石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第六章 經濟交通

第二節 物價

文化五年、前年の凶作により貯穀大に缺乏したりしが、特に小松に於いては米價騰貴して小賣一升錢八十三文となれり。是に於いて町民等、騰貴の原因を奸商の買占に因るとなし大に激昻したりしが、偶閏六月二十七日子刻暴民勸歸寺の門内に入りて鐘を鳴らし、雷同するもの二百餘人を集めて、直に八日市町の久津屋三郎助及び小杉屋六兵衞の家を襲ひ、戸障子を毀ち家族を驅逐せり。後之を檢するに、比隣數戸も亦その禍を蒙り、衣服器玩の破毀せられ、若しくは掠奪せられたるもの尠からざりき。その夜又暴民喧騷せんとすとの流聞ありしかば、乃ち毎戸燈火を點じて自警せしめ、且つ急使を金澤に派して割場附足輕五十人の出張を要求し、小松城所屬の足輕五十人と共に鐵炮を携へて戒嚴したる外、町吏も亦火事裝束を著用して巡邏すること十日に及びしに、その間何等の事故なかりしを以て止めり。既にして小松町奉行河村茂三郎は指扣を命ぜられ、被害者久津屋三郎助・小杉屋六兵衞の二人は金澤に拉致せられて取調を受け、後に小松に送還せられたるも、翌年三郎助のみは追放の刑に處せられき。蓋し糺問の結果米穀買占の事實ありたるに因るものゝ如し。是より先、藩吏かの兇徒を嘯集せしものを搜索せしに、中町の高堂屋庄次郎といふ者落文を爲し、又郡内尾小屋村の農民を使役して所々に廻状を齎さしめたるの情を得たり。乃ち庄次郎を捕へて鞫問したりしが、彼は遂に白状したりしも、他に共謀者ありしことを言はず。是を以て翌六年五月二十七日藩吏は、今江村端に於いて庄次郎を磔刑に處せしに、邑民彼が獨衆人の罪を負ひたるを憐み、毎夜刑場に香華を供へたりといふ。細工町の沖屋庄兵衞も、亦庄次郎に勸めて廻文を爲さしめたりとの罪により、梟首に處せらるべき宣告を得たりといへども、既に牢死したるを以て實刑に服することなかりき。

 元來米直段高直、下々致難澁、夫に付同所町奉行河村茂三郎等取唀方惡敷樣に取沙汰有之儀、夏以來之事に候處、閏六月中旬之比頻に其沙汰募り、茂三郎方へ出入之町人久津屋三郎助・小杉屋六兵衞評判惡敷、毀し可申抔と申沙汰有之候。然所同月二十七日夜雨降闇夜成しに、九時頃三百人餘も寄來、兩家々財悉く打毀し、建具過半毀し退散。其爲躰一圓卑賤之者之仕形にては無之。最初勸歸寺之門内へ入、鐘を撞人を集め、兩家共に同町に付前後より打寄、相圖は小兒の太鼓或は拍子木に而懸引致し、毀し候者初は少人數に候得共、後には二百人計懸り候躰。扨兩端之辻、其外八幡社・穢多町邊・淺井繩手邊等所々に五十人或百人、都合千人計り集り來居候躰。是は毀し人引揚之節、守護人躰と云々。其外寺町邊も裏々を徒黨人相廻り、誰々も提灯持歩行候者有之候得ば、竹竿にて打毀し、曉八時過皆々引取。町附足輕・町役人等罷出雖之、長熊手或は棒・斧・竹鎗・古鑓等持寄り候者に被打伏者も餘程有之、中々難之。然れ共引後れ候者三人、西俣村清右衞門・同所次郎右衞門・尾小屋村傳右衞門せがれ與四兵衞召捕、役所え連行令禁牢。右徒黨人、元來張本は町より出で、御郡方之者を誘き出せし躰。凡能美郡等十八ヶ村之百姓、並山方よりも出たる躰也。
〔政隣記所載小松馬廻書簡〕