ということです。
養母の亡くなられたときの看病の外、孝行らしいこともいたしませんでしたので、自ら名前を改めて幸一としました。わたしは未熟ではありますが、人々に未熟の恥をさらすのも厭わず、自らの罪を消しこれを子孫の幸いにしたい、また一は万物のはじめとの意を込めた幸一です。「過ちを改むるにはばかることなかれ」と申します。左に記した大災害の記録も、書いたことを後悔するような出来で、細部まで愚かで、半ばまで綴って読み返してみると、書いた本人さえ笑ってしまうような拙い所も多々あります。さらに暇を見て書き損じを直し、〈この本の内には、善光寺の由来に似たものや、また今の御堂を建てた時の経緯を書いたところ、ある人が来て詳細を語ってくれました。しかしこの本はもう綴ってしまってあり、ことに大災害のおおよその様子を書くのが趣旨ですから、改めて善光寺の由来を書き直すこともしませんでした。その詳細を聞くことができたのは幸いなことですので、別録として書き写し、子孫に残します。〉清書したいと思いますが、病のため満足にはできません。書いたものが散逸してしまうことが心配で、とりあえずこのまま仮に綴じておきます。もし行き届かずに清書も終わらないまま子孫に伝えても、決してその拙さを謗(そし)ってはいけません。また私の無学の所以の罪過を懺悔・消滅するためにここに書き加えましたので、子孫に至るまで後悔の2文字を深く心に刻み、取り返しのつかないことにならないよう気をつけなさい。まさに「前車の覆るを見て後車の戒めとなす」(『童子教』)ということを伝えるばかりです。
嘉永元年(1848)戊申夏
 
 
伝え聞くところによると、地震は陰陽の昇降・浮沈の遅速によって起こって雷となり、また地震となるということです。春夏秋冬によって浮沈前後の違いがありますが、おおよそ春に寒さがなかなか去らないと暴風が起こり、立夏から夏至に至る頃の冷気で地震が起こり、秋に残暑が続いて邪気が発生し、立冬から冬至に至る頃の暖気で地震が起こるという例は少なくありません。これはみな陰陽が不順なためで、自然に悪い病気も流行し、草木にも影響が出るそうです。水と火の勢が大空でこすれ合って雷となり百里に響き渡っても、遮るものがないため動きは起こりませんが、地中では遮るものが多いため大地を動かすのだといいます。これはみな陰陽五行五性(木火土金水)の変化によって起こるものだそうです。
さて弘化4年(1847)丁未3月の下旬24日の夜亥の初刻(午後10時頃)、思いもかけない大地震が起こり信濃国全域をひどく破壊しました。ことに水内・高井・埴科・更級・筑摩の5郡では、地・水・火の三災が人々や牛馬、山野田畑に与えた被害は前代未聞で、言語を絶するものでした。この災害のあらましを、何とかして拙い筆で書き留めて、子孫代々の慰みに書き残そうと考えましたが、「幼時不勤学、老後雖恨悔、尚無有取益」(『実語教』)(幼い頃きちんと学ばなかったことは、老いてから後悔してもどうしようもない)ということです。今紙を撫で筆を舐(な)めながら起こったことのあらましを考えても、何から書いたらよいかも思いつかず、一生懸命考えればなおさら混乱してきます。親の教えも馬の耳に念仏、悔やんでも取り返しのつかない無知無学で、述べる考えはまったくの俗物のたわごとで、卑俗な話ばかりだと笑う子孫でもあるならば、私は草葉の陰で喜ぶことでしょう。あれこれ考えてようやく思案も定まり、金釘流の文字でも要領を得ない文章でも、書き残してさえあれば後世まで伝わるであろうと思うものの、おそまきながら後悔することは、結局は「幼時不勤学」(幼い頃勉学に励まなかった)のためなのです。この本は勿論のこと、文書の類を無用のものと粗末にして、襖の下張りにしたり紙屑のように扱うことは決してなさらぬように。俗語のくせに長々と不平を並べるのも、やはり春の夜の笑いの種にでもなればよいとの思いです。「子を見ること親に如かず」と言います。残念に思うことは、ただ家に記録がないことなのです。
弘化4年(1847)丁未の夏、麦畑の中に仮住まいをしていた時、退屈のあまり窓辺を掃き清めて、十六夜(いざよい)の月の光を行灯がわりに、たわむれに書いて子孫の慰みのために遺すものです。
  皆真館主永井幸一
 
 
さて善光寺如来の伝書(善光寺縁起)をまねたり、また当地の繁栄を記したりすることは、よく知らないくせに物知り顔で、またこの書を遠国の人に送るわけでもないのにいたずらに紙数を費やし自己満足で書き散らすに等しく、何代も後の子孫がこれを見ればさぞ嘲笑することでしょう。私が思うに、満ちれば欠けるのは習いというものです。遠隔の地の物知りは山国の人を侮って、話す言葉は鳥獣に等しいと思い、人間が四つん這いで歩かないのを不審に思うのです。今この小冊子を残して、諺にいう「おごる平家は久しからず」ということを子孫に語り伝えたいと思います。天明の頃初めて当地に雪駄2足を商人が持って来たのを、買おうかどうしようかとさまざまに議論したそうです。わずか6、70年余り後の今では、ビロードの二重緒(ふたえお)の草履さえ昔のものに思い、八幡黒(やわたぐろ)のサントメ革が流行っています。また私が幼少の文化時代には、時折訪れる客をもてなすのにも内津のさざ波や一森などの煎茶が最上のものでしたが、わずか20年余り後の今日では、「都の辰巳鹿ぞ住む世を宇治山」と歌われた、宇治の選葉も良し悪しをあれこれいうのを常としています。このように贅沢になっていくのを天がお怒りになるのではないかと恐ろしく思われます。人間生死を考えるときは、流行や贅沢を深く慎み、国中みな兄弟のように仲良くすることに努め、子孫の存続を考えていくべきです。
今天災によって、わずかな間に繁栄は昔に戻ってしまいました。このような盛衰を眼前に見ることを思い、むなしく筆を執って憂鬱な気分を紙上にさらして、代々の慰みに残すばかりですので、これを読む人はどうぞお笑いくださいませんように。
そもそも信濃の国の善光寺三尊弥陀如来の由来は広く世間の知るところで、霊験もあらたかです。三国伝来の伝書(善光寺縁起)によると、人皇30代の欽明天皇の御代に初めて日本にお渡りになって、36代の皇極天皇が蘇生なさった縁で、本多善光に勅命があって、諏訪の国にお連れして安置いたしました。今でいう伊那郡座光寺(元善光寺)がこれです。天平3年(731)壬寅の年に諏訪国は信濃国に改められ、この信濃の芋井の郷にお遷しいたしました。このとき高島郡諏方明神の神職がどのような縁によってか本多善光とともに供奉しました。その血脈は、善光寺一山のうち今の中衆に今日まで続いているそうです。今もなお御仏の御越年のお宮として、恐れ多くも公儀御普請の建物で師走の二の申の日の夜、秘密のうちにこの行事が行われます。この夜、市中の人家は勿論のこと、鳥や獣さえも少しでも声を立てれば必ず神の祟りがあるといって、怖れて静まり返っています。御越年が首尾よく済んだことを知らせる大鐘が四方に響くのを待って、参詣者が群れ集うことは今も昔と変わりません。これはまったく神職の血統の方々の修行によるものでしょう。もっとも秘密の行事なのでその詳細は分かりません。
今の御堂の北西に箱清水村があります。その周辺は芋井の郷で、村の中に深田の郷があります。村の入口の傍らに十人河原という地名があります。その昔、如来誦経のお布施として深田の郷の200石を、12院に分け与えていました。なおその頃、これらの院は江州三井寺の末院であったといいます。これは善光寺一山のうちの衆徒だそうです。数百年の年月を経て、十二院という地名だけが残っています。これを誤って地元の人は今、十人河原と呼んでいるのだそうです。
一山の4つの門には勅額があり、東門を定額山善光寺、西門を不捨山浄土寺、南門を南命山無量寿寺、北門を北空山雲上寺といいます。
月かげや四門四州(宗)もただひとつ  芭蕉翁
かつて定額山善光寺は東門で、御堂も東向きでしたが、幾度か焼失しました。とりわけ寛永19年(1642)壬午5月9日の出火では町々や御堂が類焼しました。その頃大勧進方と大本願方との間で論争があって、仮の御堂を二つの寺の間に建てましたが、御堂を再建し御仏をお迎えする計画も延期になり、ご本尊を焼け跡に安置いたしました。慶安3年(1650)庚寅に揉め事も片付き、7年(正しくは17年)が過ぎた寛文6年(1666)丙午4月15日に御堂へお遷しいたしました。元禄元年(1688)(実際には元禄5年)初めて如来堂建て替えを願い出て諸国で寄付を募りました。元禄12年(正しくは元禄11年)(1698)戊寅、現在の場所で地鎮祭をして、普請が始まりました。同14年(正しくは元禄13年)(1700)庚辰7月21日、下堀小路より出火し、南風が激しく吹いて普請中の御堂も材木も類焼しました。そのため再び国々に寄付を募って、同16年(1703)癸未から普請が始まりました。この時大勧進・大本願両寺から願い出があって、松代御城主様より普請の指揮のために諸役人を遣わされました。惣奉行小山田公をはじめとして上下の人数125人、役の割り振りについては別の記録に詳しいのでここでは省略します。元禄16年未の8月(実際には翌年3月)改元されて、宝永4年(1707)亥まで5年がかりで建立されました。善光寺本堂は大伽藍で、あまねく世の人の知るものですが、わずか5年で完成したことは本当に尊敬に値することです。その概要を記しますと、
本堂(桁行29間3尺1寸5分・梁行13間7寸5分)高さは礎石から箱棟まで9丈、坪数387坪3合。その他については別録に詳しいので省略します。
柱立 宝永3年(1706)戌4月16日
上棟 同亥年(1707)7月1日
入仏 同8月13日  供養 同8月15日
その他は別録に詳しいので省略します。
これが今の御堂で、諸国からの参詣者はたいへんな数に上り、前代未聞のにぎわいで善光寺の街はいうまでもなく、近辺までも宿泊する人が多くいます。お籠りする人々は境内に満ちあふれ、言葉では表せないほどだといいます。昔欽明天皇の御代、年号さえ定まっていなかった昔、日本へお渡りになってから、現在弘化4年(1847)丁未まで千数百年の長い年月を経ていることは、あまねく世の人の知るところです。このような古くからの霊場ですから、年増し日増しに繁昌し、諸国からの奉納・寄付の品々は善美を極め、参詣の人々は百里の道も遠しとせず、老若男女は往来の足労をも厭わず、ここに集まって来ます。またここは北国街道の道筋で、多くの旅人が行き来します。領地は入り混じっていても、世間で善光寺平と呼ぶその一続きの広がりは、北東から南西に10里余り、東西は5、6里で、ずっと平地が続いています。山国ではありますが、山中のあちこちに多くの村々があります。いずれの村も市中に出るのに便利で、多くの炭・薪・麻・木綿・雑穀を大量に商っています。北の海までわずか15、6里の道を通って朝夕鮮魚が運ばれ、川の産物は有名な千曲川・犀川から手を打つ間に井戸の中に届き、田も畑も二毛作で収穫できます。そのほか山海の魚鳥、四季の野菜、もやし・青物のたぐいは売り子の呼び声も終わらぬうちに鍋に入って調理され、3歳の子でも料理を味わっていて、蒲焼の味を知っています。形の大きな魚を重視しますが、その一方で小魚の軽さを好みます。ことに毛や織物のたぐいは、諸国の新製品・最新流行を好み、まったくことわざに言うように、「京に田舎あり」(よい土地にも田舎めいたところがある)と言うことができましょう。
そうした中でも当地は、言うまでもなく東西南北に通じる街道が近辺までもことさらに便利で、多くの参詣者が集まって来るのは、善光寺には常念仏堂があるからです。7、8年おきに5万ないし6万の日数を数えて惣回向が行われます。また結縁(けちえん)のために前立本尊の御開帳があります。これは長年の例で3月10日から4月30日まで50日間行われ、その間のにぎやかなことは辺境の山国には珍しいことですが、ここは仏都と呼ばれているのですから、お疑いなきよう。長年の慣例の式作法をはじめ、町々の奉納の飾りつけ、繁華な家並みまで、その略図を描いて紙数の中にさらしておきます。
 
