石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第五章 殖産製造

第一節 農業(上)

次いで利長利常治世たる慶長九年より十三年に亙りて、前田氏檢地越中國礪波・射水・新川諸郡に及び、元和二年には加賀能美石川加賀郡及び能登の各郡を檢地し、元和六年にも亦能登の羽咋・能登鳳至郡檢地したること改作方御定書に見え、而して珠洲郡の檢地も同年に行はれたること之を長家文書・金峰寺文書によりて明らかにすべし。是等は何れも惣檢地と稱せらるゝものにして、その中に江沼郡の名を發見する能はざるは、既に秀吉の時に檢地を終れる爲なるかと考へらる。かくて加賀・能登二國は、何れも三百歩一段の制に準據することゝなりたるが、越中諸郡に至りては、素より檢地の實施せられたるに拘らず、尚藩政時代を通じて三百六十歩一段の舊制を用ひたるは、その如何なる理由によるかを知るべからず。或は曰く、越中に大河多く、田園屢荒廢し、農民の負擔決して輕からず。是を以て故らに地積を寛にせしなりと。いづれにしても世人加賀・能登が三百歩一段たり、越中が三百六十歩一段たるの事實を論據として、秀吉の時巳に加賀・能登檢地を行ひしも、未だ越申に及ぶ能はざりしなりと斷ずるものあるは誤謬なり。

 一、今度檢地田畠一反に付而三百歩宛無相違樣に可打渡候。江川・道以下如此已前相除事。
 一、畠方折之事上中下により可相究事。
 一、去年・當年新開之地打わけ帳面にしるし可之候。並長不作同前事。
 一、藏納方在々所々田畠立毛上中下見積り、有來候年貢米相違之在所於之者、此度遂穿鑿相究事。
 一、田畠境目ふみ隱候百姓之に付ては急度可成敗候。若此度隱田之地有之者可申顯候。爲褒美隱田之地年貢米一作分訴人に可遣候。其上踏隱候百姓家屋敷宛行、後年迄肝煎可申付事。
 一、檢地之者共可自賄候。但ざうし薪・馬之糠わらは在所より可出候事。
 一、下々禮錢・禮物取不申候樣可申付候。若猥之儀有之付而は、不小者親類共に可成敗候事。付、禮物出候百姓同罪事。
 一、檢地之者共荷物もたせ候人足傳馬之儀、村づたひに召連可申候。其跡之乘馬一疋宛其在所よりやとひ可申候。此外下々猥に馬に乘候事有間敷事。
 一、在々所々小成物可相改事。

右條々若相違之儀於之者面々可越度者也。

    元和二年六月廿日
      御  檢  地  衆
〔慶長以來御定書〕
       ○

     已  上
 御歌致拜見候。然者御知行高之内鈴(珠洲)郡松波村に而、高百石は免均帳に御座候。元和六年より御檢地御帳面と御指引相施候通。
  一、三十六石五斗   立 壁 村
 一、五十五石     宮 犬 村
  但元和六年出分候故引足最前目録進之候。以上。
  一、八石五斗     同   村
   已上百石
 右分に元和六年より御帳面相究申候事に候。御受領に付而一判早々御報申入候。恐惶謹言。
    六月廿九日                   宮 崎 藏 人
                                重    光 在判
      長  九郎左樣
             貴  報
〔長家文書〕
       ○

 能州鈴(珠洲)郡金峰寺村御圖帳之事
   合
    六十一石七斗六升者    當   高
    此 内
    十石ハ          金峰寺領 
    一石四斗五升ハ      同人屋敷 
    一石四升ハ        長松寺屋敷
    〆十二石四斗九升也
  殘而
    四十九石二斗七升ハ    毛   付
     此物成四ッ五歩
 右除江溝道塚燒畑、打渡所如件。
    元和六年閏十二月十三日
                              岡田傳右衞門  在判
                              水野小兵衞   在判
                              上村八左衞門  在判
                              堀 伊 豆 守 在判
                              淺 野 將 監 在判
      百   姓   中
〔珠洲郡金峰寺文書〕