■むしくら日記
[翻刻]
2巻 亨
むしくらにつき 亨 ![]() (改頁) ![]() ○鈴木藤太か噺 ![]() 手代鈴木藤太ハ念仏寺村臥雲院に止宿し、庫裡 の上段にありて、日もすからの事取しらべかい(ママ)付なとし 居けるか、戊(ママ)亥の方より山岳も一時に砕け覆の計の 音して、寺も忽ち潰るゝ如く覚けれは打驚きて、筆 と帳とを持たるまゝに東の庭へ飛出けるに、庫裡ハ早 犇々と押つふれぬ、心ニ思ひけるハ、宵に住持に隠して 魚肉打くらいけるか、斯計名高き霊場を穢せしハ 我誤り也、其祟りにて天狗か山神か怒りこらせるか と疑ひなから、囲の塀に風通しの簀を張置ける処 を押破り潜り出、くらきをたとりて裏の麻畑へ出ぬ、 (改頁) ![]() 此畑中に一抱ほとの大木あるを昼見て置けるまゝに、 此木に取付ゐたりけるが、何やらん麻畑を押分て這 来る物あり、こハ猛き獣にもあるかと又更ニ驚か されて、星明りニ透しみてあれは、此寺の庫裡ばゝ が赤裸にて這来りしにそ有ける。頓て同しく此木に 取付けるに、忽チ此木づる/\と一丈計りも抜下りけれは、 是にてハたまらすと又逃出して考ふるに、此寺ニ名 高き三本杉ハ大門の辺にあり、斯ばかりの老木なれば 根のはびこりも大造なるべし、[此杉根元ニて差渡六尺ほとありと云、]此もとに 至らは、危うからずして命も助りなんと、辛うして尋 行しに、数多の雑木倒れ重り、くらさハくらし、彼大杉 (改頁) みへされば、扨ハ是も何地へ行たるやといぶかしみ、其木の 少し側にある観音堂に登らん(ママ)思ふに、堂ハはるかに 見上る程の所ニみへけれは、こハ我足の下も抜下りたる事 なるよとおそれ驚きつゝ、堂をさして登るものから、 人声の聞へけれは力を得て、踏込足を踏しめて、漸に して堂前に至りみれは、此処ハ抜覆る事もなくして、住 僧を初寺に居合たる者、庫裡の潰れたる下より這出て、 婆々迄も皆爰に集ひ居れり、其うちに村の男女も 追々ニ迯来りて、怖れおのゝき、只管に大悲の御名唱 ふるも多かり、藤太思ふハ、地震にハむかしより火事と成 事多しと聞り、今の大変もし地震ならは火あらんか(ママ) (改頁) ![]() かと見ゐしに、潰れたる庫裡より火燃出、また遠近 にも猛火盛ん也、さてハ地震に相違あらじと初てさとり、 焼出し庫裡の方をつく/゛\と見居けるに、火煙盛んに 燃なから、次第/\に遙麓まて下る事凡百五六十間 なるべしと思はるあたりハ、火の光りにて真昼の如く 赤く、また虫ぐらか岳荻(ママ)の城の方に当りて震動夥敷、 幾千の雷一度に落かゝる如き音ハ、まさしく抜覆 りて岩石樹木を押落す音にやあらん、女童ハ生 たる心持もなく只泣さけふ計也、此村の医師玄理か子 利左衛門、寺にありて手伝居しか、鳴動して寺倒るゝ 計なる時、欠(ママ)出て己か家に行けるに、家ハ潰かゝりて今 (改頁) にも倒れぬべきに懸念もせで欠入て、母を助出て外に 置、又欠入て火をしめし、母を脊屓ふて難路をしのき、 観音堂に来りてため息継つゝ物語れり、藤太感じ て、孝子来れり/\、天道助け給ふべし、此所ニハ必定 抜覆あるましきぞ、皆々安堵の思ひせよと申ければ、 何れも此ことばに力を得、且励まされて、明行空を待 けるに、やゝ東の空しらみ渡り、見渡せば、東西南北前後 左右悉抜崩れし其中に、此大悲閣の廻り二十間四方 程の所のみ元のまゝに残りて、堂も斜まず、五六十人の 者爰に命を拾しハふし義ニも又あまりあり、是こそ実 大慈大悲の利益ともいふべきものか、扨も人々宵より (改頁) ![]() 奔走して飢に及ければ、何なりも食物もがなと見 廻りしに、堂より余程下の方に潰かゝりたる家一軒 あり、此家より米一斗と釜一つ持来りて、かしきせんと 火打付て焚付ける折しも、又もや鳴動強く震ふかと 見し内ニ、焚火しゐける脇の方夥しく地裂たり、こは いかにと皆驚き騒き迯出けるを、藤太制して、皆々 飢てハ息もつゞくまし、釜中の生米を手毎ニ掴み出 て食しなから立退候へと云て、おのれ先掴みて立出けれ ば、村のおとな等、藤太が行べき方を爰かしこと指示し 心配しぬ、藤太云けるハ、イヤ/\我等ハ松代へ戻る迄の事 なり、汝等ハ家を潰し怪我したるもありぬべし、とく (改頁) 家の世話して怪我せぬ様に道を求めて出よと云つゝ、 岩屮(ママ)村の方へとこゝろざしけるに、兼て寺に雇れ居たる 黒鍬両三人も共にゆけり、猶村の者三三人、ともかくも しるべせんと先に立、或這或木の根にすがり行けるに、 あらたに抜たる所なれバ踏込こと膝を過、又更に抜崩れ、 二三尺或四五尺も落まろへば、跡より手を出し引上、跡 の者落転べは先の者ふり返りて引上ツゝ、互ニ命限り と助合て、漸此村のみか野組に出、少しく抜も間遠な れば爰に息を継、夫より岩屮村の松(ママ)乗寺の前に出ける に、爰に潰かゝりたる家ハ此村の組頭なれば、少しく 労れを休めんと申せしに、蕎麦がきを製しあたひ、又一陶の (改頁) ![]() 酒をとり出て、かゝる大変の中もてなしに参らするに はあらず、きのふ神酒にとて求め備し残り也、用て 気力を増給へねと懇に申て止ざれば、其志を歓ひ 受、少し用て気を得たり、爰より念仏寺の者共を 戻し、草鞋を求めてはきしめ、身繕して打立、橋詰・ 五十平・倉並・坪根・宮野尾・吉窪等の抜覆りの難 場を通り、小市を渡りてはじめて蘓生たるこゝちせ しと云、 因に云、此村の梅吉といふ者檀中世話人にて、取分 