(1-19図について)
○次の札は前年の10月十夜にあたって、三都をはじめ当山の二天門前に立てるのが慣例だそうです。それを今弘化4年(1847)未のご回向(御開帳)のために午年(弘化3年)9月10日に立てられたのは、どのような理由によるものか詳しくはわかりません。この時別当の大勧進(大仏頂院権僧正山海)と松代の殿様(真田幸貫)が以前から懇意の間柄だったため時候のご挨拶にお城に伺い、懇ろにおもてなしを受けたいへん立派なお土産まで頂戴して、ご訪問の趣旨を全うしてお寺にお帰りになったと言います。この時誰ともなく話をでっち上げて言うことには、10月十夜になって札を立てるのが慣例なのに、なぜか30日も早く届けも出さずに立てたということだが、このため種々の商品の買いだめを促し、また値上げをたくらむ風潮に人々が騒ぎ立つことが3ヶ月で済むところを、4ヶ月もの混乱であったということで、これについてお尋ねがあったため、お詫びにお城に伺ったがお許しがなく、このためご回向は取りやめになったというのです。この時私も松代にいましたが、城下町ではもちろん、御家中でさえ専らそのように取り沙汰されていました。私も心配しましたが帰るる道すがらもいろいろなうわさが流れていました。帰り着いてもまたこのことを聞くと、もはや立て札は取り下げられたということを話題にすることが多くありました。これは流言で取るに足りないとはいっても、3月24日ご回向が最高潮の時に、諸国の旅人が幾千人となく一時に命を落としたことを思うと、このような大災害の前触れでもあったろうかとも疑われます。
○弘化3年(1846)午の10月1日は一日中快晴で、2日には雨が降りました。3日はまたお天気で4日は一日中雪でした。5日も終日雪で午後1時ころからは大雪になり、厳しい寒さになりました。午後5時頃には激しく雷が鳴り、雨戸や障子の内までも稲光が凄まじく、肝を冷やすほどでした。こんな大雪のさなかに雷のような異変が起こるのは、やはり陰陽昇降の遅速によるものでしょう。私が日記に記しておいたことを、このような大地震の原因ではないかと思いつくままにここに記します。浅はかな考えかも知れません。
 
そのだいたいのところを言えば、まず名高い犀川の渡し舟があり、水量の多少によって、2艘あるいは3艘を使って綱を手繰って旅人を渡します。その犀川の川上は木曽川で、山中の谷間を流れて平野に至るので、川原がたいへん広く、浪は荒く流れが速くて、そのため綱で舟を渡しているのです。遠近の通船や筏に乗る商人も船頭の舵をたよりに荒波の中を上り下りします。清らかな月は浪のうねりに光を映し、初秋を告げる雁、行き交う鴨などどれもこれも趣き深い光景です。千曲川・犀川は合流して北の海に流れ、名物の川鮭もこの辺りで穫れますので一瓢の酒を携えるのもまた一興です。夜に旅する人は吹上(荒木村の地名)の石灯籠を見て、旅の疲れを忘れ、もう善光寺に着いた気分になって、宿場に入る馬の鈴の音もおもしろく、馬子唄を聞きながら荒木村を過ぎれば、中御所村に至ります。その昔
 
(1-23図・1-24図について)
◯前の図は、この『地震後世話の種』(正しくは『地震後世俗語の種』)を書写するにあたり、私の家の近辺のその当時のありさまを描いたものです。
船番所は市村(長野市若里)の船頭たちがこの村の地所を永借して建てたもので、舟着き場が変わるため渡船の便をはかってこの場所を決めたものです。舟着き場は最も川上にあった時は、裾花川の合流点を過ぎてそこから南下して、丹波島宿本陣の真北に当たる場所で、最も川下にあった時は綱島の裏にかかっていました。そのころ俗説で、舟着き場が川上にある時は米穀の値段が上がり、川下にある時は値段は下がると言ったものですが、やはりその通りになったのは、たいへん不思議に思われたことです。
明治34年(1901)初秋  芹田村荒木 二川亭柳霞 記す
 
征夷大将軍頼朝公が建久年間に善光寺に参詣された時、仮御所に定められたため字を中御所としているのです。ここには大将軍の守り仏である髻(もとどり)の馬頭観世音、政子御前の守り仏である正観音、弘法大師作の地蔵尊を安置したお堂(観音寺)があります。ここから3丁ほど歩くと石堂村(正しくは妻科村石堂組)です。かるかや親子地蔵尊の古跡(かるかや山西光寺)があり、石堂丸の因縁によって字を石堂村というそうです。ここから善光寺本堂まで左右に家並みが続き、商人たちが思い思いに店を構えて家業に励んでいます。町全体の様子を略図で表してあります。さて近ごろとりわけ町は繁栄し賑わいを増して、一から十まで何一つ足りないものはありません。ましてや前述の通り善光寺如来御回向(御開帳)ということで、来年のことを言えば鬼が笑うと申しますが、前年からお互い競い合い、精魂込めて利益を上げる工夫をし、いろいろ目新しいことを企てています。そのほか旅籠屋・茶屋などでも、煤を払い行灯を張り替えて、年の明けるのを待ちます。あるいは芝居や軽業・曲馬をはじめ、あちこちで評判の出し物を求め、金に糸目を付けず工夫をすることは、なかなか大したものです。
 
ようやくめでたく年を越し、若水を汲む音に変わらぬ緑の松風の音を添えて、鉢植えの梅・福寿草も揃って咲くこの春を迎えました。初日の出が青畳を照らし、縁起物の数の子なども取り揃えて、松竹梅を熨斗(のし)包みにして、杯に屠蘇をなみなみと注げば、「浪のり船の音のよきかな」の初夢、初鶯、初若菜と続き、「七草なずな」と歌いながら七草をたたき、のどかな日を今日明日と過ごしていけば、「光陰に関守なし」で、引き止めるすべもないので、いつしか桜桃も咲き柳の糸は春風に乱れ、弥生の節句も過ぎ行けば、去年の秋から待ちわびた御回向の初日が近づき、家々は準備に大忙しです。家ごとに立て連ねた提灯には、一様に紅色で立葵と卍の紋が描かれ、近くで見ればその形は分かりますが、遠くから見渡せば紅白の色が混じって杏の林に入ったかのようです。少し歩いて横丁や路地を左右を見ながら行けば、これまた同様で、まだ秋ではありませんが紅葉の錦を飾るのを見るようです。
町々の寄付した奉納の幡は猩々緋(しょうじょうひ)のラセイタ(毛織物)、五色の吹き流しは絹や木綿で作られ、棹(さお)の上には金銀の玉、または日月をかたどった飾りをつけます。夕日があかあかと照らす時には綺羅星のごとく、また玉のごとく、幡・吹き流しは風になびいて空に横たわります。幟(のぼり)をはためかせる風の音は、旅籠に旅人を呼び込む声にまぎれて、どちらがどちらとも聞き分けることができません。
 
