石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第五章 殖産製造

第五節 鑛業

能美郡金平の金坑は澤村と金平村との間一帶の地に在り。故に澤の金山とも、澤村山とも、金平山ともいひ、山下に不動尊を祀りたるが故に不動山とも名づく。採鑛のことの明らかに之を知り得べきは、澤村の人源次の開坑せし時にあり。源次は石黒氏、寶暦四年十月父の後を受けて十村に任ぜらる。是より源次はの鴻恩に報ぜんとの志を立て、專ら殖産興業に力を盡くし、郡奉行奧村安弘及び木梨政仲に謀りて採掘に從事したる結果、遂に金坑を發見することを得たり。葢し源次の由緒書に據れば、『安永元年より金平村領に於て金山相稼申』とすれども、小松の人二口某の筆録せる螢の光には、明和七八年の頃より開坑すといへば、夙く明和中より着手したるが、その成績佳良なりしを以て安永元年公然之をに上申し、而して同年十一月は源次をして金山御縮方主附たらしめしなりと解せらる。初め源次は選鑛製煉に熟達する者を得ざりしが、陸奧の人喜八を雇傭するに及び漸く好果を得、更に所々を踏査して雛谷・乳母谷・大谷・宮谷等の數ヶ所に開坑し、且つ當時他の民を領内に居住せしむる能はざるの制なりしに拘らず、諸國より坑夫を募集するの特許を得、地方農民を雜役に使用して業務益盛運に向へり。その産額は、安永三年の頃灰吹金約二貫四百目なりしが、天明元年には増加して七貫三十匁に及びたりといふ。この金は悉く之をに上納し、之に對する報償として産金二十匁に對し通貨一貫目を受け、その利益は資本を提供したる主の間に分配せらる。後源次は金平の地内六橋に宏莊の邸宅を構へて住し、坑夫の妻子あるもの皆資を金山に借りて附近に家作し、芝居・淨瑠璃・三味線曳・易者・軍書讀などの來るもの絶えず、宛然たる小都會の觀を呈したりき。

 一、澤の金山は、十村澤村源次發起にて、明和七八年の頃、金平村の山を見立、少づゝ石を碎、其後かな山に馴し者を呼で、砂金洗ひ吹して、少の金氣を得たり。夫より掘子・金洗・金吹等追々に集り、山小屋・洗小屋・吹小屋等次第に建つゞき、金山と名の付しは安永二三年の頃也。此入用を償ふ主數十人出來、五厘・三厘或は五毛と歩を持事とはなりぬ。[山盛之時壹厘の賣買金廿兩よ り二十四五兩までに至る]同三年・四年・五年より盛にして、月々灰吹金二百目づゝ上納也。引替として左の圖(ツモリ)[二百目に 十貫目]にして渡れり。其節御褒美と有て、主は不殘脇指御免、一歩持に金一片づゝ拜領す。金山奉行木梨助三郎同之。安永六七年より天明三四年迄金出る事幾許也。聞傳ヘ〱他國より職人入つどひ、或は妻子を携來て、家を持もの數十人にして、軒をならぶ。
 一、其頃芝居有し。是も最初は淺間なりしが、日々月々繁昌し、小屋も立派に、迫り道・引道具、よき役者も多く、代り〱に入來り、中には家を持ち、此地にて妻子をもうけ、生涯を終し者もすくなからず。或は藝子・舞子の類、淨瑠璃・三味線曳・易者・軍書よみなど、代り〱に來り、都の花を移し、不思議の賑ひ成けり。他國より來り住むもの百人に餘れり。此者どもいかなる惡事あるも、他の役人よりいろふべからず、源次心任せに捌くべしとの仰出されにて、金山は一世界なりけり。
〔螢の光〕
天明八年二月金平金山を御手山となし、直接之を經營することゝせしが、源次の金山方主附たることは尚舊の如くなりき。この年の調査に據るに、鑛鋪は創業以來、新神樂・龜ヶ淵・百千鳥・華車・黄金坂・若緑・雛鶴・竹の奧・大山向・玉の井・初山吹・良川・峰の鶴・錦楯・大四つ笛・金の森・荒金・松金・相生松・金ヶ崎・百萬・綾之辻・花總・妹背山・銘月・福ヶ原・花染・滿藏・千羽鶴・金猩々・十寸鏡・金ヶ岳・金剛楯・瀧の壼・勝色・和國・龍門・小紫・相合笠・新百萬・寶萊・大島臺・千代の松・梅ヶ香・三笠山・勇龍・蔦かづら・葛城・長永・掛川・初聲・友引・敷島・蟹ヶ瀬の五十五ヶ所を算せり。その後寛政八年三月金山を以て再び源次の自稼山となし、文政二年三月又の御手山に復し、同十年より源次の子源之丞の自稼山に命ぜられ、九郎三郎を經て源三郎に至るまで繼續經營せり。この間亦多少の弛張ありしといへども、到底安永・天明の盛時に及ぶべくもあらざりしかば、大に復興に努力せしが遂に功を奏せず。文久三年九月三たびは之を御手山とし、建物諸機械を買上げて經營したるも、尚依然として微々たるを免れざりき。是に於いて源三郎は、金平住民の利益を圖り、更にに請願して、慶應二年十月自稼山とするの許可を得、以て明治年間に入れり。

矢田四如軒筆金平鑛山繪卷 男爵前田直行氏藏