心利たる者にて、此夜も来り世話し居しか、寺の者 皆のかれたる中に、此者ばかり圧死せしハむさん (改頁) なる事也、一子を為之助と云、水井忠蔵元〆役御 救方とて山中村々廻村の時、人に先立て願出、 貯置し大豆十俵を献し、御救方になし給はれと さし出しけるか、家に帰りて後此事を母に告しに、 母聞て下足也とし、又十俵をまして献ぜんと 申出しかば、為之助走りて忠蔵が次のとまり迄 行て申出けり、母歎きのうちにも斯心配りし 献俵せしを、称誉せさる者はなかりし、 第下聞し召て、為之助か母老人ならははやく 褒美とらせよと仰出られし、郡方にて詮義 せしに梅吉五十四五の者なりとそ、しかれは其 (改頁) ![]() 妻いまた五十に満さるへし、しかれは追て穏かニ なりたる後に御褒美給はらんと乞て止ぬ、 又云、是より数日の後、礒田音門御救方に出て此 辺見分せしに、臥雲院は山中にて類なき霊場 大地成しか、揺込揺寄せたりし故か、焼残りたる 礎殊更に狭みて、有し昔の三ケ一程とも覚す、 庭ハ其まゝに残りて、彼七不思議のうちと聞な せし要石も泉水の際に其まゝあり、水も能湛て 木艸も生茂りたれど、いたく狭みて形チ残りたる のみ也、今度御巡見の時御夲陣たるべき筈な ればとて、其設けに建し駒建のみハ倒れもせす (改頁) 其儘ニ存せり、大門の敷石も其まゝありて、彼三本 杉ハ寺と共に揺下り、倒れ懸りて有と語れり、 ○犀口の普請所にて十余日の間、日々千人前余つゝの ![]() 賄と酒と、みそ汁も一度ツゝ掻立汁にして給はりぬ、一人前 二合五勺のならしにて、実ハ三合あてに他所者までも 被下し、[有司も同し賄也、酒ハ茶わんに二ツツゝ、小市の塚田源吾か献上せしといふ、]家を潰、業を 失ひ、穀を失ひ、飢に臨る者とも、日々食に飽て殊の外 難有かりたると云、代官の懸りにて代ル/\出て指揮 しぬ、焚出し場所ハ段野原土堤の上と横とへ穴を ほり、釜七ツならべて焚り、此焚出し方皆女の役にて、 或ハ椀へもり、或ハ握り飯となし、或ハ味噌又ハ塩なと (改頁) ![]() ふり懸抔す、殊の外いそかしき事にてありしと いふ、町方より急に五百人の人足出しときハ、取分て 女共目を廻して働きしと聞り、 ○廿七日ニ貫実子普請所出張の跡にて、綿貫新 兵衛郡中横目役出来りて申けるハ、此比労る事候へ て引籠居候へしか、かゝる大変災の際安閑と 枕を高うしてあらんハ余りに勿躰なしと、押て此 長髪にて罷出候へぬ、御用ニハたゝすとも、彼山平林の 堰留場所一見し、また小市の御普請所をも見侍り、 或は乗廻し川中島の民を諭し抔せば、左までの 事ハ非ずとも少しく益を得侍らんか、くるしからずハ (改頁) 彼場所にこし給へてよと、あまたゝひ乞て止ざれば、此 旨 第下へ聞へ上しに、渠労る中に押て出来りて かく申志ハ殊勝なり、行んといはゞこし見よと 仰を受て、又呼出し、乞にまかせて越シなんが、まつ 犀口に行て貫実子によしを告、ゆるしを受て兎も 角も計らひぬと申けれハ、綿新満面笑て威気揚々 と出て行ぬ、夫より犀口ニ行、貫実子に乞、山平林に登り、 湛場を見つもり、其後策を献し、流れ寄たる家 堰留に多くかゝれり、そが上所々に浮上りも数百軒 なり、頓て湛場へ水のりたる時、此家ども一時に突懸 なば、是が為に水勢を怒らしめ、ゆゝしき害を (改頁) ![]() なすべきなり、よりて太き縄を幾筋となく用意 し、繋き留へき限りハ繋き留、繋き留難きは 悉火を付て焚立なば、焼残りたるものハ水ニ付たる 材のみなれハ、湛場へ流れ寄とも害ハあらじと、頻ニ 申乞けるまゝに、衆義ありしに、心元なき業なれど 一理なきにもあらじとて、渠か申にまかせ、翌日より 山中出役の者に申越て、不日にはからハられしが、 焼たるハ少しく益もありたるか、繋留たる方ハ、いかニ 太き縄にて繋き留置たるも、引水の時ふつと縄 きれ、皆押流し、瓦(ママ)餅となれり、 因に云、久米路の橋も繋き留置たれど、引水の時 (改頁) 流レ砕け、橋げた所々へ散乱しぬ、此橋ハことし 懸替を願出、頓て普請あるべき筈なりしに、新 調の後ならて責ての事にてありし、 佐久間修理が献せし策ハ、かの堰留の大岩に方 八尺深サ八尺の穴を穿ち、中ニ地雷火を仕懸て 岩を焼砕かば可ならんと申せしが、一穴へ仕懸る 地雷の入用多分の金を費さずしてハ出来がたし、 殊ニ十丁の間石を穿ん石工の雑費いかにあらん、 其入料をもて掘割させなは余程の益あらんと、 衆義にまかせて此事もやみぬ、[或人ボンヘンにて岩を打砕かばいかならん と申せし事もありしが、此響きニて又山崩れなんと云し事も有し か、五月の末三村晴山帰国の時の物語に、ボンベンニて大岩を打砕かせ (改頁) ![]() られしと江戸ニて取さた しける事ありしと咄せり、] ○春日儀左衛門勘定役久保孫左衛門道橋方元〆ハ、兼て ![]() 久保寺村に川普請として出役し居けるか、三月 廿四日に小市の塚田源吾許招かれ、宵より酒のみ、 いたく酔て、亥ノ比辞し別れ、五六丁も来りしと 思ふ比、二人一同に倒れぬ、ふしぎや是程にハ酔さり しと思ひしにと云て、立ばこけ/\しける内ニ、其辺の 地裂けるに驚き、扨ハ大地震なるかと驚き、芝生に 坐して有けるとそ、其時源吾か家ひし/\と潰れ、 源吾が子死しぬ、二人ハ運強き者にてありし、 ○小市村の廻り悉く地裂、いつか抜覆もすへき有様 (改頁) なりとそ、小野喜平太目付村々見分の時[出水後、]是を見て 