二天門跡から敷石の道を4丁歩けば本堂です。左右には数十軒の店が立ち並び、小間物や善光寺みやげを売り、あるいは果物・干菓子のたぐい、御影・絵図・流行唄(はやりうた)の本を商い、またお休み処の床机に腰を下ろして旅人を呼び込む女は、年もちょうど二八(16歳)くらいか、二八蕎麦より細い腰に、山繭の入った紫御納戸色の縮緬の紐を付けた前掛けをしめて、酒や食事を商っています。
すしや天ぷら、蒸し菓子などの屋台はぶら提灯をさげ、また風鈴の音色とともにさわやかな声で客を呼び止め、あらゆる品々を商う店が4丁あまりの敷石の左右に2列に軒を並べます。一山衆徒(宿坊)の門前には、破風屋根を付けた台提灯を一斉に並べ、小御堂はお布施の品々を掛け並べ灯明を灯しています。床店の裏通りには、曲馬・軽業・芝居をはじめ、思い思いの見世物小屋が20軒余りも建ち並び、表に掛けた名題看板には浮世絵の名人が彩色をほどこし、大入りやひいき役者のぶら提灯を日除けの下に数多く提げています。見物客は木戸口で押し合い、笛・太鼓の音が耳をつんざかんばかり、三味線の美しい音色が流れ、口上言いは冗談まじりにやたらにしゃべり、見物客の笑う声は辺りに響きます。居合い抜きの薬売りは真(ま)に受けた客の顔色を窺ってほくろを取ってみせ、真鍮(しんちゅう)磨きや銀流し、あるいは口中一切の薬・歯磨き売りは4文銭を噛み砕いてみせて利口ぶった客の気を引き、七味唐辛子売りは冷茶で口を潤しながら、声の嗄れるのもかまわず一味一味について効能を述べ立てます。熊の油即妙膏、吉井の火打石売りは石を摺り合わせて火口(ほくち)に移してみせ、占い師はまの卦(け)にあたっているのを取り上げてでたらめを言い、あるいは三国一の甘酒・山川白酒のたぐいを売るものがあります。葦簀(よしず)掛けの茶店は流行の焦げ茶や深川鼠、呼び込みの声は華やかではありませんが、雪輪・乱菊・桜草などしゃれた模様を一幅に2つ3つずつ染め抜いて、どの店も新奇な工夫を凝らし、鐘楼の傍ら、松の木立のあちこちに囲いを構えて、その賑わいは例えようもなく、拙い筆ではなかなか千分の一も書けせん。
その他にわかに集まった寄付・奉納の品々は、近郷近在には負けまいと、江戸・京都・大坂の千人講あるいは念仏講・御花講・女人講からの善美を尽くした奉納品が、所狭しと並べられています。日も西山に傾いて入相の鐘が響き渡ると、数万のありとあらゆる品々が蝋燭やカンテラの光に映えています。夜店の賑わいはまたことさらで、覗きからくりや富くじ小屋の灯りはもとより、参詣の群衆の提灯が夜を照らし、その炎は空に映り輝き、たとえ白昼でもよほどの晴天でない限り勝ることのできない明るさです。行き交う人々はただもう見るもの聞くもの珍しく、東西南北も分からず歩き回るその賑わいは、たとえようもありません。
 
慣例として3月9日の午後3時頃、御本坊大勧進の表門から輿を出し、前立本尊のご宝龕(ほうがん)、御印文のご宝龕が、錦帳華やかに、美々しい行列で、ご本堂まで練り歩きます。警護の僧衆や諸役人が前後左右を守り、合図の鐘を打ち鳴らすと、一山の衆徒が山門の際まで出迎え、恭しくお供をしてご本尊を本堂にお遷(うつ)しします。供物をはじめ生花・造花・香や蝋燭を捧げ飾り付けた様子は、善美を極めています。翌10日には御別当権僧正様が中輿でお練りをされます。これは日光御門主様(輪王寺宮)から拝領の輿で、金銀の金具が輝き綺麗という言葉ではとても足りません。
(1-38・39・40・41・42図について)
ここで一言口上を述べさせていただきます。このような大災害の時期を生き延びて、何とかして子孫の慰みにでも書き残したいと思いましたが、前にも述べたように、生来不器用で文章も不得手なため、心の中の考えをきちんとまとめることができません。いくら筆で硯をかき回していても、習わぬ経の読めるはずもなく、けれど後の時代になってしまえば話も伝わらなくなってしまうだろうとようやく決心して、子供だましの俗な書きぶりで、ここまで勝手にたらたら述べてきましたが、ここで我が子乾三が机のもとに来て、御回向は真っ最中の賑やかさで、また初の十日御練りもありましたので、その御練りの行列の様子を話してくれと言います。正確ではないけれど、そのだいたいのところを話しましたが、幼いためによく理解できず、あまりうるさく尋ねますので、しかたなく大雑把にうろ覚えの様子を絵に描きました。まさに「話を絵に描いたよう」という諺の通りです。その上またこの本の中に綴じ入れろと言います。これもまた子孫の代になって春の日永、秋の夜長の折、砂糖豆も食べ尽くしたら、じじばばの昔話の種の一つにでもなるでしょう。「話を絵に描いたよう」などと冗談で描き、そのままここに綴じ入れたもので、あまりに厚顔無恥とおっしゃる方もあるかもしれませんが、これもみな子孫への愛情ゆえとお笑いください。
 
私幸一は、また子孫に伝えたいことがあります。私は幼い頃から今回まで4度の御開帳を経験しています。その度に町々でいろいろの品々を奉納・寄付するのは先例に倣ったことですが、家ごとに立て連ねた高張提灯もそのたびに同じというわけでもなく、近ごろはとりわけなんでも贅沢に変わり、華やかで風流にということを専らにする様子には、言うべき言葉もありません。今この大災害を受けて、数々の財宝が失われましたが、とりわけ二度と手に入らないような重要な書籍・書画の類、器具類、古代の名器などが一朝一夕のうちに粉微塵(こなみじん)の山と成り果てたのは、残念な、また恐るべきことです。
この町に年中行事や神社仏閣の縁日・祭礼など賑やかな行事は数多くありますが、その中でも6月13、14日の2日間、以前からの慣例として町を東西に分けての祇園会の祭礼は、狂言屋台・鉾・練り物・燈籠にいたるまで、焼けたり傷んだりしたものが多く、私の子孫たちはその様子を見ることはできないでしょう。また西町・横町では、それぞれの市神の祭りの夜店の市の賑わいも、これまた同様だと思われますので、暇があれば後編に図画を載せて子孫の楽しみに遺したいと思います。
このように贅沢にふけり、幼い子にいたるまで華やかな生活に満足しています。したがって6万5千日を積み重ねて迎える御回向と、前立ち本尊御開帳の様子も、さぞ華やかなことと思われました。以前からの茶屋・旅籠屋はもとより、新たに敷地を広げ家を増築して、軒を並べて儲けを競い合い、人に負けまいと心を砕いて、商売に新たな工夫を凝らしたり出店を出したりする者も少なくありません。私もまた、運に恵まれず暮らし向きも不如意ながら、人が皆商売に新しい工夫を凝らしているのに、空しく日々を過ごしていてはいけないと考えました。御回向ということで、遠来の客も多いので、また出費も多いことでしょう。ふだん質素を心がけてはいますが、このようなめったにない賑わいに、家の者たちも思うままに参拝し、料理屋に寄って酒を飲んだり茶漬けを食べたり、あるいは芝居・軽業・見世物なども思う存分見物させたい、それにつけては流行りの着物でもと、親の苦労も知らず贅沢を好んだり他人を見て羨むことは戒めるべきことではありますが、すべて家族を思う気持ちのなせる業でやむを得ません。
幸い思いついたことがあって、善光寺は古今二つとない霊地で、年々歳々多くの参詣の旅人が集まりますが、これこそ善光寺参詣の土産というものがありません。そこで当地に因縁のあるものを工夫して菓子を作り、また御開帳の折なので子供のおもちゃに小さい幟をこしらえ、値段を安くして遠くまで持ち帰りやすいようにと、おおよその心づもりはありましたが、よい場所でこのくらいの店構えでと望むと、これもまた簡単なことではありません。そこで私の実家である久保田家(善光寺大勧進家老)に相談をいたしましたところ、もとより血縁は特別なもので、親身に心配して御本坊(大勧進)へ内々のお願いをしてくれましたが、(菓子に使う)四門の尊号は勅額の写しで尊重すべきものでありますから簡単にはいきません。しかし、他でもない願い出で、ご許可もあるはずではあるが、役人たちの考えもあるだろう、ついては御本坊より内々に仰せがあって内実はご許可いただけるはずであるとのことでした。しかし表向きは地方(じかた)の係である中野氏(大勧進寺侍の第二席)に願書を提出しなさい、とのことでしたので、
 
おそれながら書面をもってお願い申し上げます
今般御回向につき、境内の駒返橋近辺に土地をお借りして、出店を出し商売したくお願い申し上げます。格別のお慈悲を以て、右の願いの通りお聞き届けいただきますよう、平にお願い申し上げます。以上。
 弘化4年午3月   権堂村
             願人  庄五郎 印
           横沢町
             親類差添 弥助 印
    中野治兵衛様
 
(1-46図について)
内職の出店梅笑堂
○場所駒返り橋西側の際
間口3間半、奥行き9尺
○この橋から上は、屋根のある店は許可されないことになっていますが、このたび梅若堂のみがご許可を受けました。
御本堂の裏はまた別です。
 
勅額を写した新製御免菓子の図
地は白く、縁と字はともに紅色、または地は浅黄で字が白などです。大きさは図の通りで、厚さは5分(1.5センチメートル)、包み紙は紫色です。芭蕉翁の句「月かげや四門四州も唯ひとつ」が印刷されています。
また紅摺りで「善光寺みやげ」という小さな札を銀の帯にはさみ、外に「新製まさご」と書き、大きさ色ともに図の通りで袋に入っています。
ただし袋の模様や小さい幟などは残っているものがあるので、それを見てください。値段は100文で4包です。
 
形式通り願書を提出して滞りなく準備ができましたが、江戸に注文した品物が間に合いません。3月15日は恒例の御会式(おえしき)で、ことに御回向の最中なので賑わうことは見るまでもなく明らかです。そこで14日の夜それぞれの品物を取り揃え、15日の夜明けを待ってめでたく開店したいと、用意をいたしました。境内は広いとは言っても所狭しと小屋を掛け並べ、ありとあらゆる品々を並べてたいへんな賑わいではありますが、あまりよそにはない店の飾り付けのため評判もよく、また繁昌し、家の者も喜びました。さらに仕入れも間に合ったならば、境内の宿坊や旅籠屋にもお願いして、座敷に上がって旅人に勧めるについては、「これこそもったいなくも当山勅額の写しで、お国元へのお土産です。これは当山御開帳に遠国からご参詣の皆様の、お子さんお孫さんへのお土産です。手軽でしかもご参詣の印です」と、口上も話し合って、朝夕笑顔に取り紛れながら手も足もくたくたになるまで働きました。
 
