石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第六章 經濟交通

第二節 物價

次いで安政三年以降米價連りに騰貴し、四年の秋に至りて益甚だしかりき。これ一は同三年中諸士困窮を救濟せんが爲、銀札一萬貫を増發したる結果たりしものゝ如し。是に於いて下民の困難實に名状すべからず、隨つて甘薯・酒粕等を以て空腹を滿たさんとする者ありしに、その價又暴騰したりしかば、金澤町奉行は是等の食料の公定價格を示して制限を加ふるに至れり。この冬勞働益閑散にして職を失ふ者多かりしを以て、越中礪波・射水の郡奉行高田彌八郎はその救濟をに禀請せしが、御算用場奉行との議合はずして職を罷められ、金澤町奉行岡田太郎兵衞も同じく意見を述べしも、亦御算用場奉行の反對する所となりて行はれざりき。翌五年三月稍好況を示し、人心をして安堵せしめたりしが、幾くもなく梅雨の候に入り、土用に至るまで霖雨晴れざりしかば、米價忽ち奔騰し、七月朔日半納期に於ける相場一石百二十目餘、實米に在りては百五十目を唱へ、物情頗る騷然たりき。是に於いて町奉行は更に之に對する處置を講じ、屢老臣に懇請する所ありしに、老臣等將に救濟の方法を決する所あらんとせり。而も下民に在りては、此等當局の事情を知らざりしかば、七月十一日夜多數の男女城東卯辰山上に登り、米價貴くして食を得る能はずと絶叫し、翌夜亦之を繰返せり。この日米價一升錢百二十九文を唱へしが、貧民絶叫の効果や顯れたりけん、十三日百文となり、漸次低下して七十八文に及べり。而もは此の如き不穩行動を默許すべきにあらずとなし、二十六日主謀者と認めたる卯辰の髮結床能美屋與兵衞・同町の日稼河原市屋方頭振文左衞門・越中屋宇兵衞・原屋善兵衞及び春日町の日稼北市屋市右衞門を捕へ、六年四月十三日之を刎首の上梟刑に處せり。石川郡鶴來に於いても、亦五年七月十五日暴民蜂起して富商の邸宅を毀ちしものあり。その主謀者は、翌年九月に至りて梟首の刑に處せられき。

 當年梅雨(安政五年)の頃より土旺中へ懸け霖雨にて、凶年との米商ひする人の見込にや米價騰貴せしまゝ、石川・河北兩郡山方村々之者ども、愚かなる心にて繩ヶ池とやらんへ金氣の品を打入れしにより、山神崇をなし給ひて霖雨をなし給ふとの訛言起り、鴛ヶ原村の長或は二俣村の長などの家を、數百人集り夜中來りて打毀せしよし。夫より甚しく誠に可恐は、七月十一日の終夜すがら、二千人計り御城の向ひ山庚申塚の邊へ登りて、君上之御聽に入り奉り候樣、又御城下中へも響き渡る樣に、ひだるきとて女童迄泣き叫び、又十二日の夜にも四五百人も泣き叫びたりしかども、町奉行等より役人差出置制し候故、宵の中暫時泣き叫び鎭りたりしよし。石川郡鶴來村へ、七月十五日の夜能美郡山入り村々之者ども黨を結び、數百人猪を獵する鎗など手に〱携へ來りて、批商人之家・福有之者の家を打毀ちたり。越中高岡・氷見・放生津・井波・福光は打毀ちたり。
〔近山仙人之操言〕