塚田源吾へ申せしハ、斯村を取巻て大造の井ぎれ にてハ、此地に住居せんハ心元なし、何方か地を撰みて 引越て可ならんと、源吾申ハ、今の家ハ水に危く候へハ、 是より山手の方へ多分引て我持地あり、夫へ家作 し侍らん、仰のことく井ぎれ多くありて危き土地には 候へとも、住なれし土地ハ捨難く候と答たりしとそ、 実左もありぬへし、 ○小屋割 一 政府 初ハ幕囲ニして、雨の時或夜半より馬見所へ 引取ぬ、馬見所狭き故、後ハ屋根を覆ひて十 六畳敷ニしけり、内二畳書役出張、二畳ハ小僧役囲 して居れり、 (改頁) ![]() 二 右筆組頭 後にハ政府のむかふ側へ造れり、 三 書記 四 郡方 公事方収納方 町方 折々出ル、 勘定吟味 評義役 横目役 折々出ル、 吟味 普請方 五月半より役所へ引、 目付 仝 (改頁) 五 代官 六 郡方支配 七 賄焚出し 八 目付支配 四ノ裏 諸有司使 御玄関前小屋 番頭以下表役 同柵外堀端 金方三役 夲丸 (改頁) ![]() 厩 馬奉行 支配共 大門脇 同心頭 仝 広場射小屋 道橋方 仝 五月末より四ノ小屋ニ入、 ○廿四日の夜、町家潰れ家破損殊ニ多けれハ、火の用心 心元なけれは、定火消の外に取次役・使役・城詰御供番の 番士二組に申て藩内を廻らせぬ、[番士ハ此夜計、其他ハ四月半まてかくの如し、]廿五日ニ 火消方より増火消を申立ぬ、仍而番士[十人役場方、二人並番士]より加役 (改頁) 申渡、藩内絶間なきやうに廻らせぬ、[加役ハ四月半迄にて止ぬ、]また郭内 をは差立、家督に時代りに廻りをさせぬ、[延享比の風廻り役に似たり、] 後にハ奏者をも加へぬ、[是も四月半ニハ止ぬ、] ○磯田音門、廿七日に西山手を諭し廻りて後、岩倉山の ![]() 抜場見分として行、安庭村に宿り、百性(ママ)等と共ニ小 屋の内に臥せしに、十匁玉の鉄砲打如くの音折々 聞へたり、鉄砲の音かと聞しに、一昨夜抜覆りてより後、 あの如く夜になれは聞へ候と答しとそ、岩倉抜落たる 跡より陽気の発出せるなるへし、又村の童等か、いま 御奉行殿のおつむりの上へ火の玉が落たと呼ひける を、音門きゝて、是ハ火の玉にてハなし、かやうなる大地震 (改頁) ![]() の揺ときハ、陽気といふて地中より火玉の如きもの出る 事あり、更にこはき物になし、驚くへからずと諭せし とぞ、又其小屋にて百万遍をはしめ、夜たくるまて 鉦打たゝきけるハ、騒々しくて眠られざりしと語れり、 翌廿八日犀口に出しと云、 ○公辺より信濃・越後荒所見分として、御普請役佐藤 睦三郎と云者来り、四月十一日ニ坂本宿へ着、十二日田の口 へ出張、十三日に岩くら抜覆りの場見分して、此堰留の やうす中々抜まじ、漸々にハ抜覆るとも五月十日のうちに 抜べしとハ思はすと、小市普請所にて申、ゆる/\酒呑てうち 立しと云、 (改頁) ○岩倉の湛、此程より堰留十丁の間をくゝり、細き滝 ![]() をなして落ると注進追々に有けるが、いかにも細流れニて、 二の湛[藤くらなり、]へ乗にハ容易にハあらしと申事也しか、 次第に水しみ入て、不日に抜なん、しかれとも兼て期し たる如く滝とならんと云もあり、イヤ/\一時に抜来らん と云もあり、どの道抜来るにハ程あらじ、さらば此抜口 のやうす注進の者越なんと、貫実子と牒し合せ、誰かれ と撰みけるに、原田糺ハ五十を越たれと強気者なれハ、 是に西沢甚七郎二人、徒目付を添なば可ならんと、糺を呼出て、 小市に行、岩倉の堰留崩れて水押来り、普請所の土 堤に水少しのらば、脇目もふらず走り来て告よ、水のれば (改頁) ![]() 必土堤きれて保たぬものぞ、長居せば危うからん、甚 七郎と牒し合せ油断せぬがよしと云含め、予懐中 せし人参一包を与ひ、水乗をみば、是を口にふくみ 一息に走り来よ、ぬかる事なかれと、くれ/゛\云ふくめて こしぬるハ十二日の亥の刻比也、是より糺ハ直ニ打立、 西寺尾に行、甚七郎を伴ひうち立し也、 ○上野村明松寺も、兼て御巡見の【(付箋)「明松寺ハ御本陣の御ならしハ無御座候」】時御夲陣のなら し也しが、一揺に地われ、庫裡も本堂も潰れながら 割目へ狭まり落入けると、其まゝ割口をふさぎける と云、ふしきに打れたる者もなく、頓て大勢集り堀出 しけるに、怪我もなかりしとぞ、寺ハ其まゝに土中ニ有、 (改頁) 中より物を運ひ出るに、《チョウ》灯にて出入する事と聞り、 又ある寺[寺名忘れたり、]是も御小休の筈なりしとそ、此 寺に檀中の者寄集りいろ/\世話して後酒のみ けるか、近村より来りし者、我等ハ道遠し帰らんとて、 出懸ける途中にて山抜覆り、其下ニ成て二三人の 者一同ニ死しける、残りたる者ハ猶酒呑て居たり しか、一揺に押潰されて四五人皆圧死せりとそ、 又茂菅村の静松等にてハ、台所の隅に馬屋あり、 其側に徳風呂[五右衛門風呂の事なり、]を居置、中間の爺浴し 居けるか、此処のみ抜覆りて、遙の谷へ落入けるに、 風呂の湯もこぼれもせで、はいりしなりに抜ケさがれ (改頁) ![]() りとぞ、馬ハ驚きて谷を渡り寺に戻りしと云、 残りし庫裡ハ潰れかゝり、夲堂ハ大破したる のみなれど、裏手の山よほと抜て本堂へ押かゝり、 片付んにも容易ならず、大に迷惑せりと云、又上松村 の昌禅寺ハ、さしも名高き大伽藍なりしが、一揺に 潰れて、住持もうたれ、人集りて屋根を穿ち出せし に、しばしハ息も通ひしが、頓て死せりと云、[其砌後住の願出たり、] ○飯山領吉村[吉田村より一り計北、]四五十軒の村立にも有 ![]() けるか、地震揺来りければ、一村の者皆山手に出て避け るに、其内に静になりたればとて、皆々家ニ戻り ける時、裏手の山高き所よりづる/\と抜下り、 (改頁) 一村亡所となれり、近村の者集りて堀出んとし けれども、いかにも土深く埋りて、容易く堀得がたく、 数日かゝりて、四月十日迄に二十軒計堀出しけるとぞ、 土のかゝりたる所、浅きは二三丈深きハ五七丈も十丈 も覆かゝりて、人力にてとても堀尽す事及がたしと 聞り、其中に十日に名主の家へほり当けるが、ふしぎに 名主平然として土中に居たりけるとぞ、[小野喜平太廻村の時此事を きゝて語れり、十六日の間食もせず活居たり しハいぶかしと思ひしニ、後々聞は、味噌をなめ居たりしとそ、] ○善光寺にてハ、夜ナ/\《リン》火あまた出、又助てくれ/\ と呼叫ふと云、雨夜にハ猶多しとそ、斯数千の圧 死、かゝる事もある事なるべし、又飯山にてハ、夜 (改頁) ![]() ナ/\狼山より下り来て死人を堀喰ふ故、鉄砲 を夥しく打て驚かさしむると也、 ○金児忠兵衛近習役飯山親族のもとへ、密ニ願 て、三月廿七日に行て、小屋のうちニ暫く居しが、此日 の頃も地震止なく揺通し、いかにもぶ気味にてあり けりとそ、又御城地大造に揺こみ、町ハ六尺計も一統 揺上しと云、[町六尺計上りたると云事ハ、出水の時の水計り杭ニてしるゝと云、]町ハ潰れたる 上に残りなく焼ぬ、御届を見てしるへし、又家 中も町も二日計ハ黒米の粥を用、用水ハ皆干上り或 泥になりて用る事能はす大ニ難渋せしと云、 ○難に逢たる村方ハ、何れも用水皆干上り、近きハ十 (改頁) 丁二十丁、遠きハ三十丁も一里も先より水を求むるもあり と聞り、 ○藩内に出火なきハ、ひとへに御徳によれり、鍛冶町 ![]() 渋屋権左衛門[谷屋といふ、]方にて商人宿多くなせる故、其夜も 多分宿れりと云、遅く泊れる者ありて、下女七りんに 十分火をおこし立ける時家潰れぬ、皆々迯出けるか、 外にて一人の旅者申けるハ、七りんの火大造にありし と覚たり、消サずハ今に火とならん、火とならハ、此中に てハ忽大火となりて防きがたからん、此潰れかゝりし脇 の方をくゞり入て我等消来らんと云、皆々止めて、いか にして此内に入んや、よしなき事して折角拾ひし (改頁) ![]() 命を捨給ふなと止めけれども、かの者更に聞ず、我命 惜むにたらず、衆人の助け也、且 殿様の御ため也 と、やかてくゞり入、又外ニ出て水一桶提、又はいりて 七りんに打かけ消留しとぞ、此事誰やら申せしに より、 第下へ聞へ上しに、そハ奇特者也、褒美とらせ よと仰ありしにより、金児大助に申て詮義させ しに、其者ハ商人にあらず虚無僧にて、廿五日の朝出立 して、何方へ行しや、又何方の者なるやしれずと答 たりしと申候へキ、気性なる者にてありし、 ○十三日未過る比、予休息に引取しが、西にあたりて鳴 動夥しく聞へぬ、扨ハ彼堰留抜出しか、西の街に行 (改頁) 見て来よと若党を走らせぬ、頓て戻り来て、馬喰町 まて参り候ニ、何ともしれ候ハねと水出候とみへ、西の方大 造に鳴渡り、人東西に奔走し、今郡方様も城山に 登り給ひしと申、さてハ湛抜出しに相違あらじと、 兼て期せし事なから今更に打驚かされ、あはたゞ しく行んも仰山なれば、静にあゆみ行けるに、御城ニ 至りし比ハ鳴動猶更夥しく、石州子も貫実子も 皆土堤に出居られし、予も直ニ行見しに、はや瀬鳴の 音高く聞へ、氷鉋村の辺迄も水押来り、其勢いわん かたなし、先に崩れし土堤ハ過し日普請出来たれど、 尚さし上水いかにあらんかと、三人奔走して指揮し (改頁) ![]() たり、竹村金吾ハ犀口より暮比に帰り来て、御普請役 けふ見分し、暫抜まじと申けるまゝ弥安堵し、七ツ時比 犀口を出懸帰り候ニ、途中鳴動の音も不承候へしが、 舟を渡りて後、初て水出候と承り、鳴動も承り候て 驚入候と申、追々日暮に及ひけるか、水次第に充満し て、酉半比にハ下の方より外の御堀へ水漸々ニ差上、 次第/\に逆流し、亥の比に至りて水の手下外の 御堀へ常水より六尺六七寸も高く土堤へ付たり、 町人足等段々集り、土堤低き所ヘハ急難除の土 俵をつみ上て防き、諸有司も手を下して働けり、 西寺尾よりハ例の如く御立退の船漕来れり、九ツ (改頁) 時比より水少しく引口に成けるが、追々に減じぬ、 これハ柴松原の末、先年切レし処又きれて、金井池 より山手を廻り、大室へ突懸て押たる故、忽水引 たるなり、夜明方に至りてハ多分の減水にて、気遣ふ 事もなけれは、少しの間代りて合て引取休息す、 ○岩倉の堰留、まだ一丈程ものらざれは抜まじ ![]() と皆思ひ居しに、大浪一度打懸るとみし間に、忽チ 十丁の堰留を一時に押払、高浪打て二の湛をも 一時に押切、小市へ出たる時、水の高さ六丈六尺ほと 有しと云、彼真神の大抜を押はらい、小市の町を 片側崩して真直に流出、南の方ハこたひ普請 (改頁) ![]() の土堤にて暫しハ支けるか、是も忽チ押流して、川 中嶋平一面に激水となり、四ツや村を四軒残し 押流したり、上堰より千曲川へハ多分に押入し、 上中下の堰小山堰も皆押潰して一面の河原に したり、川中嶋川北川東流家夥し、御届をみて しるへし、 ○第一番の注進西沢甚七郎也、続きて原田糺戻り 来り、犀口にて人足指揮いたし、甚七郎と共に自分 にても立働き居候へしに、水出候間、扨こそと見をり 