ここでまた子孫に語ることがあります。私が日常使っていた部屋があって、これを改装して座敷にしようと思って、袋戸棚を付けた床の間と仏壇を安置する部屋を造りました。折しも3月24日は吉日とのことで、襖を貼り腰張りも急いで仕上げ、ようやくこの日の遷座に間に合い、古い仏壇から仏様をお移しして拝礼いたしました。また座敷改装の祝いとして床の間には「松に寄せて祝う」と題する、綾小路宰相有長卿書の掛け軸を飾り、眺めなどしているうちに夕飯も遅くなり、暮れ六つ(午後6時)を過ぎる頃、ようやく膳につきました。このときは家族をはじめ〈この時善左衛門34歳・妻イト29歳・娘ジュン16歳・せがれ乾三9歳、松代中町の住人で菓子職人の長吉・同長兵衛・大工の大吉・庄五郎・女房タマ、この両人は支店の梅笑堂にいて、3度の食事は持ち運んでいました〉皆で膳について箸を取っていました。この時私が冗談で言ったことや、参詣に行こうとしてはやめ、また行こうとしてやめたこと、留守番をする者もないのに、せかされるような気持ちで出店の梅笑堂に行って、大地震に遭ったにもかかわらず死を逃れたことは、神仏の加護でありましょうか、凡人の私には分かりませんが、また不思議なことです。ともかく私が何気なく、「今の地震が分かったか」と家族に聞いたところ、そこにいた全員が顔を見合わせて、「知らない」と答えたので、「こんな普通と違う稀な地震を知らないとはあきれたことだ」と言って、皆で笑い合いました。これは前兆というものでしょうか。または諺にいう虫の知らせでしょうか。そうこうするうちに夜の食事も終わったので、留守番を頼んで皆で参詣し賑わいの様子を見て来ようと言って、子供をはじめ喜んで急いで支度し、留守番の者もようやく庄五郎の母〈おムメ。乾三が生まれた時に産婆を務めた者です〉と菓子職人の一人を残して行こうとしましたが、出かけることができず何か心にかかりながら、そのままにして家を出ました。まったくの凡人には、このような大災害があることなど知るよしもありません。連れ立って出店の梅笑堂に到着しました。
 
  四季に絶景の仮寝が岡の風流  したみの喜源(永井善左衛門幸一)述
春は梅の香りを慕って鶯が初音をさえずりながら軒を巡り、桃や桜が咲き海棠(かいどう)の花に露が置く頃には、青柳が糸を垂れ、山雀(やまがら)・瑠璃鳥もこれを慕って訪れ、緑を添える呉竹や常盤の松の枝にさえずり、毛氈ならぬ真菰(まこも)の莚(むしろ)を携えて田楽に親しむ身も、いつしか馬齢を重ね、気づかぬうちに月日は過ぎ行き、柴の垣根の山吹も衣更えの時を迎え、庭に香る卯の花は雪か月影かと疑うばかり、そこへ夢を覚ませとほととぎすが夏を告げ、牡丹の香りに誘われて蝶は庭に行きつ戻りつし、庵の軒に咲き連なる白紫の藤の花を眺め尽くす暇もなく、金色の菜の花の咲く田の面に水を引き入れれば、その景色は沖の波静かな海のよう、早乙女の菅笠があちらこちらに見え、遠くから聞こえる田舎歌は、鶴が鳴き渡るかと思われ、名高い千曲川・犀川の清らかさを船路かと疑うのもむべなるかな。そのむべの山(吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ 文屋康秀)ではないけれど、仮寝が岡(善光寺東側の城山)では雁の行き交う田の稲も年貢のために刈り取り、朝夕民の竃はにぎわうと、天子が眺めてお詠みになったことも恐れ多く(高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり 仁徳天皇)、有明の月も満月になり、いつしか初霜を照らす時節、まことに善光寺の時の鐘がなければ、年ごとに咲く花は似通い、年ごとに雪の積もるごとく髪は白くなっても、暮れ行く年を知らぬ顔、詩仏老人(大窪詩仏)が筆のすさびに「信中第一楼」と書き残されたのもまったくこの仮寝が岡の様でありましょう。昔この辺りの農夫が畑を耕していて金色の毘沙門天の像を見つけました。ここ本城仮寝が岡は(善光寺の)東北東にあたり毘沙門天に縁が深く、また鬼門にあたる里なので、ここにお堂を建て尊像を安置いたしましたところ、日増しに霊験あらたかになりましたので、秘仏として崇め奉り、人々には常に前立本尊を拝ませました。年が重なって多くの奉納があったのでしょう、愛染・管公(菅原道真)・稲荷の社が勧請されてあります。石段を降りた平地にあるその楼(「信中第一楼」と掲げた四宜楼)では諸先生方が書画の会合を催し、常に会席を設けています。のどかな春から「いざ行かむ雪見に転ぶ所まで」(芭蕉)の冬まで、四季折々の風流を楽しみ、御開帳の真っ最中の頃はさぞ繁昌したであろうと思われます。「地震後世噺の種」は、実りはせずとも、せめて唐箕(とうみ)にかけられて吹き飛ばされる籾殻くらいにはと、みみずの歌も歌の内との厚顔無恥は、結局はしたみ酒(燗冷ましの酒)の喜源(酔った機嫌)に任せた戯れ事とご覧いただきたく、ここに記しました。
 
