石川県立図書館/大型絵図・石川県史

石川県史 第三編

第四章 美術工藝

第六節 刀工

この年七月版籍奉還を許さる。是に於いて金澤藩刀工切米代りを與ふることを止め、三年更に合力廢すると共にその扶持方を減少し、四年七月廢藩置縣に至りて殘餘の扶持方をも停止せること、明治四年十二月清次郎清光等が金澤縣に提出してその救濟を求めたる歎願書に見ゆ。但しこの文書中には聊か誤謬あるものゝ如く、天明(明和か)六年『職分爲御引立御細工所より右御米過分之子に御引直』といふも、決して優遇せられしにあらざりしこと、從來山刀十挺の上納を義務とせるを八挺に減ぜられたるを以て知るべきなり。たゞ末の待遇が文政の頃と異なりしは、その數量は不明なるも扶持米切米代りの外に町會所よりも合力を受けたる點に在るが如く、而して金澤藩治の後順次これ等の待遇停止せられたるなり。次いで金澤縣は清次郎等の歎願を却下し、是に至りて刀工保護の途全く斷絶す。

  乍恐奉歎願候。
 私共儀數代刀鍛冶職仕罷在候に付、往古は御米並炭山・居屋敷等も被下置寶暦九年より仲間共一統毎歳御切米二十俵宛頂戴被仰付、其上入精之者共え者爲御賞美三人御扶持頂戴被仰付天明(明和カ)六年米價下直に付職方爲御引立、御細工所より右御米過分之子に御引直し、御扶持方者前同樣(二人扶持カ)に耐職道取續來り候。然るに近年米價高貴に相成候に付、從前之通御切米に奉願上候處、仲間共一統御扶持頂戴被仰付、御切米代り頂戴之上、町會所より毎歳御合力下置、彌増職相勵罷在候。其後仲間共之内大病等相滯及大切候節者、早速御達申上、何れ茂在命中せがれえ御扶持頂戴被仰付候。元來私共之儀は、武器第一之品打立候職柄に付、前々より不絶被下方を以家内養育仕。依之御用立者勿論、御末々之御注文に至候迄、毛頭利欲に不拘數多打立、至極無難之出來に無之而者指上不申。夫が爲炭・鋼等莫大之諸雜用相嵩み累代極難澁に逼り候茂、是偏に皇國隨一之御道具、殊更神代以來歴世海内に重寶共被崇敬規模を以、聊不貧窮專ら職業に盡力仕候。然處舊來より之御切米代り一昨年より御指止、御合力も昨年より御渡無御座、曁御扶持方減少被仰付、自然と職道修行之義勢相泥み不心痛候へ共、幸ひ御一新之折柄前條之次第逐一奉言上、後代神州治國光武之御爲、格別之御詮議を以、私共職今一際御取立可願上存、從今度扶持方一統廢止被仰渡當惑候へ共、一般之御規則不止事御請仕候。併此儘に而者日々取續方に被心引、畢竟職道之實意取失ひ、數代相續仕候家傳も、是限に而退轉可仕と切に奉愁歎候。其上私共儀は幼少より晝夜職方に而已碎肝膽、外に活計之術無御座、就夫元祖より數百年來、時代之變遷に準じ樣々御見繼方之品替り候へ共、約る處全く御引立を以懲丹誠修行仕候へ共、上達之者は中々以古來稀に御座候。況此以後渡世旁刀劍打立候共、終に者數打同樣に可相成儀殘念至極奉存候。仍而甚恐多奉存候へ共、何卒出格之御仁惠を以、從御官邊更に劍工御用被仰付、職筋相當之被下方を以、家業再興仰付下候はゞ、年來願望之通難有御恩義を奉戴、彌以無懈怠精神鍛錬仕、子々孫々迄永々御用立申度念願に御座候。右之趣深く御憐察被成下、願之通御聞屆被下候樣伏而奉願上候。以上。
    明治四年十二月                  刀鍛冶  藤江 清次郎清光
                             同    松戸 榮次郎勝國
                             同    押水 甚藏正國
                             同    木下 甚吾兼豐
                             同    山田久右衞門兼政
                             同    永井 保之丞信義
                             同    洲崎 幸次國光
                             同    杉本 丈次郎信友
      金  澤  縣  廳
                         市  長  岡  部  勤(奧書)
 本文(指令)一般之御取置方に指障難聞屆候也。
    辛未十二月五日          勸  業  係 印
〔藤江氏文書〕