候ニ、先水ハいかにもなるく候間、防けぬ事ハ候ましと、小高き 方に引上、尚かれ是と指図候内に、小松原の者申候ハ、山より (改頁) 松を多く伐出、御普請所の上につなぎ流しかけ候ハゝ、大 造防きになるべしと申候まゝ、しかるべしと申、其者 二三人つれて山に入、松一夲伐候計の処、はや御普請所へ 水乗候へとも、何程の事か候ハんと、弥防の手充致し をり候が、次第に水嵩まし、霧なとの如く水煙りたち 押出候まゝ、さらば引ケと申もあへず、甚七郎と共ニ欠 出し、かねて、水のらば山手へ付て迯走り、矢代の船を のりて帰り候へ、遅くともよしと御指図候へバ、山手へ付 迯出候へしが、押来るにハ少しく間もあらんと存ぜし まゝ、赤坂を乗、早く御注進申なんと、山手より又一さん に小森の方へ欠出候へしに、道々水の事里人等に (改頁) ![]() 問かけられ、答しながらひた走りに走り候へとも、年 若の甚七郎に及候はず、一船後れて、七八十人乗組、 川中へ漕出候比ほつと息を継候へしに、はや高浪打 て千曲川へ押入候勢いかにもするどく、水主ハ一生 懸命と縄をたぐり、漸此方の岸に漕付候比は、 はや一面に黒濁りと成、此船ぎり跡ハ通ひ不申、 危き所を乗参り候と申、是より追々ニ注進も ありし、 前にも云、糺いかにも強気也、地震の時土蔵に臥 有しに、一揺に揺潰され、梁下になり、しかも裸に て臥たりしとぞ、うたれ所よかりしとみへて、何と (改頁) かしてかくゞり出、内より土蔵を破り這出たり、然れ共 脊中ハ一面に黒く成、夥敷疵を受たり、され共事共 せず働らきしと云、過し日立が鼻の見分にこせし 時、帰りて後、此度の御用ハ骨折候までもなく候、此うへ 極難場の見積りなど被仰渡候はんならば、いか様 にも骨折勤め候ハんと申せし故、こたびの水乗の 注進にも撰ひて来したりし也、此後又貫実子の 手にて、鹿谷の堰留堀割見分として岩下革を こされし時、糺を付添に申渡されしが、鹿谷の湛場、 誠ニ深山幽谷にして一歩通ひの所なるが、此辺取分て 抜覆り多く、山又山を廻りて漸にして行所もあり (改頁) ![]() けるとぞ、其中に高山左右へ抜覆りて、其峯 家のぐしの如くなる所あり、此処を通らざれば行 がたき故、いかにせんと二人ためらいけるが、外に道 なければ詮かたなし、此処を行かんと相談しける に、糺まづ此辺の様子書付なんと云て、さも尖く 欠落たる岨の上に馬乗ニまたがりて、平然と書 留をしたりと云、革も日比強気者なれど、糺が平 気には及ずと感心して語り聞せし、二人とも 此難場を首尾よく通りて彼堰留場を十分に見 つもり戻りし、[後にハ外ニも道付たるや、追々行たる者も有て、堀割も少しく出来たり、高野車之助も行し、] 其後も所々の難場へ穿鑿として行ぬ、 (改頁) ○十四日十八日の御届左のことし、 ![]() 私在所信州松代、先達而先御届申上候通大地 震ニ而、更級郡山平林村之内岩倉山抜崩犀川 へ押埋、二ケ所堰留、追々数十丈水湛留候処、一両日 前より水漏候へ共、下之方堰留候場所へ水乗候ニは未 弐丈余も有之候処、俄ニ押破候与相見、昨十三日夕七 時過、右山之方大ニ致鳴動、引続き瀬鳴之音高く 相聞候処、一時ニ激水右川筋へ押出し、忽左右之土 堤押切或乗越、防方も届兼候旨川方役人共より追々 致注進候処、間も無之、川中嶋数十ケ村一円水押、千 曲川へ流込逆流致し、既居城際迄水多く押 (改頁) ![]() 上、暮時より夜九ツ時比迄ニ千曲川平水より二丈計 相増、川中嶋は勿論高井郡・水内郡之内川添 村々水中ニ相成、瀬筋相立候様相見候処も数ケ所 有之、作物泥冠ハ勿論、押堀候ケ所夥敷可有之 候得共難見極、夜半過ニ及候而漸水丈も相定候様 子ニ候処、暁ニ及次第引水ニ相成申候、兼而村方之者 共水防手当申付置候得共、俄ニ押出、未曽有迅速 之大水、在外之儀ニ而流家は勿論溺死も数多可 有之候哉、其上多分之損地も出来可申与心痛罷在候、 委細之儀は追而取調可申上候得共、先此段御届申 上候、以上、 (改頁) 三月十四日 私在所信州枩代、此程先御届申上候通大地震 ![]() ニ而、更級郡山平林之内岩倉山抜、犀川へ押埋 候場所、去十三日夕一時ニ押出、大川筋江押切、里 方江之出口より左右之土堤押切乗趣、夫より川 中嶋一円水押来、城下より一里程上同郡横田村 辺より千曲川下続ヘ一面ニ押入候、水勢甚強、下 筋よりも追々湛来交溢水ニ相成、専致逆流、居城 際迄押上、城内地陸より水高相成候処、去ル文政年 中御聞置筑(ママ)立候水除土堤ニ而相凌、尤所々及 (改頁) ![]() 大破候付、種々手当申付急難相防候内、致減水 候故、危城内へ水入不申候へ共、城下町江は余程水 押申候、左様之次第ニ付、流末川辺村々より御料所 中野平辺迄致充満、如湖水相見候処、追々減水 及候付、早速見分差出候得共、大小橋々多分流失、 其上水引候而も地窪之所水溜居、或道或堀等 ニ而通路難相成場所有之、凡之見積も出来兼 候得共、犀川湛場破方之儀は段々水嵩相増、探サ 二十丈ニも及、少々宛水乗候ニ随、岩倉山麓之方 追々欠崩候而水筋相付、大水乗初候は一時ニ押 埋候岩石等押崩、梺之方江も多分欠込、数十日 (改頁) 之湛水川中嶋江押出候儀ニ御座候、右為防、此度 水内郡小市村渡船場下続左右之土堤へ、石俵 を以俄ニ急難除為築置申候、然処右は川中嶋 其外川辺御料・私領村々之為ニ付、領内之人夫 は勿論、近領水冠ニも可相成村々よりも多人数 