さて支店梅笑堂でその賑わいを眺めますと、夜店の灯火は真昼のように明るく、町の老人や若者、近在の人々はもとより、遠近の国から長旅の苦労もいとわず訪れた旅人も賑わいに浮かれ、時の経つのも忘れています。常念仏の時の鐘が早くも亥の刻(午後10時)を告げるので、居合わせた者たちに店を閉めさせ、私は一人で参詣に出かけました。引きも切らず行き来する群衆を左によけ右にぶつかってご本堂に入ると、金銀珠玉の錦の帳(とばり)があたりを輝かせ、充満したお籠りの人々がいっせいに称名を唱えています。その様子には鳥獣といえども妄念を捨てて上品上生(じょうぼんじょうしょう)の往生を願う心を起こすことでしょう。私も人々とともに合掌して仏縁を誓い、三礼して正面の向拝まで出たところ、亥の刻を少し過ぎていましたが、たいへんな賑わいで、言語を絶することだ、と思う間もなく、北西と思われる方から恐ろしい音声が天地八方に響いて鳴動し、また何物かが土砂を巻き上げて、真昼のように明るい数万の灯火が、手のひらを返すように真っ暗になりました。親とはぐれたり、子供を見失ったりしても、それを捜すどころではなく、行こうとする者を跳ねのけ、しゃがみ込む者を地面に打ちつけ、歩くこともできず、5間(約9メートル)あるいは3間(約5.5メートル)と、前後左右に押しやられ引き戻され、幾千万の群衆はいずこへか散り散りになり一人としてその姿は見えません。天地がひっくり返って世界の滅亡する時が来たのか、あるいは私が先に押し潰されるか、人が先に攫(さら)われるかと、心の中で驚き怯えるばかりで、これはどういうことだと尋ねようにも、辺りに人影もありません。そうするうちにもその恐ろしい音は響き渡り、幾千万の雷がいっぺんに地に落ちたようです。起き上がろうとしても立ち上がれず、歩こうとしても足下も定かではありません。倒れたり宙に跳ね上げられたりして四苦八苦するうちに、しばらくして少しは鳴動もおさまって来た時に、考えたことは、たとえこのまま命が終わり我が身はここで亡くなっても、妻子はわずかに山門を隔てて出店の梅笑堂にいて同じ苦しみに遭っていることは明らかだ、たとえこの上災難に遭ったとしても妻子と同じ場所で死のう、さもなくば子は自らの苦しみより親の安否を心配し、妻は夫の行方も分からないまま空しく一命を終えることになる、このような変事に遭って、妻や子への情に迷って死の覚悟もできないとは、人の謗りも恥ずべきことです。しばらく迷っておりましたが、夫婦ともに亡くなったら、幼い子は誰を頼って成長できるだろう、また子供もともに亡くなったら私たちの死後誰が香華を手向けてくれるだろうと、これはみな凡夫が家族の情愛に溺れたためなのです。決意を固め、ひとまず走って山門の下まで行くと、案の定真っ暗な闇の中を私を呼んで取りすがる妻子をはじめ、出店にいた者たちはいずれも無事で、ひとまず安心しましたが、お互い安否を尋ねるでもなく、ここで死ぬものと思い決めて、悲嘆し恐怖するばかりです。一方群衆は親や夫にはぐれ、妻子や道連れを見失い、誰彼と思い思いに名前を呼んで尋ね求める声はたいへん哀れに辺りに響きます。身の置き所もなくさまよい、泣きわめく声は心に響きます。「地震だぞ。うろたえるな」という声も聞こえます。ようやく地震であったことを知り、次に怖れたことは、このような大地震では地割れが起こって地中に飲み込まれてしまうのではないかということでした。そこで梅笑堂にあった板戸・敷物などを取り出して敷石の傍らに敷き並べ、その災害を防ごうとしました。このときようやく神仏に祈ることを思いつき、北辰霊府尊星王・象頭山大権現・一代の守護八幡大武神を妻子と共に念じ、刃物の持ち合わせもないので、脇差しを抜き、もとどりを押し切って(出家する行為)心願を祈りました。
辺りを眺めてみるといつしか火事が起こって盛んに燃えています。方角は大門町の上の方、東横町の中程、東之門町の西側中程、この3か所が手始めでした。火事だ、火事だと騒ぎ立てる声はおびただしいものの、ただうろたえ騒ぐばかりで駆けつける者もなく、途方に暮れるばかりです。間もなく西之門町新道辺りから火の手が盛んに上がり、すぐに御本坊(大勧進)さえ危うく見えました。皆ただ茫然として心を痛め、肝を冷やして神号を唱え、念仏を唱えて苦しみから逃れようとしました。時節柄、風は激しく火の勢いも激しくて盛んに燃え、大本願上人様のご院内・中衆・妻戸が瞬く間に焼失し、仁王門に吹き付ける火の勢いはことさら恐ろしく、仁王尊をはじめ伽羅仏の尊像の毘沙門天・大黒天を焼き払い、早くも左右の店に襲いかかり、引き続く火事の勢いはますます盛んになります。そうするうちにも横山・宇木・相ノ木と思われる辺り、また東町・岩石町・新町辺りも同様でしょうか、いずれが先とも後とも分からないほどです。新道からの火災は、西之門町・桜小路・阿弥陀院町とどこまで焼け広がっているかも分からず、町一面の炎が空に映っています。倒れた家々の下では下敷きになった人々の泣き叫ぶ声、親を求め子を呼ぶ声、神仏に祈る声が騒がしくまた哀れで、この上どうなるかと悲嘆することは並大抵ではありません。そうするうちにも何度も余震の鳴動があり、地獄の責め苦もここまでかと、どうしようもなくておりました。家に帰ろうにも一面の大火で、どうしようとの考えも浮かびません。
この時庄五郎が権堂の家に戻って、様子を見て来るようにと相談しました。「我が家もいつ火にのまれるかわからない、万に一つもまだ無事であったら家財はまったく惜しくはない、(名主としてお上から預かった)御制札と書類を何とかして持ち出し、もしも我が家が焼失していてこれらの物さえ持ち出せないのなら、そのことを直ちに知らせなさい、またできれば二条殿下直筆の額、また私が何年もお願いして実兄(大勧進家老)からいただいた大切な品で同じく直筆の掛軸、堂上方の筆になる六歌仙の額、これらはいずれも同様の品なので、何とか無事であってほしいと願っています、怪我をしないように気をつけて、危ないところには絶対近寄らず、不安があったら引き返して、行くのはやめにしなさい」と指示しました。
「私は4、5年このかたの大病で、こんなふうに精神的にも混乱し胸も苦しく頭はのぼせて、今夜の命もおぼつかない、お順は母を思いやり、力を合わせて病気などしないよう乾三を育てなさい、また幸い良い縁があって嫁いだなら、女はすべてにわたって常に気を配り慎み深くしなさい、乱暴な物言いは聞き苦しいこと、夫を天と仰ぐことを心に留めなさい、女には七去の難というものがあるそうだ」などと埒(らち)もない話で時を過ごし、また「乾三はまだ幼いけれど、三つ子の魂百までと言います、母を敬い、男は読み書きが最も大事です、私は幼い頃親の教えに背いて、今人前に出て恥をかくことが多いけれど、後悔しても仕方がない、成長して人に軽蔑されないようにしなさい」などと話す間も、数度の地震があり鳴動が怖ろしくて、みな念仏を唱え、泣きわめく声は辺りに響き、町は一面激しく燃え盛る大火に包まれ、次々と白黒の煙や灰を噴き上げ、火の粉は空に飛び回り、燃え盛る炎に照らされた辺りを見渡せば、ありとあらゆる奉納の品、宝塔や夜燈、仏像や菩薩像など、立ち並んだその品々の見事さが手のひらを返すように、あるいは倒れあるいは潰れ、千に一つも形の変わらないものはなく、目も当てられないありさまです。
しばらくすると庄五郎は息も継がずに戻ってきました。様子を尋ねると、「どこを通って行ってどこを戻ったか、道順も分かりません。あるいは倒れた家の上を乗り越え、あるいは潰れかけた家の下をくぐって、右に左に迷い歩き、その大変さは言葉にもできません。潰れた家々では腰を打たれた人々、倒れた家々では手足を挟まれたり髪の毛を挟まれて逃げ出すこともできない人々がいて、助けてくれと泣き叫ぶ声は耳をつんざき、苦しむ様子は目を塞ぎます。無数の人々が転けつまろびつ右往左往して逃げ惑い駆け回り、火事だ、火事だと言う間にも倒れた家は潰れ、家の下に押し潰された人は、息のある人もない人もともに焼かれる生き地獄で、地獄の責め苦というのはこれかと、話をするさえ恐ろしく、身の毛のよだつようでした。火事は横町より上の方が最もひどく、南西の風が吹いているようなので、まさか権堂・後町のあたりが類焼することはないでしょう。また『御制札は確かな方に預けてあるのでご心配なくと申し伝えるように』とのことでした。『書物やその他少しのものは持ち出して置きました』とのことです」など話をする間もなく、西之門・新道辺りの出火は早くも御本坊(大勧進)の角の蔵に燃え移ったと、人々が騒がしく呼び立てるので、右左を眺めやると、法然堂町や東之門町はしだいに上手に燃え上ってきます。その様子は恐ろしく、ここにはいられないと、出店梅笑堂にあった戸棚1枚、その他少しのものを持ち出して、板戸や敷物の類を分けて持って、ご本堂の脇まで逃げました。
地元の老若男女はもちろん、あちらこちらからの旅人や潰れた家からようやく逃げ出した人々は、襦袢一つで幼児を抱え、または裸で手ぬぐいなどで前を隠しています。またある人は褌(ふんどし)や腰巻きばかりを身に着けてかろうじて命が助かり、怪我人や老人を背負って逃げ去る人々など、ことさら哀れで、その嘆きようは見るに忍びないものです。一方また、ここにいては危ないと、我先に人に遅れまいと逃げて行く人々もいるので、私もまた家族を引き連れてご本堂の裏の御供所の傍らまで逃げて行きました。そこで初めて御供所の潰れた様子を見ましたが、鳥かごに石臼を打ちつけて砕いたような有様で、あれが柱、これが敷居などと材木の形を区別することもできず、地震の大きさに怯えるばかりです。こうしているうちに私の病はますます重くなり、今にも命がなくなるかと思うばかりです。こんな災害があるとも知らないので薬の用意もなく、小さな用水路に流れる泥水を手ですくって口を潤し、心を落ち着け気を確かにと、妻子は私に取りすがって介抱いたします。ただただ神仏が哀れとおぼしめして願いをお聞き届けになり、今回だけはお救いくださいと、悲嘆にくれるばかりです。
ちょうどその時、誰ともなく今にも山門に火が移り、ご本堂も危ない、早くここから逃げなければと言って、またしても我先に、老人をかばい幼い子を抱きかかえ、後も見ずに逃げて行きますので、こんなに病が重くても安心していられる場所はないのかと、肩にすがり腰に取り付いて、用水堤の東方の青麦畑を野宿の場所と定めました。病の床として薄縁(うすべり)一枚を敷き、のぼせが激しくて足が冷えますので、妻子が身を寄せて着物の裾を広げてこたつ代わりにし介抱してくれましたが、次第に夜風も冷たくなり、ひたすら看病に専念する様子は、例えようもなく哀れなことでした。
そんな時、念仏を唱える多くの人々の声がするので、火事に照らされた木陰から何事かと見ておりますと、近づいて来るのは恐れ多くも三国伝来の本尊の御厨子、引き続いて御印文、前立本尊の御厨子です。錦帳は辺りを輝かすばかりで、数知れぬ人々はこの時でなくいつ御仏の御輿を担ぎ申し上げることができるかと、もったいなくも身の不浄も顧みず、御輿に取り付き一心に念仏を唱えながら感激の涙を流して供奉しています。先頭にあるのは御朱印の長持ちで、警護の者が前後を警備し、たいへん厳重に見えました。これを見上げる無数の人々は、「さてはご本堂も危ないのか、どんな時節が到来して今ここにこの世が終わるのか、こんな地獄のような今の世に生まれた悲しさよ、それにつけても仏縁こそ大事だ」と、御厨子の後を慕います。堀切道の右側の本城(城山)近くの田畑に、ここは元々仮寝が岡ですが、ここに御輿を安置する場所を定められ、幕を引き回して警護いたしますと、その前後左右には避難してきた無数の人々が野宿して、心の中で念仏を唱え、明けて行く空を眺めながら茫然としておりました。
 
私幸一はこの書を著しましたが、ことわざに貧乏暇なしと言う通りで、その暇を狙って壊れた壁のもとで筆を執りました。しかし貧窮する時は切羽詰まって世事に悩み、清貧とは結局は極貧のことで、一行も書き進めることができません。肘を曲げ膝を折って、首をうなだれよだれを流し、汚れた袖を濁った涙で濯ぎ、何日にもわたって後悔しても、風流の道の一つも知らず、何か書くといえばせいぜい金銭の出納や受領書で、日々「恥のかき捨て」ではありませんが、書いては捨てています。絵の拙いのには理屈があって、とはいえその理屈はといえば、習わぬことはできないのも道理という、無理にこじつけた理屈です。子供だましの絵を描き、一枚二枚は隠しておいても、三枚四枚と数が重なれば、ついに見つかって面目が丸つぶれになるようなこともありました。
ある人が訪ねてきてあざ笑い、「いよいよこの本が完成したら、編み笠をかぶって街角に立ち、この度の信州大地震の世にも珍しい記録、代金わずか16文」(と売ったらどうかね)とお為ごかしの褒め言葉に、この時ばかりは玉の汗を流し、その後悔と恥辱は、海より深く山より高い父母の恩にも劣りません。代金わずか16文と、決まりきった大道芸人の口上には口惜しくてなりません。この時こそ胸を痛め自分を責めて、せめてひとつでも人に勝るところがあれば、よもやここまで嘲りを受けはしない、知らないことは知らないとせよ(『論語』為政)との教え通り、最初からここまで卑下して書いてきたのにと、そのまま人に見せないよう隠しておりました。
さてまたある人が訪ねてきて、大震災の際のいろいろな悲惨な話をして数時間に及びました。この時何気なく自分の考えていることを語り合って、「この震災について、後世になればこんな恐ろしい話を知ることはできないでしょう、話も伝わっていないかもしれません、子孫の慰みにこんな物を書いています」と、話の勢いで書いたものを開きますと、この人が理屈を述べて言うことには、「嘲笑したのはどこの誰ですか、どうして笑ったのか分からないが、後世になってこの震災のことを伝え聞いても、これほどの大災害とは思わないでしょう。信濃全体の災害とは言っても、災害の大きさによって違いがあって、あまり災害を受けなかったところはこの震災の中でもそれほどたいへんな思いもしませんでした。瞬く間に無数の人々が命が奪われ、また助けてという隙もなく火が回って、ともに死のうと言うのを、自分はもう逃げられない、一緒にここで死んだら誰が香華を手向け念仏を唱えて回向してくれるでしょう、早く逃げてくださいと、永久の別れも一瞬のうち、屍を街にさらしても弔ってくれるものもなく、一枚の紙の裏表を返すように突然訪れた苦痛の様子や悲嘆の程は、今更に語るのも恐ろしく身のうちが痺れるほどです。また山中では山崩れがあって大河の流れをせき止めたり、そのほか震災の恐ろしい話は数えきれません。何代も後になっては、とてもこれほどまでとは思わないでしょう。他人に渡すつもりもなく、ただ子孫に伝えるための実録ならば、誰に恥じることがありましょう。誰に赤面することがありましょう。さらにできれば、子孫が寄り集まっておりにふれ読む時、幼い子や女の子にも読みやすいように仮名をふっておいたらよいでしょう。また慰みばかりを目的とせず、わんぱくな子供には忠告の種となるようなこともあるでしょう。たとえ他人が悪口を言っても、24日の夜の様子、この世の地獄の苦しみを絵に描き残してあれば、これもまた字の読めない幼児にまで、物になぞらえ事にたとえて、脅したりすかしたりする種になるでしょう」と勧めますので、それに応えてやっとのこと、いろはも知らない片言交じりで、仮名もわからないくせに振り仮名を振り、地・水・火の3つの災害をまたまたここに書いて載せました。もし見る人がいたなら、仮名の間違いや絵の拙さをお許しください。
 
