第四章 美術工藝
第七節 冑工
兒島宗英は通稱を安右衞門といへり。父を金藏といひ、藩の製銃を掌り、文政二年歿す。金藏二子あり、長を安右衞門といひ、弟を宗英とす。安右衞門享和二年亦製銃工となり、文政十二年歿せしが、その時子安太郎宗直尚幼なりしを以て、宗英入りて統を承けたりき。初め宗英明珍宗好の門に入りて冑工となり、弘化三年三人扶持を給せらる。その技極めて精良、嘗て國老前田直信及び藩士藤田求馬の囑によりて、一百二十間の筋兜を製し、天下稀覯の珍品なりとの賞贊を得たり。求馬因りて之を藩侯の世子慶寧に上りしに、慶寧は大に喜び、嘉永四年更にその錣を造らしめき。是の年宗英歿し、子宗孝繼ぐ。宗孝初の名は金七、後に安右衞門と改む。嘉永六年町役の半額を免除せられ、安政元年三人扶持を給せらる。當時國情漸く騷然たりしを以て、宗孝の作る所甚だ多く、その技術も亦父の壘を摩せんとせり。之を以て藩は元治元年更に合力銀百五十目を増し、慶應元年積年の功を賞して金七百疋を與へしが、同年病みて歿したりき。宗孝の子金太郎家を繼ぎ、業未だ成らずして維新の政變に會せり。
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