差出、精々致普請候儀ニ御座候得共、広大之水勢 ニ而暫時も不保、不残押流申候、且又水内郡 小市村之内字真神山先達而抜崩、高サ二十間 程横五十間程之処犀川へ八十間程押出、残ル川 巾僅ニ相成、其儘差置候而は聊之水ニ而も川筋致 変化候儀ニ付、精々掘取申付候得共、岩石等多行届兼 (改頁) ![]() 候処、此度之激水ニ而忽ニ押流、百数十人ニ而難動 程之大石を、川下或川辺村内耕地江押出申候、 其辺之水丈六丈余ニも及候ニ付、川辺村々之内 更級郡四ツ屋村之儀は、軒別八十軒余之内六 七軒相残悉致流失、一円之河原ニ相成、右ニ准し 家居不残押流候村方も多有之、其上山中筋水 付之山多分欠崩候ニ付、大木等流出、是か為ニ被押 倒致流失候居家も不少、流家凡六百軒余、其 外石砂泥水入多有之、流失人も御座候趣相聞候へ共、 未相分不申候、且川下村々之内ニは地窪之耕地 今以猶一丈程も水溜居候次第ニ而、損地等之儀は (改頁) 中々凡之見極も不行届、北国往還丹波嶋宿辺 より千曲川・犀川落合之辺ハ一円之乱瀬ニ相成、 丹波嶋宿并北国往還川田宿・福嶋宿之三 宿前条之次第ニ而、人馬継立出来兼候、且又川辺 村々米穀之儀は山手村々へ相移候様兼而申付置 候得共、其外近辺村々ハたとへ水押来候共流失 は致間敷与心得、棚等拵候而上置候穀物居家一 同致流失候も不少、右ニ付村々為救方所々へ役人 差出、喰物炊出并小屋懸手当等専申付候、殊ニ 川中嶋村々犀川より引取候用水堰三筋、外ニ壱 ケ所之水門跡形も無之押埋候ニ付、呑水一切無之、 (改頁) ![]() 救方喰物炊出之儀も、場所ニ寄二三十丁之遠 方より水運候儀ニ御座候、畢竟、前条堤普請之儀も 右様之儀無之様仕度急難防ニ而、地震ニ而居 家震潰候村々之者迄も申渡を不相待日々出 精築立候、其甲斐も無之、一時ニ破壊致候ニ付、居 家流失水冠ニ相成候者共は猶更之儀、一統途方 ニ暮罷在候而、日用之呑水ハ勿論、眼前之苗代 水引方堰普請も早速行届申間布、必至与指(ママ)支、 人心不隠甚不安心奉存候、専ら手当等申付罷在候 得共、城内初家中屋敷破損并城下町領分村々 潰家死失人夥敷、田畑道路地裂、地陸床違ニ (改頁) 相成、又ハ山抜覆等之大変災ニ打続、此度之大水 患、且今以昼夜鳴動并震止不申候、何共気遣敷 次第、甚以痛心仕候、委細之儀は追々取調可申上 候得共、猶又此段先御届申上候、以上、 四月十八日 ○中之条県令[川上金吾助、信州御取締]より御届左の如し、 ![]() 信濃国大地震之次第先御届 当月廿四日昼夜快晴暖気ニ而穏之日ニ御坐候処、 同夜四時頃大地震ニ而、信州中之条村私陣屋 構煉塀所々ゆり倒し、其外陣屋元近辺村々 (改頁) ![]() 農家手弱之分は下家廻りゆり倒し、厳敷震 動いたし、暫罷在漸々相止り候処、夫々少々宛之間 を置不絶震動、陣屋より北之方ニ当り雷鳴之如キ 響有之、夜明迄之内ニて凡八十度余之地震、翌 朝少々静ニ相成候得共、今以震動相止不申、支配 所水内郡村々之内ニは潰家怪我人等も有之候 由御坐候得共、未訴出不申、追々風聞之趣承候処、 同国川中嶋辺より善光寺、夫より南へ当り山中与唱候 一郷辺重モ之地震与相見、川中嶋辺は民家一村 不残又ハ過半ゆり倒し、其上出火ニ而不残焼失 いたし候村々も有之、一村三四十人位より二三百人程も (改頁) 即死怪我人有之、善光寺町は家並大体不残 ゆり倒し、其上焼失致し、大造之即死怪我人 有之、都而往還筋は此節善光寺供養ニ而夥 敷旅人泊り合せ居、其故死人も多分御座候由、 山中辺ハ手遠片寄候故様子難相分候得共、犀川 上手ニ而山崩有之、川巾留切、流水更ニ無之、丹波嶋 舟場干上り、歩行渡りいたし候由御坐候、越後表之 儀は如何御座候哉、様子相分不申、右は風聞迄之儀 ニ而未聢与難相分候間、早速手代差出、支配所 潰家其外見分吟味之上、外最寄村々損亡をも 風聞相糺、委細之儀は追々可申上候、且御預陣屋付 (改頁) ![]() 同国佐久郡村々之儀は前同時大地震致し 候得共、善光寺辺与は里数も隔、次第ニ劣り候哉、 陣屋并支配所其外最寄私領村々共纔宛之 破損等有之候趣ニ候得共、為指儀も無之、怪我人亡 所等無御坐候、先不取敢此段御届申上候、以上、 未 三月廿五日 川上金吾助 御勘定所 ○四月十五日公辺より越後・信濃荒所見分御用として ![]() (改頁) 御勘定御目見直井倉之助・松村忠四郎、御普請役以下 小林大次郎・佐藤友次郷、吟味方下役同上柴田隼太郎、 中之条へ着、小松原村へ出張、数日之逗留、竹村金吾其 外有司等数度出役、数々御送物あり、[是ハ国役御普請御頼ニ付てなり、] ○飯山侯夲多豊後守御届左の如し、[郡方へ御側より送る、] 私在所信州飯山、去月廿四日亥刻比より大地震ニ而、 先達而先御届申上置候通ニ御座候処、其後も相止兼、昼 夜度々相震候趣ニ御座候、手遠之村方ハ未相分り兼候得共、 城内并家中城下町破損所左之通御座候、 一 本丸 一 渡櫓一ヶ所 潰 (改頁) ![]() 一 冠木門一ヶ所 潰 一 石垣崩二ヶ所 一 囲塀不残 倒 一 土蔵一棟 潰 一 同一棟 半潰 一 二重櫓一ヶ所 損 一 物置一ヶ所 潰 一 二ノ丸 一 門一ヶ所 半潰 一 囲塀不残 倒 一 住居向 半潰 (改頁) 一 土蔵三棟 潰 一 腰懸一ヶ所 潰 一 帯曲輪 一 武器蔵一棟 損 一 同 一棟 半潰 一 番所一ヶ所 同断 一 囲塀[西之方東之方] 倒 一 物置一ヶ所 損 一 三ノ丸 一 門 一ヶ所 潰 一 櫓 