このような前代未聞の時ではあっても、いつしか夜明けの雲が赤く暁の空にたなびき、樹木をくっきりと照らします。天は晴れてあまねく地上を照らしますが、陰陽昇降の遅速の違いによって雷が起こり地震が起こると言います。このような天変の時なので、雲か煙のような物が何となく空を覆い尽くして、天に昼夜なしとは言っても、世界はまるで朧夜のようで不安に思われ、誰もこの夜の鬱々とした気分を忘れることができません。夕べには花の林に遊ぶかのように歓楽をほしいままにし、数万の灯火が昼を欺き群衆は所狭しと町中に溢れ、毒竜や鬼神さえも微笑むほど、その繁栄を瞬く間に覆し、あるいは倒れあるいは潰れ、夫婦、兄弟、父母、子や孫があるいは圧死しあるいは焼死し、一度に無数の人々が夢の中の夢のようなはかない最期を迎えたことは、拙い筆ではとても伝えきれません。
中には50里・100里の遠くから10人、20人と連れ立って参詣して、ただ一人生き残った者もいます。「国では親族が指折り数えて、今日帰るか明日帰るか、さぞ楽しく帰って来るだろうと、親を待ち子を待っているだろう。我が身の運に引き比べて亡くなった人のことを考えると、今自分一人助かったからといって、どんな顔をして国に帰ってこのことを知らせることができるだろう、そうかといって覚悟を決めてここで自害したら、誰がこのことを国に知らせてくれるだろう」と、身を投げ出して嘆き苦しみ話すその姿は丸裸、やっとのことで助かり危ないところを逃れてきたもので、旅行の費用はもとより、この旅の空でどうしたものかと、うろたえ嘆く遠国からの人々は数をも知れず、さぞ大変であろうと考えると、とても拙い筆では書ききれません。
さて私幸一は幸いなことに出店の梅笑堂に売上金がありましたので、何かのためにと持ち出してしまってありましたが、いまさら持っていてもしかたがありません。「わずかですが草鞋の代金にでもしてください」と差し出しても受け取りません。「昨夜からずっとお世話になった上に、どこの方かも知りませんのでお返しする手だてもありません。女の子が恥ずかしいことに襦袢一つが頼りの有様です。腰巻きさえつけていないこの姿をたしなみを知らない女だからこんな始末だとお笑いになるのももっともですが、宿屋では旅人も多くて風呂にもなかなか入れず、旅の疲れからそのまま寝込んでいたところにこの騒ぎなのです。また明日までに疲れを取ろうと考えて起き出して風呂に入っていたところを押し潰されてどうしようもなく、やっとのことで助かって逃げ出し、恥ずかしいことにこんな姿です」と、うち伏して嘆くばかりです。このような前代未聞の大災害を受けた時は、やる方も返す方も心から誠実で欲を離れて公正で、世に他人なしという真実はまことに望ましいことです。こうしていてもきりがないと、仕方なく別れて西に東に向かいますが、国に帰って親たちに何と言い訳したらよいかと、また進みかねて地に伏し、
 
(1-86図の解説)
○考えてみればこのような大地震の時に、家の中に吊り下げてあるものほど安全なものはないはずですが、善光寺本堂の左右にあった大鐘がふるい落とされたことは、後までも怖れ警戒すべきです。このような重いものは逆さまにならなければ落ちることがあるはずもありません。その重大であったことをここに記します。
 
今宵の泊まりはどうしたものか、明日は誰といっしょに旅をしたらよいかと、何の罪もないその身を案じながら、うろたえ嘆き別れて行きました。
そうするうちに私の家から迎えの者が来ました。世のことわざに言う「地獄で仏に会ったよう」な気持で様子を聞きますと、「いまだ権堂は類焼していません、少しでも早くお帰りください、詳しいことは歩きながらお話ししますから」と勧めますので、ようやく元気になって、それならと起き上がりましたが、前夜から命も危険な病状ですので、身体はまったく自由がききません。心は急いても足腰が立たず、肩にすがり腰を抱えられて、御輿が安置されている方に三礼し、みな連れ立ってやっとのことで、我が家を目指して行きました。市中は一面の火事ですので、本城(城山)から南の細道を通りましたが、この辺りはまた恐ろしく地割れがしていて、ひどいところは高低差が3尺4尺もあり、長さは長短ありますが20間30間より短いものはなく、大きいものは1丁余り、これを見るとなおさら、いわゆる薄氷を踏む思いがします。いまだに余震は数知れずくりかえし襲ってきます。もしこの上また大きな地震があって地割れして地中に埋もれたらどうしようと、不安で身の毛もよだつばかりです。ようやく片端(かたは)(城山の南東下)の中程まで下って左右を見渡すと、倒れた家から死骸を抱え出し、怪我人を背負い、また家財を取り出して運ぶ人もあります。ひどく潰れた家はなかなか掘り出すこともできず、泣き叫ぶ声が聞こえていながら、早くも激しく燃える火をかぶり、黒雲のような煙が渦巻いて家を取り囲み、修羅道や等活地獄の苦しみ、地獄の責め苦もこれには勝るまいと、見聞きすることさえも恐ろしく、震えながらやっとのことで淀が橋から細道を通って長谷越(はせごし)(湯福川沿い)に出て、そこから鐘鋳川の端を歩いて、裏田町のあぜ道を通り、普済寺(田町。現在地の西北西200メートルにあった)の脇道に至って寺を見ると、その客殿をはじめ軒並みに倒れています。驚き恐れながらようやく権堂の田んぼに着いて辺りを見ると、人々が野宿しています。家財を取り出して囲いを作り、残った家財、壊れた戸や破れ障子を持ち出し、また畳だ桶だ戸棚だと老若男女が入り交じって上を下への騒ぎです。火災を免れるための辛く苦しい騒動で、驚き嘆くばかりです。
これを見て善左衛門(幸一)も家の者も、ようやく気持ちを確かに持ち直し、人々がみなこのようにしているのに、どうしてそのまま焼き捨てることができようか、たとえ一品だけでも持ち出そうと、家の側まで行っては見ますが、塀は倒れて道を遮り、隣家は潰れて路地を塞ぎ、近寄ることも容易ではありません。また余震が起こりあるいは鳴動する中、大変な苦労の末ようやく一つ二つの物を持って逃げ出しました。1丁あまりも離れた青麦や菜種の田畑さえ、この騒ぎで人々がかまわず踏み荒らして仮の住まいを作っています。このような急の災害ですから、小屋掛けの用意などなく、屏風、格子戸、襖(ふすま)、障子など有り合わせのもので囲っただけのものです。屋根も同様で、手当たり次第命からがら持ち出した荷物はそのまま積んでおいて、畳や板戸を雨よけ、日よけにしています。このような時には欲を出すどころか身の回りの始末さえできず、この上どうなることかと、狂気のごとく狼狽しておりました。
すると正午過ぎ頃から、権堂・後町に同時に火が移り盛んに燃え上がりました。明行寺(権堂の寺)大門の先まで焼け下ると、瞬く間に左右に分かれて燃え移り、また下手の町に燃え移って行きましたが、避難した人たちはみな1丁余りも離れた田畑の中に小屋掛けして、荷物を持ち運び、あるいは怪我人や病人を介抱し、子供や老人をかばって、ただただうろたえ彷徨(さまよ)うばかりです。今度こそ我が家に火が移るに違いない、その次こそは我が家だなどと言うばかりで、家が焼けてしまうことを誰一人驚くこともなく、全くこれを防ぎ止めようとの話もなく、煙と火に包まれた家の屋根をここだあそこだと指差しながら、狂気のごとく、また気抜けしたようになっておりましたが、それも当然のことです。
昨夜の亥の刻(午後10時頃)に起こった地震の激しさは前代未聞のことで、身も心も苦しめられ、千辛万苦の難儀に魂を悩ませ心を砕き、また父母や妻子とは夢うつつのうちに死別し、その死骸さえ行方も分からず、地獄の苦しみを受けた人々は無数にいますが、これを心配して訪ねて来る者もなく、一昼夜潰れた家の下敷きになり疲れ果てて、ようやく掘り出されて一命を取り留め、初めて辺りの様子を見れば、多くの怪我人がいるのに治療の方法も全くないありさまです。体中血まみれになって背負われて野中で介抱を受けても、風にさらされ日に照らされて痛みが強くなると、身内の人々は熱心に夜を日に継いで苦労して看病します。たまたま夕食の残りを差し出した人がいて、皆で譲り合ってもらったものを手に取ってみても、一箸も喉に通りません。口中は乾き胸は痛み、疲れては水を飲み、弱っては水を飲むばかりです。一昼夜を過ごした今に至っては、大人子供の区別なく、目の縁は黒ずんでただれ、頬はこけ、顔色は青いというより、いわゆる土け色(土のような青黒い色)で、乱れた髪は土ぼこりをかぶっています。陰陽順逆のせいか、朝から蒸し暑くて頭が重く、体調は最悪で疲労は普段に倍します。
未の刻(午後2時)から申の刻(午後4時)頃までに隣家まで焼失して、それから向こう側(西側)に燃え移り、下手の町に燃え広がり、善左衛門の家の辺りは燃え残りました。しかし何という悪風・業火でしょう、昨夜からの様子を見ていると、風は北に吹きまくり、火は南に燃え広がり、たまたま焼け残った家があっても、戻ってきてこれを焼き、風が変わっては残りを焼き、戌の刻(午後8時)頃になるとにわかに風が変わり、南西から北東に向かって強く吹き、あっというまに善左衛門の家に激しく火を吹きかけました。火煙が霞のように空に横たわり、三輪・宇木の辺りまで火の粉が恐ろしいほど舞い上がり、終始炎に取り巻かれ、一旦は類焼を免れても、急に風が変わって残らず家を焼き尽くしました。
折しも空が曇り激しい風雨となりましたが、多くの人が田畑に小屋掛けしたものの、誰一人風雨を凌ぐ準備などありません。家が潰れなかった者は戸棚・箪笥などを囲いにして、その上に障子・襖などを並べて載せて日除けにし、倒れてしまった家では戸棚・箪笥なども壊れてしまって囲いに使える物もなく、壊れた障子や折れた襖を縛りつけて、束ねた藁を掛けただけの小屋です。どの小屋もそんな様子ですので、自分の小屋を一歩出て帰ろうとすると自分の小屋が分からなくなって、取り散らかした荷物を持ち運ぶにつけても迷い歩くことになります。そこでありあわせのちょうちんを竹や丸太の先に結びつけて小屋の前に立てたり、家が潰れてちょうちんさえ持たない者は、小風呂敷・手ぬぐいなどを杖や帚(ほうき)の先に結びつけて小屋の屋根に挿して、これを目当てに荷物を運びます。そうするうちにも風雨はますます激しくなって、囲いはあっても風を防げず、屋根はあっても雨をしのぐこともできません。
東から南の方を眺めると、広々とした田畑は闇に沈んで形も分からず、沖の浪に漂う箱船の火を見るようでに物寂しく哀れで、火はちらほらとそこかしこに見えるばかりで、静まり返っています。人々はどんな心持ちでいることかと、我が身を顧みて考えると、ひどく胸が痛みます。北から西の方を眺めると、10丁余りにわたる一面の炎が空に映っています。味噌・酒・硫黄・金物が燃える青・黄・赤・白・黒の炎の色も恐ろしく、火薬に火が移って辺りの潰れた家を跳ね飛ばし、その響きは雷が落ちるようです。空は闇に閉ざされ、猛火の勢いを降る雨が閉じ込めるような心地がして身体にこたえ、まったく地水火風空(万物をつくる5つの要素、五大)の責め苦、目の前に地獄を見るような恐ろしさです。
 
