第五章 殖産製造
第五節 鑛業
石川郡犀川の水源なる倉谷山に金銀坑あり。慶長十三年倉谷の農民新右衞門・八郎右衞門二人初めて之を採掘すといひ、元和・寛永中に至りて産出最も多額となる。葢し加賀の鑛山にして、業績の盛況を呈したるもの實に之を以て嚆矢とすといはる。
定 ○く ら 谷 山 一、金子倉谷山に而商賣可レ仕候事。 一、倉谷山三里四方之内見立山仕、金出申に付而者御案内可二申上一候事。 一、重倉に金ほり共町屋相立、可レ致二商賣一候事。 右條々、何樣之出入有レ之共、爲二山中一令二相談一、相究可レ申者也。 慶長十七年七月二日 河 内(奧村榮明) 出 羽(篠原一孝) 山 城(横山長知) 〔萬治二年以前御定書〕 御尋に付申上候。 一、山見立申者は、倉谷村新右衞門・八郎右衞門と申者之由申候。山さかり申儀は、八十ヶ年以前より二十四五ヶ年之間にて、御奉行數多御附被レ成候へ共、何れも御名覺無二御座一候。其時分御運上銀一ヶ年に百貫目許り上り申由承申候。但し年により高下御座候と承申候御事。 一、山さかり申時分は、家數は四百軒許も御座候由承申候へ共、其後家數も年々に退轉仕申候故、寛永十六年より御奉行御引被レ成、其砌より御會所樣御裁許に而、所々山仕に被二仰付一、御運上銀は一ヶ年五貫目・七貫目又は銀十枚二十枚之事も御座候。彌山退轉に罷成、萬治二年より御郡御奉行樣御裁許に罷成申候。今程家數二十五六軒も御座候處、御田地少も所持不レ仕候故、古まぶをさらへ少のかねをほり、渡世を送り申候。只今は御運上銀、一ヶ年銀六枚宛指上申候事。 右之通承及申に付書上申候。以上。 延寶八年十一月十日 倉谷銀山町肝煎 加右衞門 同 喜 兵 衞 〔貨幣録〕 夫れ人間の不仕合なる相を、つら〱觀ずるに、凡そ實なきものは、銀山初中(シヨチウ)終、魔のわざの如くなる旅人なり。されば未だ萬貫のかねを掘り出したりといふ事をしらず、實正しりがたし。今に至りて、誰か百目の灰吹をたもつベきや。我や先き人や先き、山さけいづるとも知らず、又いでん共知らず。おくれ先きだつ人は、元の銀すゑの人の贋吹よりしげし。あしたには當難ありて、タベにははや立ち行く身也。すでに公儀のはげしき風來りぬれば、則ち二つの穴忽ちに閉ぢ、一つのかねづる長く絶えぬれば、吹屋空しく變じて、旅人の姿消え失せぬ。土かひの鼻毛立あつまりて、歎き悲しめどもさらに其の甲斐あるべからず。是非もなきことなればとて、山小屋に至りて見分となりぬれば、から土のみぞ殘れる。あはれといふも愚なり。されば人間のはかなきとと、慾と智惠との境なれば、誰の人もはやく、商賣の一大事を心にかけて、情を出し申すべきものなり。あなこひし〱。 〔銀骨の御文〕 |