一ヶ所 同断 (改頁) ![]() 一 土蔵一棟 同断 一 囲塀不残 倒 一 西曲輪 一 門壱ヶ所左右 損 一 住居向 半潰 一 土蔵一棟 同断 一 稽古所一ヶ所 損 一 囲塀 倒 一 小屋一ヶ所 潰 一 井戸上屋 半潰 一 大 手 (改頁) 一 門壱ヶ所 潰 但二階門 一 同所左右囲塀 倒 一 番所一ヶ所 損 一 切通石垣 崩 一 土蔵二棟 半潰 一 物置蔵二ヶ所 潰 一 囲塀西之方 倒 一 中門一ヶ所 潰 但二階門 一 同所西之方囲塀不残 倒 (改頁) ![]() 一 板囲塀 同断 一 同所西之方囲塀 同断 一 裏門一ヶ所 損 但二階門 一 番所一ヶ所 半潰 一 物置一ヶ所 同断 一 多門一棟 潰 一 同所囲塀 倒 一 門一ヶ所 潰 一 番所一ヶ所 半潰 一 外廻り (改頁) 一 稲荷本社拝殿共 潰 一 建家四ヶ所 潰 一 番所一ヶ所 潰 一 家中侍居宅 一 四拾四軒 潰 一 六軒 焼失 一 六軒 半潰 一 四軒 損 一 門一ヶ所 半潰 一 長屋一棟 潰 一 物置二ヶ所 潰 (改頁) ![]() 一 厩一ヶ所 内 一 内一ヶ所 同断 一 内馬場一棟 同断 一 献上蔵一棟 同断 一 作事小屋一ヶ所 同断 一 中間部屋二棟 焼失 一 船蔵一棟 半潰 一 侍分家内小役之者下々迄即死 八十六人 内 (改頁) 男 四十人 女 四十六人 一 城下町之内 御高札場一ヶ所 焼失 但御高札は外シ置申候、 一 番所一ヶ所 同断 一 同一ヶ所 潰 一 土蔵一棟 焼失 但囲籾千石不残焼失仕候、 一 竃五百十七軒 焼失 一 同三百拾弐軒 潰 (改頁) ![]() 一 同門 一 拾七ヶ所 潰 一 弐ヶ所 焼失 一 三ヶ所 半潰 一 八ヶ所 損 一 同土蔵 一 三棟 焼失 一 二棟 潰 一 五棟 半潰 一 同侍并小役之者長屋 一 拾八棟 潰 (改頁) 一 拾弐棟 焼失 一 三棟 半潰 一 番所 一 三ヶ所 潰 一 壱ヶ所 焼失 一 壱ヶ所 半潰 一 壱ヶ所 損 一 舂屋一ヶ所 潰 一 用会所一ヶ所 同断 内 一 土蔵一棟 潰 (改頁) ![]() 一 同一棟 類焼 但囲籾五百石不残焼失仕候、 内 七軒山崩ニ而泥冠 一 土蔵百七拾壱棟 焼失 一 同五拾棟 潰 一 土蔵上屋計廿棟 焼失 一 牢屋敷 内 壱棟 同断 但牢入者怪我無御座候、 (改頁) 一 寺院 一 本堂六ヶ所 焼失潰共 一 同六ヶ所 半潰 一 門三ヶ折 同断 一 庫裏十ヶ所 同断 一 同七ヶ折 潰半潰共 一 諸堂十七ヶ所 焼失潰共 右之外物置焼失潰等数多御座候得共、未タ取調 出来兼申候、 一 城下町人即死 三百三人 (改頁) ![]() 内 男 百三十八人 女 百六拾五人 外ニ 一 非人 男 一人 一 穢多 男 一人 女 弐人 一 馬八疋 死失 右之通御座候、猶領内之儀者取調之上、追而 可申上候得共、先此段御届申上候、以上、 四月十三日 夲多豊後守 (改頁) ○中野県令[高木清左衛門、信州御取締]よりの伺 ![]() 丁未 大地震之趣御救拝借之儀付伺 御代官所当分御預所 惣高五万八千三百六十二石九斗九升弐合弐勺 内高壱万七千七十六石弐斗九升弐合 村高四万千二百八拾六石六斗壱升弐勺 潰家弐千九百七十七軒 内 七十七軒 身元ヶ成之者共并 無難之者助合候村 々之分除之、 (改頁) ![]() 御代官所当分御預所 信州水内郡 九十壱ヶ村 一 潰家二千九百軒 内拾六軒 土中埋不相知分、 一 潰家二千百六十三軒 一 半潰家七百三十七軒 但半潰之分木品窓打砕不用立潰家同様御座候、 外 一 潰家札場拾弐ヶ所 一 潰郷蔵二十二ヶ所 (改頁) 一 潰堂宮寺六十六ヶ所 一 潰土蔵三万三十壱ヶ所 一 潰物置九百拾四ヶ所 右者当三月廿四日夜大地震ニ而、私御代官所当分御預 所信濃国高井郡・水内郡村々災害之始末不取 敢御届申上置、早速手付手代共手配差出、私儀も 廻村仕、村々災害之様子見分仕候処、殊ニ以絶言語候 奇変之体恐怖仕、見ニ不忍、地面割裂七八寸より五六 尺余数十間程ツゝ筋立開、右割目より夥敷黒赤土 等之泥水吹出、歩行相成兼候場所等多有之、其上所々 山崩土砂水押出し、大水転落田畑共悉ク変地致し、 (改頁) ![]() 多分之損地相見へ、村々用水路所々欠落崩及 大破、或床違ニ相成場所も有之、水乗不申用水絶々ニ 相成候村々多有之、谷川等之分大石土砂押出震埋、 所々欠落及大破水行を塞、平一面ニ隘出、泥水押 落、且潰家之儀いつれも家並平押ニ潰、桁梁矧 目臍木等其外建具類打砕、家財諸道具等は 悉折毀、銘々貯置候冠中(ママ)ニは土中に押潰り候分も有之、 最初見廻候比ハ村々共小前ハ勿論、村役人共迄夲 心取失、更ニ諸取片付之心得も無之、銘々潰家前ニ家 内一同雨之手当も不致、只々途方ニ暮忙然と致し居、 私を見受狼狽頻ニ落涙止かたく悶絶致し、尋候 (改頁) 答も出来兼相伏居、小前老若男女共泣叫居、怪我 人共夥敷倒、苦痛罷在候有様難申上尽、不便至極 歎嗟仕、いつれ之村々共同様之次第ニ而、差当り夫食 之備有之もの共も潰家下ニ有之、殊ニ泥水を冠り容 易ニ取出し候儀出来兼、小前末々ニ至迄夫食手当無之者 共、将又呑水ハ用水を呑来候処、泥水交ニ相成及飢渇候処、 自他村々一般最寄助合候方も無之候間、当時救方 夫食之手当相成候丈ハ致遣候得共、百ケ村余之儀故、 惣躰救方迄私之自力ニ届兼、身元ケ成之者共迚も 潰家災難ニ逢候事ニ而、奇特之取計候助合も出来兼、 