このような並外れた天災ですから、その被害の大きさはとても私は見聞きしきれず、また私の拙い筆では書ききれません。日を追って見聞きしたことを後編までに書くつもりですが、九牛の一毛、微力な私では万分の一にも及びません。とはいえ24日亥の刻(午後10時)に災害が発生してからこれまで、自分のことばかり書きましたのは、ほかの様子は知らないに等しく、災害が甚大すぎて詳細が分からないためです。そこで自分の身の上の苦難の様子を書いて記録としました。ほかの人々の苦難もこれと同様でしょうから、推し量って後になっても恐れてください。哀れに無常なことを思って、「三災変死諸群霊魂有無両縁菩提、并びに牛馬有非情草木鳥獣虫類変災菩提、乃至法界平等利益」と念じて、子々孫々に到るまで追善を施してください。教えに「陰悪はいびきのごとく陰徳は耳の鳴るがごとし」と言います。
ここに善光寺町の焼け跡の図を入れるのは前後の続きがおかしいかもしれません。翌戊申の年(嘉永元年・1748)になっても、恐ろしくも悲しいことに、いまだ図のように片付いていませんが、そのあらましを描いておかなければ、後代の子孫の俗語の種として不便かと思います。そこで順序に構わず思いついたままにこれを綴じ入れておきます。
 
さてここで善左衛門の家族の仮小屋での様子を書いて、その辛さを子孫の戒めとしてお話しします。25日朝五つ時(8時)を過ぎた頃のことです。私善左衛門は病気の上このような大変な目にあって、足腰が震えて起居が不自由なため、人に背負われてやっとのことで権堂東の田んぼに仮住まいをしていました。普段なら何事につけ手伝いの人も思い通りに来てもらえますが、このような災害の時なので、手伝いなどはもとより、訪ねて来る人さえもありません。お互い何度となくすれ違い、右に左に行き違っても、ただ顔を見合わせて涙に暮れるばかりで、その嘆きはどうしようもありません。妻子は気力を振り絞ってわずかの家財を運んできますが、女性や幼少の身では疲れるばかりでどうにもなりません。そうするうちに東町から権堂に向かって火は激しい勢いで燃え広がっていきます。ここにいては危ないといって、人々は我先にと荷物を運んでいきます。
するとまたまたここから避難する頃に、誰が言うともなく、地震で山が崩れ、犀川の流れをせき止め一滴の水もなくなって、舟に乗らずに歩いて自由に渡れ、裾花川も同様だとの噂が流れました。このことを聞いた人は一人としてその真偽を知らないのですが、大河の流れがどうして止まることがあるでしょうか。しかし嘘だといって馬鹿にするわけでもなく、本当だといって怖れたりするわけでもなくて、その噂はまちまちでした。なんという前代未聞の天災か、山中の虚空蔵山あるいは岩倉山ともいう大山が左右に抜け崩れて犀川を押し埋め、このような大河の流れを堰き止めたとのこと〈犀川流域や山中、川中島、川北、川東の水害については、すべて後編に詳しく書きます〉、恐ろしいことだと言い合い、なんという異常な天変地異かと、聞く者も語る者も身体が震えしびれるばかりです。やっと一命を取り留めたのに、またこれほどの大河が氾濫したらたまらない、どのような水害が起こるかと、途方に暮れるばかりです。
さて善左衛門の家族は日暮れ頃からようやく小屋掛けの用意にかかりましたが、5月の節句の飾りの槍の棒2本、天井の縁(へり)3本のほか、折れ竹さえありませんので、薪で杭の代わりにしましたが、これさえ打ち込む道具もありません。そのあたりにある小石を使ってようやく打ち込んで、破れ障子や襖(ふすま)の壊れた枠を柱にしましたが、結びつける縄もないので、手ぬぐいなどを引き裂いてこれを結び、襖や障子を囲いにしました。屋根に使えるものはまったくありません。命がけで持ち出した家財1、2品を、小屋の中が狭いので片側に積み重ねました。今後さらにどんなことがあるにしても、食事の用意は何より大切だと言って、小屋の外に穴を掘って、ここにやっとのことで釜をかけ、米さえろくに洗わずに火を焚き付けて、そのまま倒れて眠り込むような苦労、疲れるのも当然のことです。
とりわけ悲しかったのは、今年やっと9つになる乾三のことです。乾三は出店の梅笑堂にいた時、昼の遊びで疲れて、あのような華やかな賑わいにもかかわらず、眠いので家に帰りたいとしきりに言っておりましたが、店を片付けるまで待っていなさいと、なんとかだましてそこにいさせました。年端も行かない子供ですので、戸棚に寄りかかって居眠りをしていましたが、すぐにあのような大災害で、気力を使い果たしたばかりでなく、その夜のうちにも合わせて5回避難し、その度に荷物を抱え、病気の親をかばいながら心を痛め、余震の度にどうしようと立ったり座ったりで、少しの間も眠りません。御輿の安置された傍らの麦畑の中で野宿して、ようやくここ権堂に帰ってきても、家には入れず、今日も一日中荷物を背負い、風呂敷包みをかかえて、避難すること合わせて6回、食事はもちろん普段食べている菓子なども食べずに、ようやくここに仮住まいを定めましたが、「もし水が押し寄せて来たら、荷物はそのまま置き捨てて逃げられるよう心の準備をして、大事な物を入れた箱とろうそくと、ありあわせの金100文、この3つはお前に預けるから、この上何か異変が起きて避難しなければならないときは、どこへ逃げるにしてもなくてはならない品だから」と言い聞かされて合点して、風呂敷包みを斜めがけに背負ったままで、草履をひもでしっかりとくくり付け、そのまま小屋の囲いに寄りかかって居眠りしていました。年はようやく9つ、あどけない子供のこの不憫な様子は何に例えようもありませんが、このような大災害の時にはどうしようもありません。
気弱になってはいざという時にうろたえてまずいだろうと、そのまま寝ようとしましたが、風はますます強く吹き、火の勢いはいっそう激しく、火の粉は空を覆い、10丁余り先まで吹きまくる風にあおられて、屋根瓦の落ちる音や、竹が弾ける音が耳を貫き、肝を冷やし、雨はしきりに吹きつけて、その恐ろしさや苦しさはすべて数え上げることもできません。ようやく飯が炊きあがりましたが、どこに何があるやら、前代未聞のありさまで、手当たり次第取り集めて飯を盛って並べ、やっと用意したおかずや生味噌なども、箸ではなくかんざしや楊枝でつつき、口元まで持って来るけれど、気持ちはひどく乱れ、心身ともに弱っているばかりでなく、糠臭い煤けた飯では一箸も喉に通りません。何とか気持ちをなだめすかして、ようやく小さな器に半分ばかりを飲み込むようにして、そのまままた倒れ伏しました。
悲嘆の涙を流していると、折しも風が激しくなり、夜の雨がざっと降り掛かりますが、凌ぐ手段もありません。もともと屋根のない小屋なので、みな外に出て襖や板戸を並べますが、隙き間ごとに雨が吹き込みます。傘を差してうずくまり、やっとのことで膝や腰を屈めたり伸ばしたりして、ひたすらこの先どうなるかと余震が襲うたびに地面にひれ伏して一心に念仏を唱え、うとうとする間もないうちに、明け方にはいつしか晴れ渡り、26日の朝日が西山の峰々を照らすと思う間もなく、誰からともなく、「そら、水が押し寄せるぞ」と言いました。やっと命拾いしたことでもあり、皆が騒ぎ立てるのもまったくもっともです。早拍子木がしきりに打ち鳴らされると、「水だ、水だ」とうろたえ騒ぎ、人を押しのけ、子供を抱え、老人を背負い、瞬く間に本城・長谷越・高土手辺りの少しでも小高いところは避難する人が山のように集まり、気がふれたように驚き怖れ、わずか5尺の身の置き所もないありさまです。薄氷を踏んだり刀の刃を渡ったりするような心地で、地獄の責め苦もこのようなものかと、私の拙い筆では書ききれるものではありません。
やっと騒動も収まってそれぞれ自分の小屋に帰り、朝食の用意などしても、水にも不自由し、小桶さえろくに揃っていないので、手水盥(ちょうずだらい)に水を入れて菜種の青菜をむしり取って、洗ったつもりで汚れを紛らわし、落とし味噌でこれを煮て、やっとのことで半膳、一膳を胸を撫でさすりながら食べて食事を終えると、小屋掛けを直す支度にかかりました。縄や杭を手に入れたいと心を配りましたが、町中は一円焼失して、なんとか焼け残った新田・石堂〈焼失した所、また焼け残った所については、前図をご覧下さい〉でも家々は倒れたり潰れたりして、さらに大火事の類焼を怖れて皆避難して、一人として家にいる者もありませんので、買い求める方法もありません。何とかつてを頼って縄を用意し、小屋掛けの算段にかかりました。
さて、山中では山崩れの箇所が数多くあって、土砂や大岩、樹木とともに川を押し埋め、このため家や蔵を押し倒し、人も牛馬も夥しく命を失い、田畑も損害を受けるなど、前代未聞の大災害です。そもそも、荒波を越えて一心に念仏を唱えて舟で渡るこの犀川のことは、遠国でも知らない人はありません。それなのに上流で水がせき止められて、渡し舟の場所では一滴の水もありません。もし上流のこのせき止められた水が一時に決壊して流れ出したなら、どれほどの災害が発生することか、人々の心はいっときも安まりません。闇夜に道に迷い、大海の浪に漂うような心地です。
このように陰陽が変化している時なので、ふいに大風が吹き、また雲が湧き雨が降ります。地は一刻の間に6、7回も余震に揺れ、たいへんな火災や水害が起こっています。人間の五体は地水火風空の五大によって成り立っていますが、その一方で地水火風空の五大が五体を苦しめるのです。「伏しては五尺の身を置くといえども、立つ時はわずかに一尺の地を踏むこと難し」ではないですが、身の置き所もありません。
27、8日になっても無数の死骸がここかしこに倒れています。3人、また5人、7人と頭を並べて伏しており、胸から上を焼失したもの、足腰を焼失したものなど、死骸が山をなしていても、これを始末する人手もなく、見渡せば広大な焼け跡に、焼け残った死骸や、味噌・漬け物・雑穀の臭いが鼻をつき、言語に絶する悪臭は昼夜やむことはありません。貴賎男女の区別なく、着物をまくり小屋の辺りで好き勝手に用を足し、女盛りの婦人でも髪をとかし歯を染めることもなく、帯を締め直したりほこりを払ったりする気もまったくなく、夜には草履に紐をつけ、わらじを履いて眠り、朝には柄杓(ひしゃく)から手に水を受けて顔を洗い、そこかしこに穴を掘って薪を入れ、鍋で飯を炊き、やかんで汁を煮るなど、その日その日の出来事がまったく驚くようなありさまです。
このような悲惨なことの多い日々でも、時の流れは矢よりも速いとかで、思いもよらぬ大災害も早くも25日、26日と過ぎて行きましたが、誰一人として小屋掛けがきちんとできたものはありません。見たこともない藁仕事ですが、女の子さえ交じってむしろを編んだり縄をなったりすることも自然と覚え、昼は終日うろうろとして、慣れぬことながら小屋掛けをこうしたら都合がいいだろうか、ああしたらいいだろうかと心を配ります。梅の花の香りも失せ果てて、洗った髪を乱したかのようで、毎日の化粧さえ白くはなくて、焼け跡の砂やほこりに汚れて、男女の区別もつきません。
夜になっても昼の疲れを休めるどころか、水害がどうなるだろうかと不安で、草履に紐をつけわらじも脱がずにうずくまって夜を明かします。夢うつつに水の音はしないかと耳をそばだてて聞いていると、無数の亡くなった人々はさぞ苦しかっただろう、まだこの上どうなってしまうのだろうかと、時の鐘さえないのですが、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と響いたという祇園精舎の鐘の音の「生滅」(生あるものは滅する)という語がやるせなく心に響くばかりで、更けゆく夜半に聞こえるのは、秋でもないのに夜の嵐が隙き間に吹き込む音、生き残った犬の遠吠えばかり、囲いの隙き間から見渡せば、ちらちらと見える小屋ごとの灯りは、心なしか淋しさ恐さを語り合っているようです。隣家はもとより裏の家も表もない田んぼの中で、ここに一つあちらに一つと、思い思いに避難して仮住まいを定めたもので、夜明けを待ちわび、暁を告げる鶏の鳴き声を待ちながら、哀れさもここに極まっています。
 
