第六章 經濟交通
第一節 貨幣
飜つて大聖寺藩に於ける紙幣發行の沿革を考ふるに、加賀藩よりも早く、元祿十四年九月廿三日より銀十匁以下二分までの銀札を發行して正銀と混用せしめ、一分九厘までは錢遣を命じたるに起る。然るに寶永四年十月十三日幕府は各藩に紙幣の停廢を命じたるを以て、大聖寺藩は廿一日以後正銀を使用すべきことを發令せり。次いで享保十四年六月四日幕府は既に一たび紙幣を使用したることある藩に於いてのみ、幕府の許可を得たる後之を再發行することを得とせるを以て、大聖寺藩にては二十年十月を以て之を通用せしめたりしが、翌元文元年四月七日城下の町民等銀札と正銀との交換比例の不當なることを唱へて札場に殺倒せしことありき。之より後銀札の沿革に就いては全く之を明らかにすること能はず。天明六年十二月十七日大聖寺藩は米札の名義を以て錢札を發行す。然るに幕府は寛政十一年四月米札の通用を禁ぜしが故に、藩は同月十二日限り之を止め、七月更に錢手形を發行せり。文化二年新札を以て引換へ、錢鈔二宇の印を押捺し、舊札の錢及び手形三字を除く。同十三年四月錢手形十貫文を以て銀百目に相當すと公定し、その正金銀と交換する場合の差額を定む。錢手形の沿革も亦之を詳にせずといへども、藩末に至りては五貫文・一貫文・五百文・三百文・二百文・百文・五十文・三十文・二十文・十文の十種の錢札あり。廢藩の時に存したる總數九十二萬千六百五十枚、この價八十八萬四千九百貫文なりき。
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