石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第六章 經濟交通

第一節 貨幣

寛永通寶發行以後、寛永通寶の鑄型を用ひたる鐚錢多く行はれ、青銅錢と共に同じく一文として通用せられたり。而も青銅錢鐵錢とを同一價格とすることは、甚だ不條理なるが故に、加賀藩に在りては、文久二年十一月令して、寛永通寶一文錢を鐚錢二文に、四文錢を鐚錢八文に通用せしめき。是に於いて錢一貫文は、一文錢一千個にあらずして五百個の稱呼となり、之を他に比するときは二倍の購買力を有することゝなりしが故に、貨各地より集り、人をして大に利便を感ぜしめき。然るに慶應元年閏四月幕府は、原料たる價との比例當を得ざるを理由し、寛永通寶價格増加すべきを命じたるを以て、加賀藩にては改めて、寛永通寶四文錢を鐚錢十二文、文久永寶を鐚錢八文、寛永通寶一文錢を鐚錢六文に用ひしめしが、その後更に寛永通寶四文錢を四十文、文久永寶を三十文、寛永通寶一文錢を二十文に通用せしめたりき。天保通寶に在りては當百錢なりといへども初より九十六文替に通用したりしが、後外に於ける相場低廉にして流入すること多きを以て、慶應三年二月之を八十八文替に改め、六月更に八十文に改む。而して明治の後、他地方に在りては、多く十錢を一貫と呼ぶに反し、石川縣にては五錢を一貫と呼ぶの慣習ありたるは、前者は寛永通寶一文錢を十文として通用したるも、金澤藩にては先に言へる如く二十文に通用したるによるなり。