石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第六章 經濟交通

第二節 物價

天明二年諸色高價となり、盜賊所々に横行す。三年秋又氣候不順にして作毛熟せず、秋雨亦多くして稻を乾かすに堪へず。是を以て四年正月以降米價日々昂騰し、八十目より九十目に進み、五月より六月の間は百二十目を支拂ふも之を賣るものなく、能美郡にては餓莩を出すに至れり。乃ち所々に米賣場を設けて貧民を救濟し、七月米三萬五千石を一石四十三匁に賣出しゝに、之より日々下落して四十目を唱へ、前日來の反動として先安の見込濃厚なりしかば、七月朔日半納期に藩士の拂米を買受けんとするものなく、爲に藩士は皆盆節季の仕拂を停止せり。次いで六年氣候又順ならずして米價騰貴したりき。

 天明四年甲辰正月より米次第に拂底[常の直段大抵一石に付、 四十匁より四十五匁位]八十目・九十目・百目と騰躍し、五月・六月に至り百二十目餘となり、右の直段にても米なし。只野山の草々の根を掘木の芽を食とす。下敷の糠迄も喰盡せり。干菜一連三十五錢(文)に買しとしるべの方の書状于今所持せり。御上よりの米賣場有といへども、兼て家毎の家數・人數を以、男三合女二合の札渡りて餘慶は望がたし。依て薪を負ながら道に倒れ、椀を持て道に死する者は毎日三人五人なり。町里浦山々も皆然なり。小松山王(能美郡)より八幡迄の往還玉縁に倒伏し、通る人を見てひだるし〱と泣。此所計にても毎日餓死する人多し。勘定村山にセキメンとて、至て白く、碎けば葛根の如き潔白成る土あり。飢饉には食物と成と言傳侍れば、是を取り麥稈など少し宛交ぜて食せしに、何れも糞つまりて皆死せり。若後世かゝる事ありとも必喰ふべからず。扨て九月より冬に至て、疫癘はやりて死する者家毎なり。是皆同じ。わけて山方は夥し。予其頃鍋谷村と云を通りしに、屋根崩れ扉傾き、葎に埋れし家軒を並て數を知らず。皆死絶たる家なり。死骸は葬るべき人なければ、皆谷へ捨たりとかや。小松にても行たふれ死たる者は、三昧に大き成る穴を掘置、死骸どもを投込し也。後其跡に石塔立て今に哀を殘す。
〔螢の光〕