石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第九節 鑄工

鑄物師村山氏の初めて金澤に移りしものを新左衞門正久といひ、中居鑄物師新左衞門の第二子なり。正久のこの地に來りたる年紀は、明らかに之を知り得べからずといへども、その物故の寶永元年にあるより推考すれば、亦藩侯前田綱紀の盛世にあるや必せり。初代正久の子は、初名を徳松といひ、後に四郎兵衞と改め、その諱は正久を襲ぐ。父の歿せし時四郎兵衞尚幼にして家業に從ふを得ざりしが、配下の工人にして中居村の産なる權兵衞といふものありて、主家の爲に經營の任に當り、正徳四年四郎兵衞を伴ひて上洛し、御藏氏に就きて鑄物師たるの免許を得しめたりき。先に載せたる文書は即ちこの時のものなり。同五年四郎兵衞に命ずるに火矢方隱密方の職を以てす。火矢方は火矢銃炮を製する者にして、子孫亦之を世々にせり。四郎兵衞年老いて家を養子に讓り、寶暦七年歿す。三代正久は北川屋豐右衞門の二子なり。前代正久の女と婚し、家系を承けて名を四郎兵衞と稱す。亦嗣子なかりしを以て、宗家中居村村山氏の子を迎へてその女に配す。之を四代正久とし、已に家系を承けたりしも、安永五年養父に先だちて歿し、而して遺孤未だ家職を襲ぐ能はざりしが故に、三代正久再び職を攝し、寛政五年に歿せり。五代正久は三代正久の子なり。幼名を奧次郎といひ、後に四郎兵衞と改む。金澤新竪町名願寺の鐘銘に『寛政八年丙辰十月二十一日冶工村山若狹守正久』とあるは即ち是にして、同九年には金澤城鶴の丸の鐘を鑄たりき。城鐘の口徑は三尺七寸なりしといふ。文化十年正久又命を得て製鹽用の巨釜を造り、文政六年には前前田齊廣の隱棲する竹澤御殿に置く所の時鐘を製す。この時鐘は口徑四尺五分、高さ七尺七寸五分にして現に存し、その經費は二十四貫四百六十二匁四分八厘を要せしと傳ふ。初め村山氏の邸は野町に在りしが、この鑄造に際してに請ひ、泉村領の荒地若干を受け、こゝに工場を新設せり。爾後その地を住宅とし、天保元年に歿す。六代正久は幼名を吉太郎といひ、後に四郎兵衞と改む。四代正久の遺子にして、五代正久の後を受け、天保七年歿す。七代正久は幼名を半四郎といひ、五代正久の長子にして、六代正久に養はれ、家を襲ぎて四郎兵衞と稱せしが、天保六年養父に先だちて歿せり。八代正久は幼名を吉三郎と稱し、五代正久の第三子なり。兄七代正久の歿せし時、その子尚幼弱なりしを以て、吉三郎統を受けて四郎兵衞と改めき。嘉永六年命によりて江戸に往き、炮二十門を鑄造し、文久元年には兵學校たりし壮猶館御用を命ぜられ、鈴見鑄造場に於いて二十九拇(ドイム)の炮身一門及びその炮架を製し、三年功によりて二人扶持を給せらる。爾後炮丸鑄造の事に從ひ、明治七年を以て歿す。九代正久は幼名を半三郎といひ、七代正久の子なり。八代正久に養はれ、家を嗣ぎて四郎兵衞と稱せしも、文久元年養父に先だちて歿したりき。