石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第六節 刀工

二代甚六兼若は兼若系中隨一の名工なり。舊來の系圖にはその越中守を受領して高平と改號せるを寛永元年に在りとするも、作品より見れば元和七年より之を銘じたること明瞭なり。近來元和初期の年號ある高平を散見するも確實性を缺けり。甚六兼若の作品中慶長のものに在りては初代四方助に類し、好みて二本樋又は三本樋を掻き、刄文は五目亂を多しとするも、時に逆亂を混ずることあり。地鐵の精美にして姿態の均整せること言ふを用ひず。思ふに當時は父四方助と共に鍛造し、若しくは父の代作を爲したることあるべく、而してその雄作は古來多く志津に化せしめたるものあるべし。甚六兼若元和に入り、若しくは越中高平となれる後は、徐々に關風より脱却し、新刀の特色を顯著に發揮する傾向あり。即ち地鐵稍疎となり、刄文華麗に赴き、五目亂より轉じて箱亂を開拓し、或は洲濱亂の前提たるべき所謂兼若亂の範を後世に貽せり。之を要するに彼は加賀新刀界の先驅者にして、普く世人の賞を得、遂に酬いられて官名を受領するに至りしなり。その銘は兼若時代に在りては賀州住兼若造と六字に切り、三代以下の五字銘に比し書体著しく雅味を有し、その年號の最も古きものに慶長十四年二月の一作あり。又甚六の作品中慶長十六年三月日及び慶長十七年十月二十六日の二刀は、前に言へる慶長九年の四方助と共に、慶長中の三作と賞美すべし。而して受領の後は越中守藤原高平と多く切る。その歿年は不詳なるも、高平銘の最終と目せらるべきは寛永四年に在るを以て、略その時期を推知すべし。