第五章 殖産製造
第二節 農業(中)
かくて十村の制度は久しきに亙りて行はれしが、積弊漸く甚だしからんとするものありしを以て、享和中一たび之を改めんとせしもその功を奏せず。遂に文政四年に至り斷然十村を罷め、百姓を直接郡奉行の所屬たらしめき。前に言へるが如く、改作奉行を廢して盡く郡奉行たらしめしもこの時の事にして、從來の無組御扶持人十村と御扶持人十村とは之を惣年寄と稱し、平十村は之を年寄並といひて、並びに郡奉行を輔佐せしめ、而して從來百姓は十村といへども苗字を唱ふるを許されざりしを、是に至りて惣年寄にのみ之を許し、天保六年には年寄並に及ぼせり。然るに郡奉行と百姓との間に仲介機關なきことは、徒らに御郡所の事務を繁雜ならしむるに止り、政績却りて擧らざるの憂ありしを以て、天保十年には又惣年寄・年寄並を罷めて十村の職を復し、百姓を十村支配とせり。この時以後無組御扶持人十村・御扶持人十村は苗字を許し、平十村には之を許さゞることゝし、以て藩末に及べり。
|