加賀後藤の祖を市右衞門といひ、その系は、鈴木白龍の著書に左の如く載せらる。
七兵衞 七兵衞 七兵衞 七兵衞
市右衞門━┳━━清次郎━━━━詮清━┳━━久清━━━━清冷
┃ ┃
┃ ┃
┃ 才次郎 ┃
┗━━吉定 ┗━━清左衞門
〔裝劔奇賞〕然りといへども
加賀に在りて傳ふる所は、甚だ之と異なり。葢し前者の杜撰なるによる。
右兵衞 市右衞門 清次郎 七兵衞
市右衞門━━┳━清永━━━━━清重━━━━━廣清━━━━━清寅━━━┓
┃ ┃
┃ ┃
┃ 才次郎 才次郎 清左衞門 ┃
┗━吉定━━━━━忠清━━━━━清定 ┃
實清重二子 實詮清二子 ┃
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┃ 七兵衞 七兵衞 清次郎 清次郎
┗━━━詮清━━━━━久清━━━━━清冷━━━┳━清明
┃
┃
┃ 才次郎
┗━清永
〔金工系圖〕市右衞門の子清永は
越後に生まれ、その國守に
祿せられて三百石を食み、
寛永五年に歿す。清永一諱は清定、通稱右兵衞又は兵庫頭。是を以て甲州身延山に
寄進したる金燈籠には兵庫頭清永の銘あり。清永の弟を才次郎吉定といふ。亦
越後に生まれしが、
前田利常の
祿する所となり、後藤次右衞門と共に
貨幣鑄造の職たる
吹座を命ぜられしが、承應元年を以て歿したりき。後藤家譜に、
加賀後藤は才次郎吉定を初代とし、その
金澤に來れるは
慶長年中
利常が關東より歸りしとき命じて
供奉せしめしなりといひ、而してこゝに
慶長年中といふは同十八年なるべしとせらる。今
白山比咩神社に藏する眞柄の大太刀の裝具に、
寛永五戊辰暦十一月吉日加州
金澤住
後藤才次郎吉定と鐫せるは、即ち彼の作なり。吉定の子才次郎定次は
大聖寺藩分立の頃出でゝ之に仕ふ。是を以て吉定は兄清永の孫忠清をして家を繼がしむ。忠清老後の名は玄意、
元祿十七年三月歿。子なくして七兵衞詮清の二子清左衞門清定を嗣とす。清定明和五年十二月歿して亦子なし。こゝに於いて本系斷絶せしが如し。是より先、
前田利長の
高岡に
退隱せし時、清永の子市右衞門清重を召し、
扶持米を與へて細工に從事せしめしが、後
金澤に移り寛文四年二月歿す。清重の嫡子廣清は、初名を七兵衞といひ後に清次郎に改む。
利常之に
切米五十俵を賜ひしが、諸職人皆
切米を賜はざるの制となるに及び四人扶持を以て代へられ、寛文十年三月歿す。次いで廣清の子七兵衞清寅は
元祿元年十一月歿し、清寅の子七兵衞詮清は
享保五年正月に歿し、詮清の子七兵衞久清は安永二年八月歿す。久清最も葡萄と蜂との彫刻に長じ、曾て
寶暦二年
前田重煕が北野天神に
奉納せる寶刀の裝具を造る。久清の子に清次郎清冷あり。寛政十二年駒井甚助・高尾吉助と共に、
前田治脩が北野天神に
寄進したる寶刀附屬の赤
銅製裝具を作り、當時の名手と稱せられき。文化八年十月歿す。而して清冷の嫡子に清次郎清明あり、文政三年八月歿。清明の子に七兵衞清恒あり、嘉永三年八月歿。清恒の子に七兵衞あり、明治二年九月歿。又清冷の弟三子を才次郎清永とし、嘉永四年八月歿し、清永の子才衣郎は明治二年五月歿す。