無拠郷蔵囲穀等を以、手代共手配廻村為相凌罷在、 (改頁) ![]() 陣屋最寄村々之分ハ中野村・松川村寺院社内境 内へ小屋懸致し、極難之者共救遣候儀ニ有之候、且 追々村々人牛馬死失書面之通ニ而、五百七八十人、 怪我人千四百六十人、右之内片輪ニ相成、農業渡世 相成不申者も多有之、斃牛馬百五十疋、右之外善光寺 江致参詣、三月廿四日夜同所ニ止宿、地震ニ而焼死 候し者男女二百人余有之、この分ニ而ハ人絶ニ相成、災害 村々之分人別弐分七厘之減ニ相成、支配所高五万八千 三百石余之処、無難村々ニ而三分一ならてハ残り不申、高 七分余ハ災害村々ニ而、何とも歎敷儀ニ御座候、差向 村々用水路手入不仕候而は呑水ニ差支、且ハ田方用水 (改頁) 肝要之時節ニ付、何れも捨置取繕不申候而は、苗間ハ 勿論無難之田地植付候も差支候処、場広大破之儀 中々以村々及自力不申候、火災等之難共訳違、家作 田畑山林等迄覆候大災、就中水内・高井両郡共大地 震痛強、捨置候而者皆潰亡所ニ相成候村々多、人命 ニ拘り、末々御収納御国益を失ひ、不容易儀、迚も御 救不被下置候而ハ何共可仕様無御座、且又右大地震 ニ而北国往還丹波島村渡船場より凡二り半程川 上、真田信濃守領分平林村地内字虚空蔵山 凡二十丁程之処山抜覆、犀川へ押出し埋り、川中 を〆切候間、流水を堰留水湛、当時川上村々平地へ (改頁) ![]() 水開候得共、湛留切候ハゝ自然与押埋候、〆切水力 ニ而押崩可申、其節如何様之洪水ニ可相成哉気遣 敷、支配所千曲川縁村々申越候ニ付、信濃守家 よりも懸合有之、右故当時千曲川平水より七八尺減 水致し居、川筋村々心配致し山添高場ニ立除 居、切開候ハゝ如何可有之、数日湛留候を一時ニ押流候ハゝ、 又候水災之異変出来可申与、殊之外人気不穏 心配仕候儀ニ御坐候間、前書申上候災害難渋ニ陥候 次第、得与御賢察被下、相続方并自普請所用水 路大破ニ付、金弐千五百両書面之村々江拝借被仰付 被下度、左も無之候而ハ迚も相続筋は無之、万一此上 (改頁) 難渋ニ付、且心得違之人気立候様ニ成候而ハ恐入、深く 心配仕候儀ニ御座候、支配所村々之者共儀、昨年来同 国他之支配所ニ無之御国恩を(本ノマヽ)定め、増米上納 相願候実心之民共、空敷退転為致候段歎ヶ敷 奉存候間、御仁恵之 御沙汰を以、永年賦拝借被 成下候様仕度奉存候、然ル上ハ右拝借金高村々ニ応し 割賦貸渡、年賦返納之儀ハ別状を以相窺候様 可仕候、早速伺之通拝借被仰付、御下金被成下候様 仕度奉存候、依之災害村々一村限帳一冊相添此 段奉伺候、以上、 弘化四未年四月 高木清左衛門 (改頁) ![]() 此伺書写誤りあるへし、 ○松夲侯御知らせ左のごとし、 ![]() 丹波守様御領分信州筑广郡・安曇郡、去ル三月 廿四日夜四時比地震強、其後折々震有之、破損 所等有之、左之通、 一 御城内要害之外、所々屋根損壁落瓦損 一 侍屋敷並土蔵所々壁落 一 城下町潰土蔵二ヶ所 一 同半潰土蔵二ヶ所 一 田畑高五百七十九石余之場所荒地 (改頁) 一 地割八十九ヶ所 此間数六千四百四十五間 一 道損百三十七ヶ所 此間数三万弐百三十七間 一 山崩大小千四百七拾七ヶ所 一 同断沢水突留湛四拾壱ヶ所 一 落橋四十九ヶ所 一 用水路欠落七十三ヶ所 此間数九百間 一 犀川突留家居水入二十八軒 一 在家潰家三百九拾六軒 (改頁) ![]() 一 同半潰家七百六拾一軒 一 同潰社三ヶ所 一 同半潰社一ヶ所 一 同潰拝殿四ヶ所 一 同潰寺院三ヶ所 一 同半潰寺院二ヶ所 一 同潰堂八ヶ所 一 同半潰堂二ヶ所 一 同潰土蔵六拾九ヶ所 一 同半潰土蔵九拾一ヶ所 一 同潰物置七拾九ヶ所 (改頁) 一 同半潰物置七拾四ヶ所 一 同潰郷蔵一ヶ所 一 同潰御高札場二ヶ所 一 同潰口留番所二ヶ所 一 死人男女六十七人 一 怪我人五人 一 斃馬三十四匹 右之通御座候、御損毛之儀者追而可被仰上旨、今 朝御用番阿部伊勢守様より御届被仰上候、右為 御知被仰遣候、云々、 ○廿四日より川中嶋川北川東御救として五日のうち (改頁) ![]() 焚出し仰付られぬ、場所は川中嶋ハ小松原と八幡原、 川北ハ北高田と下高田、川東ハ東川田村也、代官懸り にて手代二人ツゝ行て指揮す、此御救莫大なる事 にて、家を流し或家ハありても深く泥の中ニ入て、 貯置る米穀も或流し或水入にしたる者共、老幼男 女の差別なく皆集ひて頂戴し、難有かりける事共 たとふるに物なかりしと云、 ○予か知行若宮村ハ前に記す如く、善光寺にて圧死 十二人有しのみ、別条なし、東川田村ハ泥入多く地 所も流せりと聞しかは、蔵元を呼出て尋しに、御領の うちハ格別の事もなしと答ぬ、藤牧村も水入ニ成て (改頁) 損地ありしと聞、尋しニ、是も左迄の事なしと云、安庭村 ハ僅に二十石なれと、潰死失もあり、聊手充し侍る、 潰六人 金弐歩 半潰四人 金弐朱 極難渋者一人へ金弐朱 死失三人宅へ線香三包 村方十三人へ酒代金百疋 吐唄村ハ六石五斗五升の知行なれと是にて一村なり、 大荒にて目もあてられぬ躰なりと云、 潰二人 銀拾匁 半潰九人壱貫八百文 極難渋者四人へ金弐分 中難渋者一人へ銀五匁 死失二人宅へ線香二包 外ニ今年之小役金壱分村惣割ニして遣ス、 (改頁) ![]() ○同心或ハ出入の者難に逢たる者へハ皆尋遣し、 素麺干物の類夫々に送りぬ、一々に記さんハ煩はし けれはもらしぬ、 ○出入のうち善光寺の清吉夫婦とも圧死して 跡たへぬ、此他死失なし、 |