さてまたここに、感激の涙を流したできごとがあります。そのあらましは次のようなものです。無数の変死者の中で苦しまずに亡くなった人は一人もありません。その苦痛はさぞかしと推量すると、誰でも愁歎の涙を禁じ得ません。しかし自らもこのように被災して、いまだに雨風を凌ぐ小屋さえない状態では、心に念仏を唱えることさえ苦しさのため怠ってしまうのもまた道理です。ところが同じ村に住んでいる栄屋平吾(表権堂の水茶屋)という人が、何かの足しにしてくださいと、金百疋(金1分・1両の4分の1)を見舞いとしてくださり、また英屋(花房屋)新之助(裏権堂の水茶屋)という人からも見舞いとして百疋をいただきました。そこで考えたことは、このような大災害を受けてすでに5、6日が過ぎましたが、雨風を凌ぐすべもなく、また町中(まちなか)の焼失した様子を思い、家々の倒壊や変死者の苦痛を思い合わせればその悲しみ嘆きは一通りではありません。その上昼夜幾度となく余震があり、急に大風が吹き、雨が降り、雲が湧くなど、一つとして経験したこともないようなことです。こうした不安な心も、ひとつには苦しんで亡くなった幾多の人々の亡霊がこの地にさまよっていて、その海よりも深く山よりも高い悲しみ嘆きから起こっているのではないか、霊が迷うのもまたもっともだと思われます。
幸い、見舞いの気持ちを無視できずいただいてあった金子二百疋がありますので、これを元手に霊魂菩提のための仏事供養をすれば、にわかに起こる大風や余震も止んで安心できるようなこともあろうかと思いましたのも、また俗人凡人のあさましい考えだと笑う人も多いことでしょうが、悩み苦しむ気持ちからの愚痴まかせに思いついたのは幸いでした。変死した人々の初七日も近いので、懇意にしている助右衛門草理(田中氏)という人にお願いして、同じ村の普済寺に巨竹和尚を訪ねてもらい、逮夜追善のための大施餓鬼会(せがきえ)をお願いすると、すぐに承知してくださいましたが、「このような大災害で法衣をはじめ仏具さえ揃いません、何とか用意を整えて回向すべきですが、このような変死者の場合は早く回向を行うことが最も功徳になることです、お布施はなくても、このような回向は僧侶としても願うところですが、功徳にもなりますので、香の物だけでも結構です、遠くから和尚たちが参りますので、食事を用意していただければ」と、たいへん丁寧にお聞かせくださいました。そこで少しでも早く仏事を行いたいと思って、その用意に取りかかりましたが、仏具をはじめお膳やお椀もなく、一汁一菜でさえ材料を買い求める家もありません。やっとのことでつてを得て野菜や乾物を調達して、翌日を待ちました。
4月1日の空は晴れ渡り、夏のはじめの暑さは耐え難いほどです。小屋はもちろん狭すぎるので、野中に畳を敷き並べて仏前に香華を供えましたが、何も取り揃わないままで、早くも和尚様がいらっしゃるというので出迎えますと、案に相違して法衣をお召しになり、またお供の者に立派な傘を差しかざさせ、従う僧7、8人を引き連れていらっしゃいます。どなたも一寺の和尚と思われますが、導師の後に従って来ます。お着きになったところで粗茶・粗菓をお出しして、それからすぐに施餓鬼の勤行が始まりました。そこへ圧死した人々の親族が様々の品を持って来て回向を願い、また広田屋仁兵衛(表権堂の水茶屋)という人が来てこれを手伝い、戒名俗名を書き留めて、仏前に差し出して回向をお願いします。
このようなことは後から見聞きすれば、悪く言う人も多いかもしれません。しかし無数の変死者の苦痛は堪え難いもので、魂はこの世を去っても、多くの死骸がいまだ街にさらされています。そのため自分の心が自分を惑わすということでしょうか、施餓鬼会の半ばまで晴れ渡って暑かったのに、北西の方角から急に暗雲立ちこめ大風が起こり、ざっと一時の雨が大風に吹きまくられ、仏前に飾られた香華やその外の品々を壇上から吹き落としました。取って載せればまた吹き落とされ、備えればまた吹き落とされ、そのまま攫(さら)っていかれそうなありさまです。死者の親族はもちろん、居合わせた人々はみな地に座り涙を流して悲しみ嘆きながら拝みました。程なく勤行が終わると、まったく嘘のように晴れ渡りました。この時期のことで、一時は雨風が激しくても、しばらくすると晴れ渡ることもあるのに、このように物々しく書いたなどと、見る人によってはお笑いになるかもしれませんが、時が時だけに心に沁みて流した涙です。まったく無数の変死者がでたことは、恐ろしくも憐れむべきことです。